第4話 

 テーマパークのような賑やかな雰囲気というよりは、博物館を徹底的に再現したような厳かな雰囲気を漂わせる大きな建物。

 電車を降りて駅を出た俺たちの視界に嫌でも入ってきたそれこそが今日の目的地であり、一年ぶりに来る思い出の場所でもある水族館だ。


「祐樹くん、あの……」

「わかってるよ」


 水族館の入り口に到着して二人分の入場料を払った俺は、続いて奥のエントランスホールに足を踏み入れる。

 そこで嫌でも気づかされるのは所々に書かれた案内が一年前のあの日とは違ってただの文字の羅列にしか見えなくなっていることと、あの日、浮き足立っていた俺たちを出迎えてくれた生き物のオブジェを見ても写真を撮りたいと思わなくなっていること。


 まあ単純に二度目だからという理由もあるかもしれないが、やはりこの状況では懐かしさのようなものはあってもここに来た感動やそれに近いものは持てそうになかった。


「ここが水族館……」


 子供の付き添いできた親の気持ちが少しだけわかったような気がしたその時、見計らったように背後から可愛らしい声が聞こえてきた。


「……何か思い出せたか?」

「あ……。い、いえ、まだみたいです」


 俺がわざわざ振り返って問いかけると、彼女は窮屈そうに答える。


「ふーん……。ってことはさっきのはただ浮かれてただけだってことか」

「ご、ごめんなさい……」

「もちろん楽しむなとまでは言わないけど、今日の目的が記憶を取り戻すことだっていうのは忘れないでくれよ」

「はい……わかりました……」


 俺の言葉にあからさまに落ち込んだ様子を見せる彼女からは、俺の意図が伝わったのか伝わっていないのかが全くわからない。

 だがここがまだ旅の序盤の焦る必要のない時間帯だということもちゃんと理解している俺は、その後すぐに彼女から視線を外して目前に迫るフロアを見据えた。


「……そうそう、ここだったな」


 まるで別世界へと続く入口のように徐々に薄暗くなっていく空間を後ろにいる彼女と一定の距離を保ちながら進むこと僅か数秒。

 そこでようやく俺たちは自分の背丈より少し大きいくらいの水槽が両サイドの壁に果てしなく敷き詰められている一本の長い通路、つまり生き物たちが待つ最初のフロアへと到着する。


「一つ目のフロアに着いた」

「ここが……」


 釘を刺したのが効いたのか、彼女は真顔で周りを見渡す。


「俺はなるべく一回目と同じようなルートを歩くようにするけど、迷子にならない程度になら好きに見て回っていいよ」

「い、一緒に回らなくていいんですか?」

「自分のペースで歩いた方が集中できるだろ。まあたまには気にかけるけどさ」


 俺はそれだけ言うと、この一年前に来た時にも通った思い出の場所を歩き出した。


 ただそれは自分の感情を優先した無責任な行動というわけではなく、俺がいない方が彼女が伸び伸びと記憶を取り戻すきっかけを探せるだろうというちゃんとした考えがあった上でのことだ。

 まあもちろん並んで歩きたくないという思いが少しもなかったわけではないが、記憶のことと俺たちの状況を合わせて見た時にこちらの方がメリットがあると考えるのは当然のことだろう。


 そういうわけでさっそく俺は放っていた彼女が俺の意図をちゃんと理解しているのかを確認するために一度後ろを見た。


「わぁ……」


 聞き慣れたその声は確かに彼女のもの。

 つまり彼女はちゃんと俺についてきていたことになるが、そこで目に入ってきた光景に俺は思わず固まってしまった。

 

「……人の話聞いてたのか」


 さっきまで俺の後ろをトボトボとついてきていた彼女を発見したのは水槽の前。

 そこでガラスに手をつきながら夢中になって生き物を観察している彼女は、今まで見なかった幸せそうな表情を浮かべていた。


「……しょうがないやつだな」


 あれだけ念を押していたにも関わらず彼女は明らかに目的を忘れて楽しんでいる。

 まるで水族館に遊びにきた小さな子供みたいに。

 ただ流石にこの姿を見て注意しようとは思えなかったので、俺は悩んだ末に彼女が満足するまで待つことにした。


 その後も当然のように俺たちの間には友達らしい会話も恋人らしい会話も一切なく、物理的な距離が遠いままなのも変わらなかった。

 ただ気になる生き物を見つけたら水槽の前で立ち止まって、満足したら歩き出してを繰り返す彼女にいちいち口を挟まなくなったところ。

 或いはそんな彼女の歩く速さに自分の歩幅を合わせるという小さな気遣いをするようになったところはさっきまでとは違った。


 そしてそれらが功を奏したのかはわからないが、暫く後ろを歩いていた彼女がちょうど水槽と水槽の間の何もないところで急に足を止めた。


「おい、どうした?」


 今までにない行動を取った彼女に少し期待を込めて話しかけてみたが、残念なことに俺の声は届いていない様子。

 そこで俺は何かヒントが得られるかもしれないと、彼女の視線の先を追ってみた。


「……かわいいね」

「……うん」


 彼女の視線の先にいたのは生き物。

 ただ生き物は生き物でもそれは見覚えもなければ、見た目や会話に目を引くほどの何かがあるわけでもないカップルの姿だった。


 その時点でもう既に状況が飲み込めないが、前にも言ったように記憶を無くしている彼女の行動は恋人だった俺でも正確に読み取ることはできない。


 つまり考えるだけ無駄だ。


 そのことにいち早く気づいた俺は彼女の謎の行動に構うことなく最初の位置に視線を戻そうとした。

 だがその時、突然右手に何かが触れてきたせいで俺はまた視線を動かすことを余儀なくされた。


「祐樹くん……」

「え……」


 振り返った先にいたのはもちろん彼女だ。

 なのに俺がそんな素っ頓狂な声をあげたのはさっきまで話すことさえ覚束なかった彼女が俺の右手をぎこちなく握っていたから。


 当然、俺はそのありえない状況に頭が追いついた瞬間、声を出すよりも先に彼女の手を振り払った。


「な、なんだよ急に」


 少し遅れて怒気の籠った声を出すと、彼女は何故か入り口付近の通路で見せたあの落ち込んだ表情を見せる。


「これは……なんていうか……」

「いいからちゃんと説明してくれ」

「こ、恋人だから……。あの人たちと同じようにしたら、ここの思い出も少しは思い出しやすくなるかなって思って……」


 俺はそれを聞いて一瞬、声を詰まらせる。


「……いや、電車に乗ってる時も言った思うけど水族館は付き合う前に来た場所だから、ここでは恋人みたいに手を繋ぐようなことはなかったよ」

「そ、そうだったんですか? それなら私なんてことを……」

「ま、まあそれは別にどうでもいいんだけど。それよりも俺が言いたいのは恥ずかしがるくらいなら無理してがんばらなくていいってこと」

「でもわざわざこんな遠いところまで連れてきてもらった上にお金まで出してもらって……。だから私も迷惑をかけないように出来るだけ早く記憶を取り戻そうと思って、それで……」


 夏の話を聞いて何となく見えてきたのは、今までの一連の行動がこの行き詰まった状況に責任を感じてのものだったということだ。

 最初は何も考えていない能天気な子供という印象しかなかったが、どうやら全てがそうではなかったらしい。


「あー、そう言うことね……」

「変なことしてごめんなさい。やっぱり嫌な気持ちにさせちゃいましたよね……」


 そこで俺はさっきよりも長く声を詰まらせた後、素直に矛を収めた。


「……うんうん、急だったから驚いただけだよ。これぐらいは恋人なら普通だし」

「ほ、ほんとですか……?」

「ほんとだよ。それよりほら、邪魔になってるから早く次のフロアに行こう。まだまだ見るところはいっぱいあるから」


 いつもより少しだけ棘を抜いた言葉をかけてみると、彼女はそれだけで表情に明るさを取り戻し、遂には何事もなかったように水槽に囲まれた通路を歩き出した。


 俺はそんな彼女の後ろを同じように何事もなかったような顔で歩きながら、さっきまで彼女の手が触れていた自分の右手を何となく見つめる。

 顔を少し赤くしながら握ってきた小さくて暖かいあの手は、記憶をなくしていても間違いなく別れた恋人の握り慣れた手だった。

 それは同じ人間なので顔を確認するだけでわかるが、手の大きさや暖かさや感触が変わらないから俺には少し触れただけでもわかる。


 そしてその手に触れられて真っ先に俺が持たなければならない感情は当然、羞恥心でも幸福感でも嫌悪感でもなく罪悪感。

 それはよく考えなくても別れた恋人の手と、その手に偶然触れるというキーワードが全てを物語っているし、実際に俺たちの関係が終わった日に繋いだ時は罪悪感を抱いている。


 だからさっきも言ったように今回もそうならなければならない。

 何ならそれ以外はありえないし、あってはいけない。

 俺の手に偶然触れたあれはそんな手だった。


「っ……」


 なのに俺は彼女に触れられたとわかった時、不覚にも少しだけドキッとしてしまった。

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