7 喫茶店にて、神崎と

「幸村くん」


 次の土曜日。残念ながら練習は午前だけ。午後は吹奏楽部が大講堂を使うからだ。

 その休憩中のこと、神崎が何やら難しい顔で話しかけてきた。


「午後、空いてる?」

「空いてるけど、どうした? 悩み事?」

「悩み事と言えば悩み事?」

「なぜ疑問形」

「その、思いつきだから迷惑かもって」


 律義と言うか、気にしいな性格が、いかにも神崎らしい。もっと軽いノリで構わないのではないが、これが神崎のいいところでもあるわけで難しい。


「放課後と土日は大概暇だから、問題ないよ」


 自分で言ってて悲しくなるが、事実だ。

 いいんだ。俺は青春を部活に捧げるんだ。


「『ロミオとジュリエット』の本を、買いに行こうと思うの」

「台本はあるのに?」

「うん」

「あれ? 神崎って、原作、買ってなかったっけ?」

「買ってるけど」


 と、手に持った台本に目を落とす。


「川嶋先輩の台本は、六年前の文化祭のをリメイクしたものだから。大元の脚本があって、それを参考に作られている」


 そういえば、著作権の確認が云々って峰岸先輩が言ってたっけ。


「でも、『ロミオとジュリエット』には原作がある。そして、翻訳もたくさんある」

「その翻訳本を買ってこようって?」


 力強く神崎が頷いた。なんだか楽しそうで生き生きとしている。


「翻訳者の色は、凄く濃い。個性が出る。同じ言葉も、言い回しが全然違う。英語圏特有のジョークを日本語風に直したり。特徴が出る」


 なるほど。日本語特有のことわざなんかがあるように、イギリス特有の表現があったりするわけか。それを再現するのは翻訳者の腕の見せ所ってわけだ。


「じゃあ、いくつか読み比べてみるつもりってことか」

「出来れば、原作を直訳して、それとも比べてみたい」


 参った。神崎は俺よりもはるかに深く考えている。それに勉強熱心だ。自分が情けない。


「それで、まずは翻訳を一緒に読み比べてみるの、どうかなって。感想とか言い合った方が勉強になると思うから」

「行く。是非。ありがとう」


 ひとまず反省は後だ。わざわざ誘ってくれたのだ。ありがたく申し出を受け入れよう。


「こっちこそ、ありがとう」


 おかしいな。俺、別にお礼を言われる立場じゃないはずなのに。

 強気になったり、弱気になったり。でも、芯はしっかりしている。それが神崎なんだ。


 そんなこんなで、部活が終わると、早速学校の近くにある書店へと足を運んだ。

 天ヶ崎駅前にはショッピングモールがあって、そこにも書店はあるのだが、学校そばの書店の方が品ぞろえは豊富だ。駅とは逆方向にあるのが難点だが、だからこそかえって天ヶ崎校生がそれほど多くないのが、少し落ち着いていて好印象だ。書店にとっては嬉しくない話だろうけど。


 もう一つ、ウキウキさせる理由がある。

 何と言っても、今、俺は同級生の女子と一緒に買い物をしているのだ。これで興奮しないわけがない。たとえわずかな時間であってもだ。


「ええと、これで全部、かな」


 神崎がスマホを操作して翻訳者名を調べる。主要な本は全部揃えておいた。計四冊。実際にはもっと出版されているのだが、古いものも多く、取り揃えられてはいなかった。わざわざ取り寄せするのも何だし、四冊もあれば上等だと思う。


「どこで読もうか」

「部室、はもう閉まってるから……」


 再び神崎がスマホを操作し始める。指の動きが素早く、ちょっとイメージと違っていて、なんだか面白い。案外パソコンのタイピングとかも速いのかも。タタタタタターン、とキーボードを叩く神崎を想像してみた。これはこれで可愛らしい。妄想だけど。


「近くに喫茶店がある。そこでいい?」

「オッケー。お金は大丈夫?」

「問題ない。このために、貯金をおろした」


 凄い気合の入りようだった。って言っても、喫茶店は予想外の出費だろうに。

 俺の場合は神崎とお茶できるのだから、多少の出費は痛くもなんともないですな。


「それじゃあ、買ってくる」

「外で待ってるよ」


 神崎はちょこちょこと早歩きでレジに向かった。後姿が微笑ましい。

 書店の外に出ると、少し蒸し暑かった。じっとりとした湿気が肌にまとわりつく。もうすぐ梅雨なのだなあ、と青天を見上げる。


「お待たせ」


 神崎は、左手でカバン、右手で本が入った紙袋を胸の前で抱えていた。


「お金、あとで喫茶店で払うよ」

「それ。お金のことなんだけど……この本、読み終わったらどうする?」

「うーん……どうしようか。部室に置くか?」

「だとしたら、部費で落ちるか、先生に聞いてみる」

「なるほど。その手があったか」

「私もさっき思いついた。先輩か先生に相談しておくべきだった」


 色々なことで頭が回るものだ。そして俺は考えなしだ。


「一旦、私が出しておく。わかりやすいように」

「了解。それまでに金が入用になったら言ってくれ。貸すから」

「そのときは、ありがたく」


 神崎がふっと笑う。髪がサラリと揺れて、整った顔立ちが露わになった。少し恥ずかしくなって、ふいっと顔を横に背けてしまった。


「あー……それじゃあ、行こうか。案内頼む」


 動揺を悟られないように話を逸らす。まったく。免疫がなさすぎる。


 二人連れだって、ゆっくり歩き始める。俺は右隣の神崎を、ハラハラしながら見守った。

 別にスマホの画面をじっと見ているわけじゃなく、都度立ち止まっているのだが、何とも危うさを感じてしまう。長い前髪で前が見えてないんじゃないかとか、余計なことを考えては心配が募る。杞憂ならいいんだけど。


「ここ」


 神崎の声に顔を上げる。いつの間にか目的地に着いていたようだ。おいおい。前が見えていないのは俺の方じゃないか。


「思ったより、雰囲気のいいお店」


 洋風な外観で、オシャレな外観。喫茶店というか、カフェというか――あれ? 喫茶店とカフェの違いって何だ?

 ともかく、高校生一人ではハードルが高くてとても入れそうもないような、そんなシックで洒落た雰囲気だった。


「あまり、大きな声は、出せなそう」

「そうだな。でも、小声なら大丈夫かな」


 窓から中を覗くと、昼下がりのマダム、といった感じの女性が二人、テーブルで談笑している様子が見えた。これなら高校生二人が話をしていても問題ないだろう。ただ、入店のハードルは少し上がった。だってあのマダムたち、品が溢れてるんだもの。


「ここで、いい?」

「俺はたぶん平気。神崎は?」

「私も、たぶん平気」


 たぶん、という俺の頼りなさげな思わず口から突いて出た言葉を真似して、神崎が口元をほころばせた。

 二人でなら、怖くないでしょう? そう言いたげな、いたずらな笑みだった。


 まったく、敵わないなあ。


 俺が笑い返すと、神崎は一つ頷いて扉を開けた。ドアベルがチャリンと鳴って、女性店員の「いらっしゃいませ」、という落ち着いた声が聞こえた。


「何名様ですか」

「二人、です」

「お二人様ですね。こちらにどうぞ」


 テキパキと、窓際の明るい席に通される。スタッフは、マスターと店員さんが一人。クラシック音楽が流れる店内に、マダムたちの談笑が溶け込む。笑い声で品を感じ取れる。やっぱりな、という感じだ。他にも客は数人いるが、誰一人店の雰囲気を壊すことなく振舞っている。俺も気をつけないと。


 メニューを開くと、まあまあの値段だが、思ったほどではなかった。もし高校生ごときが来ちゃいけないような高級志向の店だったらどうしよう、と恐怖していたところだったので安心した。


「うぅ。悩む」


 と、神崎がポツリ呻った。


「コーヒー、好きなの?」

「それなりに。お母さんがこだわるから。家でサイフォン使ったり」

「……サイフォン?」


 訊ねると、神崎がカウンターを指差した。ビーカーの下にフラスコとアルコールランプをくっつけたような形の道具だった。


「それはまた、本格的だな」

「粉のインスタントより美味しい。だからこそ、こういうお店は楽しみ」


 ワクワク、という音が神崎から漏れ出ている。今まで見てきた中でもトップクラスで嬉しそうである。鼻歌でも唄い出しそうだ。


「決まったの?」

「ああ。ブレンドコーヒー。初めての店は一番オーソドックスなの頼むようにしてるんだ」


 シンプルなメニューにこそ店のこだわりが表れるはず。などという、通ぶった素人意見。冒険ができないチキン野郎とか言ってはいけない。


「じゃあ、私もブレンドにしようかな」


 神崎はそう言うと、カウンターに向かって手を挙げた。目が合った店員さんが、笑顔でテーブルにやって来る。こういう話しかけるタイミングを窺うのは、神崎は非常に得意なのだ。


「ご注文を承ります」

「ブレンドを、二つ――あ、私はホットで」

「俺もホットでお願いします」


 店員さんは、どことなく温かな視線を送ってきた。青春してるな~、みたいな。

 もしかして、カップルだと思われたのだろうか。

 だとすると……うん。そうだな。神崎とカップルに間違われるのは、悪くない。むしろ嬉しいかもしれない。


 誰かと付き合いたいかどうかは別として、俺も青春の一ページを開きかけているのだと思うと、まあ、やっぱり嬉しい。

 俺も人並みに恋愛に憧れがあるんだなあ、としみじみ。でも、どこか他人事な気もして、やっぱりまだまだじゃん、という相反する感想も浮かんできた。あくまでまだ踏み入れたばかりなのだ。


 しかし……神崎とカップルか。

 嬉しいのだけれど、じゃあ、俺は神崎と恋人になりたいのかと考えると、その先はまだ想像ができない。


 前に部室で話したときもそうだったけど、俺は未だに本気で恋に落ちたことがない。想像が及ばない。

 いつか誰かを好きになるのかなあ、と思っていると、不意に神崎と目が合って、そのまま見つめ合う形になった。

 髪の隙間から覗いた瞳に引き込まれそうになる。じっと見つめるのは神崎に失礼だし、気持ち悪がられるのではないかと思って、不意に視線を俺の方から外してしまう。

 けれど神崎は、決して気まずい素振りは見せず、ゆっくりと店内を見回し始めた。


 言葉が途絶える。こういう沈黙も、どこか心地良い。知った仲ならではで、信頼関係が築けている証なのだと嬉しくなった。

 少しして、二杯ぶんのブレンドコーヒーがテーブルに並べられた。店員さんは相変わらずのニヤニヤ顔で、接客としてはそれでいいのか、と内心苦笑いする。


「飲まないの?」

「俺、猫舌なんだ。先どうぞ」

「あ、それじゃあ、遠慮なく。いただきます」


 律義に手を合わせて、神崎が一口すする。ピクッ、と肩を震わせてから、カップを置いて、ほぅっ、と息を吐いた。


「美味しい」


 一言だけだったが、とろけたような声音で、お気に召したのだと十分に感じ取れた。

 そんな神崎を見て和みながら、フーフーと冷まして、ゆっくり口に運ぶ。


「……旨いな」


 コーヒーを口に入れた瞬間、自分の中のコーヒーの概念が一気に突き壊された感覚に落ちた。普段飲んでいる缶コーヒーやインスタントとは、一線を画していた。

 苦みも酸味も強く、けれどしつこくなく、口の中にふわっと広がって、後味がすっきりしている。粉っぽさは微塵もなく、何杯でもいけそうだった。


「さすが、これが喫茶店の味か」


 呟いてからカウンターの方を覗くと、マスターがこちらを見て満足そうにしていた。どう反応を返すか悩んで、ひとまず会釈をしておいた。

 ガサゴソ音が聞こえたので視線を神崎に戻すと、先ほど買った四冊の本を並べていた。


「どれから読む?」

「違いがわからないからなあ。とりあえず、これ読んでみるか」


 手近な本を引き寄せて、パラパラとめくってみる。確かネットの感想で、日本古来の言い回しが多い、と書かれていたっけ。まるで歌舞伎のようだ、とも。


「おお。最初の台詞から、もう全然違う」


 全部の台詞を覚えているわけではないが、最初の場面の台詞は結構頭に入っているし、台本と台詞が違うことくらいはわかる。


「こっちも、全然違う」


 お互いの本を見せ合うと、台本含め三者三様、表現自体が異なっていた。

 各本のページ下部分に注釈がついている。それによると、原文の最初のサムソンの台詞は直訳で『石炭を運ぶんじゃないぞ』、となる。これは、『卑しい仕事はするもんじゃない』、という意味合いだそうだ。時代背景が窺える表現だ。

 これを、今後の展開に合わせて、また日本語の表現に照らし合わせて意訳していく。直訳では意味がない。なるほど。これは神崎の言う通り、翻訳家の個性が発揮される瞬間だ。


 例えば台本では『俺は面汚しはまっぴらだぜ。』とあるが、手元の本には『売られた喧嘩は買うんだぞ。』となっている。同じ言葉を訳しているとは思えないほど、表現に違いがある。けど、だからこそ面白い。


 気がつくと二人して、夢中になって本を読んでいた。途中で神崎が「あ、もう一時間だ」と呟くまで、真剣になって読んでいた。


「さすがに、一杯で一時間は失礼かも?」

「そうだな。もう一杯頼むか」

「そうする。コーヒー、美味しいし。もう一杯飲みたい」


 一石二鳥、と神崎は笑う。合ってるのか違っているのかよくわからない表現で、俺もつられて笑ってしまう。神崎は、なぜ俺が笑ったのかわからなかったみたいだ。


 その後、コーヒーを飲みながら、特にロミオ、ジュリエットの台詞を中心に話し合った。傍目から見るとデートのように映るのだろうけど、甘い雰囲気は皆無だった。それでも、これも一つの青春で、俺は大いに満足だった。


 二杯目を飲み干して、俺たちは喫茶店を後にする。まだ夕方の四時という普段の部活終わりよりも早い時間で解散した。ちょっとだけ、名残惜しくも感じた。

 勉強会ではあったのだけれど、俺にとっては半分遊びのような感覚でもあって。それは興味のあることを学んでいるから、というのもそうだし、場所が喫茶店だったから、というのもそうだし、何より、神崎と一緒にいたからなのが大きい。


 公演が終わったら、部員全員で遊びに行きたいなあ、なんて思いながら、電車に揺られて帰路についた。

 窓の外を見ながら、「そういえば、桜はもう散ってしまったんだなあ」、と物思いにふけって、季節が移ろいゆくのを実感した。


 きっとすぐに夏が来る。自主公演の時期がやって来る。

 すごく、とても、楽しみだ。

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