第3話 観覧車
僕は放課後、いつものように図書室で本を読んでいた。あれから1週間が経った。
あの時以降、森本いずみは学校に現れる事はなかった。僕は少し自分がした事を後悔していた。怒りにまかせて彼女の頬をビンタしたことだ。どんな理由があれ、女の子に手を挙げるなんて最低だ。やっぱり謝ったほうがいい、そう思った。メッセージを送った方がいいのか、大事な事だから直接謝ったほうがいいのか、直接謝ると言っても、学校に来ないんだから謝る事もできない。いろんな考えが頭の中を巡った。本を読んでいても、集中できなかった。あの日の彼女の泣きそうな顔が、頭の中をぐるぐると回って、本の内容が頭に入らなかった。
その時突然、森本いずみが図書室に入って来た。今日、授業にも現れなかったのに、放課後僕にわざわざ会いに来たのか、いきなり僕の目の前に立った。彼女は僕を見るなり、わざとらしくこう言った。
「あー、ほっぺが痛いなぁ……なんでかなぁ……」
僕は椅子から立ち上がり「ごめん」と言って、頭を下げた。彼女は僕に右手を差し出した。
「慰謝料100万円」
「えっ……」
「嘘。いいよ。許してあげる」
「あの晩はさ、叔父が亡くなったり、いろいろあって。悪かった」
「もういいの。そもそも嘘ついた私が悪いんだし」
考えてみればその通りだった。確かに彼女に手をあげたのはマズかったが、真夜中にひどい嘘つかれて、公園に呼び出されたほうが、もっとひどい事だった。そう考えると、彼女にわざわざ許してもらうは必要はなく、どちらと言えば、僕の方が許す側なのだ。しかし、罪悪感に苛まれていた僕は、完全に彼女のペースにハマってしまっていた。
彼女はいたずらっぽい笑みを浮かべて、僕にこう言った。
「許してあげる代わりに、条件がある」
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学校から電車で30分くらいの海沿いに大型ショッピングモールがあり、その施設の一階には観覧車があった。ショッピングモールには行ったことがあったものの、観覧車には乗ったことはなかった。
しかし今、僕は森本いずみとその観覧車に乗っていた。僕が彼女にビンタした事をこれでチャラにしてくれるらしい。彼女は観覧車の中で子どものようにはしゃいだ。日が落ち、街の明かりが灯り始めた頃だった。深い空の青が袖から暗闇に染まっていくみたいに、夜が始まろうとしていた。
「ほら、見て!海が見えるよ」
「海見たことないの?」
「こっちはめっちゃ夜景が綺麗」
彼女はいつになく興奮していた。元気そうな彼女の様子に少し安心していた。浮かない顔の僕に彼女は肩をポンポン興奮して叩いた。
彼女は「ほらほら」と言って、外の景色を指差しながら飛び跳ね、観覧車を揺らした。
「やめろって!高所恐怖症なんだよ!」
「マジで?」
しまった!彼女は人の弱点が大好物だったんだ。彼女はいじわるそうな表情を浮かべ、さっきよりも激しく飛び跳ねた。彼女は僕の腕をつかんで立たせようとした。
「やめろって!」
「もうすぐてっぺんだよ!てっぺんに来たら一緒に写真撮ろう」
「やだよ」
「なんで!」
てっぺんに来ると彼女は有無も言わさず僕の隣に座り、強引に僕の顔を引き寄せ、スマホで写真を撮った。彼女はスマホの写真をチェックして、「カズ、変な顔」と言って笑った。
その写真を僕に見せた時だった。
ふいに左手首にある無数の傷が見えた。それはナイフで切りつけたような無数の線が左手首に沿うようについていた。リストカットの跡だ。僕が思わず「それ……」と言うと、彼女は焦ったように左手を隠した。
「アスファルトの上で転んじゃってね……」
彼女は小さな声でつぶやいた。明らかに嘘だった。彼女のハイテンションが、空気の抜けた風船のように、急速にしぼんだ。
その後は、二人とも無言のまま、観覧車は地上に戻った。観覧車に乗ろうとする人は少なく、あたりは人影は見えなかった。
森本いずみは観覧車を降りると何事もなかったように、「これからどうする?」と僕に訊いた。僕は「腹減ったから帰るよ」と言うと、森本いずみは寂しそうな顔をして「だよね」と言った。梅雨前の湿気を含んだ生暖かい風が僕らの間を通り過ぎていった。
僕はさっきのリストカットの跡がどうしても頭から離れなくて、森本いずみに言った。
「あの……左手首の傷……自分でやったんだろ?」
森本いずみは何も答えず、うつむいた。僕はマズい事を聞いてしまったと感じ、とっさにそれを誤魔化すために彼女に言った。
「やっぱ、メシ行くか。腹減りすぎて家に着くまでに飢え死にしちまうわ」
彼女は顔をあげて笑って言った。
「親に100万円もらったから、奢ってあげる」
「また嘘だろ?」
「あーっ!今の20回目の最後の嘘だったのに、超つまんないの言っちゃった〜……」
森本いずみは頭を抱えた。でも彼女は心なしか、嬉しそうだった。
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