8 自主公演・本番
翌日。とうとう、本番の日。やれることは存分にやってきた。
「織江さん、何の用事だろう」
独り言ちながら、部室棟の屋上へと昇る。川嶋先輩から借りた鍵を使って、扉を開ける。雲一つない満面の青空だ。
授業が終わって、部室に向かい、緊張が高まってきたところでチャットが送られてきた。十二時半に少しだけ電話をかける、というのだ。本番は一時半から。まだ余裕はあるものの、できれば休んでいたかったのが本音だ。
織江さんとは連絡先を交換してはいたが、これが初めて送られてきた連絡だった。
「……もしもし、幸村です」
十二時半ちょうどに電話がかかってきた。時間にはきっちりしているようだ。
『やっほ。久しぶり~』
「お久しぶりです」
忙しいだろうに、慌ただしさや疲れを感じさせない、快活で明朗な声だった。
『茉莉也から聞いてるよ。今日が本番だってね』
「はい」
『ごめんね~、ちょっとだけ時間ちょうだい。五分だけ』
「問題ないですけど、どうしました?」
『よくも妹に手を出してくれたね』
急にドスのきいた声。ズドン、とくる重さが鼓膜を撃ちぬいた。
「い、いや、まだ何も」
慌てて言い訳。実際、まだ何もしていない。いずれは……と思ってしまうが、まだ何もしていないのだ。
『冗談だよ』
一転して鈴を転がしたように笑う織江さん。冗談か本音かわかりづらい。
『まだ、ねぇ』
「いや、それはその」
『だから冗談だって』
だって、妹を溺愛するお姉さんだもん。失礼があったらまずいじゃない。今から関係を悪くしたくはない。
『こないだ、日下部と会わせたじゃん? あれ仕組んだの、茉莉也なんだよね』
「え」
出し抜けの告発に、思わずスマホを落としかけた。
『自分の気持ちを整理したかったんだって。幸村くんと日下部が仲良く話している姿を見たら、いったいどんな気持ちになるのか。それを知りたかったみたい』
それって、俺に置き換えると、神崎と戸倉が仲良く話しているのを見せつけられるのに等しいわけで……なんという荒療治だ。
『あと、幸村くんが日下部のことどう思っているのか、それも知りたかったみたいだね』
そんな勘違いするような場面、あったかなあ。
川嶋先輩との一件がある以上、俺が何か言う資格もないのかもしれないし、当事者ってそういうことなのかも。岡目八目。逆もまた然り。
『ま、うまくいったようで何より』
「ありがとうございます」
電話越しなのに、深々と頭を下げてしまう。裏ではお世話になっていたわけなんだな。
『あ、でも、無条件で認めたわけじゃないから』
「え」
頭を下げたままスマホを落としかけた。
『まだ一回しか会ってないからね~。茉莉也が選んだんだから信じてはいるけど。追々、試練を与えていかないとかな』
「お、お手柔らかに……」
プルプルと手が震え始める。スマホ落としそう。
『茉莉也をよろしくね』
優しく、温かさに満ちた声だった。顔が見えないのに微笑んでいるのがわかる声。
一つ息を吸って、背筋を伸ばして佇まいを直す。
「もちろんです」
『よし』
満足げな織江さん。
真摯に向き合ってくれている。俺はそれにどれだけ報いることができるだろう。
頭の中に神崎の顔を浮かべる。カッと顔が熱くなった。この気持ちを大事に、そして、神崎を大切に。
『舞台、頑張ってね』
「ありがとうございます」
電話を切って、青空を見上げる。俺の知らないところで色々と動いていたんだな……いや、俺が鈍いだけなのか。
踵を返し、屋上から中に入ると、三階の廊下でバッタリ太一と出くわした。
「や。緊張してるかと思ったけど、杞憂だったみたいだね」
「太一……」
俺の様子を見に来てくれたのか。
いつも通りのマイペース。そんな太一の顔を見ていると、一つ思い浮かんだことがあった。
「なあ。太一」
「何?」
「神崎に水族館のこと、話したか」
神崎がデートの練習に選んだ場所、水族館。なぜ神崎は水族館を選んだのか。たまたまではないのではないか。そう思い始めていた。
「今頃気づいたの?」
「やっぱりかよ……」
俺は顔を押えて天井を仰いだ。何かピンポイントな気がしたんだよなあ。動物が好きって言ったことないのに、初っ端のデート場所が水族館だもんなあ。
「颯斗」
「何だよ」
太一は俺の肩をポンと叩いて言った。
「颯斗ってさ、鈍感だよね」
「うるせえやい」
軽くパシンと太一の頭を叩いてやった。
もちろん、感謝の気持ちも込めてだが。
衣装に着替え、部室で軽い活舌の練習を済ませ、小道具を持ちながら誰にも見られぬように大講堂の裏口から中に入る。
「これは……凄いですね」
舞台裏から、下りている緞帳の横、脇幕からそっと観客席を覗き見る。
ビラ配り、新聞部協力の宣伝もあってか、はたまた峰岸先輩目当てか、なんと百人ほどの生徒が集まっていた。全校生徒の十分の一ほどだ。
「言っておくが、文化祭はこの比じゃねえぞ」
二百人以上は絶対に入るからな、と川嶋先輩に脅される。高校生の演劇は、注目度は低いけど、それでも小規模な劇団よりよっぽど入るのだと。
「ま、気にするなって。俺みたいなエキストラが出演してるんだ。しかも自主公演と銘打っている。気楽にやってくれ」
田中先輩がポンポン背中を叩いてくるが、むしろ緊張が高まってきた。心臓が飛び出しそうだ。
神崎を見遣ると、目が合った。ボッ、と神崎の顔が赤くなった。
それを見て和み、昨日の緊張と比べたら何でもないかも、と思い直す。むしろ楽しむ余裕が出てきたかもしれない。
「それじゃあ、円陣でも組もうか。大声は出せないけど」
昨日と同じように、峰岸先輩を中心に、真っ暗な舞台裏で円陣を組む。
「さて、この二か月間。ご苦労だった」
「終わった後みたいじゃねえか」
「ははっ。残りは遊びみたいなものだ」
さすがに遊びとまで言い切ることはできないけど……でも、どんどんワクワクが込み上げてくる。本番前の緊張感。楽しみで楽しみで、駆け出したい気分だ。この情熱を、そのまま演劇に転化させる。
「目一杯、舞台の上で遊んでこようじゃないか。私たちが楽しんで、お客さんを楽しませる。単純だ」
「何が単純なもんか」
峰岸先輩がニヤリと笑ったのが、暗闇でもわかった。口ぶりとは裏腹に川嶋先輩が笑っているのも。
「では、行こう。私たちの、新生演劇部の門出だ」
観客席からざわめきが起こる。客電が落ちたらしい。一分前の合図だ。
気がつくと神崎が横にいた。いや、円陣のときからずっと横にいたのだろう。
神崎が俺の手を握った。震えが伝わってくる。たぶん、俺も震えている。
「緊張する」
「俺もだ」
「見守ってる」
「ああ」
きゅっと、強く手を握り締める。
「全力を出し切ろう」
こくりと、神崎が頷いたのがわかった。
ジュリエット『たった一つの私の恋が、憎い人から生まれるなんて。知らずに逢うのが早すぎて、知ったときにはもう遅い。憎らしい敵がなぜに慕わしい。恋の芽生えが、恨めしい。』
神崎の声は伸び伸びとしている。震えるような悲しい声なのに、パワーがあって突き抜けている。悲しいからって小さい声では本末転倒。力強く、そのうえで、悲しい声色だ。
ジュリエットは最初、ロミオの素性を知らない。知らぬまま親交を深め、恋に落ちていく。
俺は出会った初日に神崎の素性を知ったわけで、そういった意味では、真にロミオたちの心情を理解していないのかもしれない。
同じと言えば、互いに憎みあった点か。ロミオたちと比べれば些細なすれ違いだけど、すれ違ったことは事実。それでも今は手を取り合い、先に進むことができる。
それすらも許されないロミオとジュリエットは、あの苦しさをずっと背負わなくてはいけない。なんと悲しいことなんだろうか。
俺たちは、わかり合える。言葉を交わすことでわかり合える。そのための努力をしないのはもったいない。今回の件で、俺はそれを学んだ。
ジュリエット『ああ、ロミオ、ロミオ、どうしてあなたはロミオなの。』
神崎は、「私を、私として見てくれた」と、そう言った。自身のアイデンティティと、神前織江の妹であることと、その狭間で揺らいで。織江さんの妹だとか、俺には関係のない話だけど。
どうしてジュリエットだったのだろう。その名を冠しているからこそ、二人は出会ったともいえる。それが最大の幸福で、最大の不幸だ。
ロミオ『わが恋人に乾杯!』
直前、パリス役の峰岸先輩と斬りあうアクションをしている。かなり疲れがたまっているけど、峰岸先輩の迫力に引っ張り上げてもらった。疲れより、興奮の方が高まっている。周りに支えられて、俺はここに立っている。全員で造り上げる。これが演劇だ。
ぐっと毒をあおって、ロミオは自殺をする。愛する人と、冥府でともにありたいと思うほど、恋に身を焦がして。
神崎を不安にさせない。そう誓うのは自由だが、きっとそう簡単にはいかないのだろう。これからも困難が待ち受ける。それを乗り越えたとき、一緒に笑い合えるように。
そしてジュリエットとの口づけ。残念ながら、あくまでフリなのだけれど。
ジュリエット『その唇にキスを。まだそこに毒が残っているかもしれない。』
演劇は進み続ける。いずれ終わりは来る。
川嶋先輩演じるエスカラス大公の言葉をもって、幕が下りる。
もう少し続けていたいと名残惜しく思う。けれど、これにてお仕舞。
緞帳が下り切って、照明が落ちて、一時の静寂が訪れる。
瞬間、緞帳の向こうから、割れんばかりの拍手が起こった。
ちゃんとお客さんのために演じることができたのだとホッとした。そして自分の成長を感じられた。きっとそれは偽善的な考えだろう。いつだってそうあるべきで、意識しないで演じ続けることが真の成長で。
でも、俺にとっては確かな一歩だった。
「整列だ」
峰岸先輩の言葉に顔を上げる。
ゆっくりと照明がつき、役者一同、横一列になって並び、頭を下げる。
今日までの練習と、神崎に想いを伝えるまでの一部始終が浮かんでくる。感情の奔流が胸の中を埋め尽くしてぐるぐると回り続けた。
緞帳が上がっていく。拍手が直に耳朶を打つ。涙が溢れ出しそうだった。
峰岸先輩が一歩前に出た。それと同時に顔を上げる。
お客さんたちの笑顔、万雷の拍手。
きっとこの光景を、俺は一生忘れないだろう。
「本日は誠に、ありがとうございました!」
峰岸先輩の声に合わせ、もう一礼する。ひときわ拍手が強くなる。
緞帳が下りていく。永遠のようにも、刹那のようにも思えた。
しばらくして、お客さんの喧騒が耳に飛び込んできた。帰り始めているのだろう。
ほぅっ、と息をついて、視線を横にずらす。仲間たちと目が合った。
まだ大きな声は出せないけど。近くの仲間と、一人ずつ、パン、とハイタッチを交わした。
心地いい疲労感に包まれながら、みんなで笑いあった。
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