2 ロミオとジュリエット

 峰岸先輩から鍵を預かり、部室に二人で残って台本を読む。


 空いた窓から、爽やかな風が入り込む。まだ夏は遠そうだが、最近は時間の流れが速くなった。演劇部に夢中になっている証拠だろう。気がつけばすぐに六月になっていそうだ。


 風に乗るように、運動部の掛け声が耳に届いた。中学生のころはそちら側にいたのだなあ、と思うと、ちょっと感慨深い。一年前の俺は、こうやって演劇部に入ることなど想像だにしていなかったはずだから。


 パサ、パサ、と台本をめくる音が部室に響く。運動部の声と、風の音が交っていく。


 顔を上げると、真剣な顔をして台本を読む神崎が。もうちょっとだけこうしていたい、と思う気持ちを押しとどめて、台本に目を落としながらやむを得ず口を開く。


「ジュリエットが、十四歳になるちょっと前。つまり、十三歳と。ええと、ロミオは……作中ではわかないんだよね」

「ロミオは、一説によると、十六歳らしい」


 神崎はしっかりと予習してきていた。気になったことはすぐに調べるべし。その姿勢には感心するし、見習わなくちゃいけない。


「若いなあ。俺らからするとロミオは年上、ジュリエットは年下か」

「この時代だと、十四歳で結婚は、別段凄く早いってほどではなかったみたい」

「日本も昔はそんなもんだったみたいだよなあ」

「『赤とんぼ』」


 顔を上げた神崎がポツリと言った。何のことかわからず、ただ首を傾げてしまう。


「とんぼがどうしたって?」

「童謡の『赤とんぼ』。三番の歌詞。『十五でねえやは嫁に行き』って」

「ああ、なるほど」


 一番しかちゃんと覚えていない。言われてみればそんな歌詞だった気もする。


「どこ地方だったか、忘れたけど、少なくとも日本でも、それが変じゃない場所もあった」

「それって恋愛だったのかなあ」

「違う、かも」


 政略結婚なのか、お見合いなのか。

 作詞の背景を知ればわかるのだろうけど、今は重要じゃない。後で調べておこう。


「ロミオはどんな気持ちで、結婚なんて考えたんだろうなあ。俺が来年に結婚するようなもんだろ。思いつかん」


 いくら金持ちの息子だからって、後先考えなさすぎじゃないか。例えば俺が財閥の息子でも、さすがに責任とかは感じてしまうぞ。


「ジュリエットなんて尚更だよな」

「私の、二年前?」


 いくらなんでも、十三歳で結婚を考えるほど達観した人間は、少なくとも日本にはいないだろう。憧れならともかく。

 いや、憧れだって、十分とっかかりにはなるか。


「どう。少しでも結婚したいって気持ち、あった?」


 訊ねると、神崎は思い出すように瞼を閉じる。


「結婚は、さすがにない」

「恋心とかは」

「中学のときは、何も」

「小学生はどうだった」

「……そもそも付き合いたいって考えてなかったと思う」


 だよなあ、と同意する。

 たぶん、そういうのを意識するようになったのは、小学校高学年に入ってからだろう。


 小学生で付き合ってるやつは……探せばいたのかもしれないけど、少なくとも俺の周りにはいなかった。

 中学生になってからはすぐに何組か現れ始めた。大体がヤンキーやギャルみたいな連中ばかりだった。

 三年生になると案外とカップルがでてきた。まだ子どもの恋愛って感じで、キスだってしていない、初心でプラトニックな関係ばかりだ。

ま、聞く限りではね。裏では色々やることやってたのかもしれない。


「そう、もっと小さな、憧れみたいな。それはたぶん、恋愛じゃない」

「そうか……」


 それを聞いてホッとしている自分がいる。神崎に彼氏がいたからって、俺に何があるわけでもないのに。


「幸村くんは?」

「俺はだらーっと生きてきただけだから。恋愛に夢中になったことなんてないよ」

「そっか」


 ちょっと嬉しそうな神崎。俺、バカにされてるのかな。彼女いないでやんのー、って。

 いやいや、神崎に限って、そんなバカな。

 となると、まさか神崎も俺と同じような気持ちを……。


 って、そんなわけないか、とかぶりを振る。大方仲間意識みたいなものだろう。期待したら、そのぶん落差は激しい。勘違いしちゃダメだ。

 ぐっと背伸びして、邪念を少しでも取り払う。


「いつか、こんな日も来るのかな」

「かもな。五年後かもしれないし、十年後かもしれない。もしかしたら今年ってことも」

「学生結婚?」

「法律上無理だけどな」

「無理なこと。だから演劇は面白いのかも」

「だな。違う自分になる面白さ、かあ」


 なんとなく、峰岸先輩が言っていたことがわかってきた気がする。

 こうやって色々と、キャラクターに思いをはせるのも面白い。それを演じるとなると、きっと、もっと面白い。

 だって、彼らは創作の中の人物で、絶対に自分ではありえないんだから。演じて面白くないわけがない。


「私は、『あり得ない過去』。幸村くんは、『あり得ない未来』」

「そこに想いを馳せればいいわけだな」

「ちょっと燃えてきた」


 神崎が小さく握り拳を作る。気合十分なのにかわいらしいくてほっこりする。


「お。いいねえ。じゃあもう少し考えてみるか」


 今度は俺たちの体験よりも、キャラクターについて俯瞰して考えてみようかな。


「ロミオのことはどう思う?」

「私は、結構好き」

「どういうところが?」

「ロマンティストなところ、かな」


 ロマンティストか。読書家の神崎らしいのかもしれない。


「でも、ちょっと短絡的と言うか、暴力的すぎる。行動的じゃなくていいから、もう少し思慮深くなってほしい。周りを見られる、気遣いができる人の方が好き」


 思慮深く、気遣いのできる人。一人の人物が頭に浮かぶ。

 川嶋先輩の特徴に当てはまっていないだろうか。


「それはもうロミオじゃないよなあ」

「確かに」


 クスリ、と神崎が屈託なく笑う。ちょっとだけ芽生えた嫉妬の心が洗われていくようだ。


「幸村くんはジュリエットをどう思う?」

「そうだなあ」


 一旦思考を捨てて、ジュリエットに注力。俺の中のジュリエット像を、少しずつ組み上げて、そのまま思いついたことを訥々と話していく。


「純粋、って感じかなあ」

「純粋?」

「そう。箱入り娘だからか、染まりやすい、純粋な子。だから思い立ったら、それしか見えなくなる感じ」

「そう言われると、ロミオとジュリエットは似ているのかも。行動的で、衝動的で、だから周りが見えなくなって、すれ違った」

「周りが見えなくなるほど、恋にのめり込んだんだな」


 そりゃあもう、十六歳やら十三歳やらで結婚したがるくらいなんだから、タガが外れていると言っても過言じゃないだろう。


「恋は盲目ってやつか」

「ちょっと意味が違った気がする」

「そうなの?」

「……詳しくは思い出せない。ごめんなさい」

「まあ、謝るほどでも」


 まだまだ神崎の謝り癖は治らない。そう簡単には変わらないだろうし、これが神崎らしさなら無理して変わることもないと思う。

 本人が強く変わりたいと思うなら、話は別だけど。


 誠に遺憾ながら、俺は神崎のことをちゃんとわかっていない。なにせ、出会ってまだ一か月に満たないのだ。これで自信を持って理解していると言えるなら、そいつはもうストーカーの域である。

 それでもわかることはある。


「神崎も、結構行動的だよね」

「……バカにされてる?」

「違うよ」


 どうも自己評価が低い。結構ストレートに褒めたりしているつもりなんだけど。


「いい意味でだよ。見習おうと思うこと、多いからさ」

「そう、かな……」


 ようやく真っ正面から俺の言葉を受け止めてくれたらしい。神崎は照れたようにそっぽを向く。顔を斜めに向けたまま、前髪の隙間からチラリとこちらを窺う。目が合って、今度は俺が顔を背けてしまいそうになった。


「幸村くんも、行動的だと思う」

「……そうか?」

「うん」


 嬉しいような、悲しいような、複雑な思いだ。返事が少しぎこちなくなってしまう。

 神崎は、思慮深い方が好き、と言った。行動的でなくてもいいから、周りを見られる人が好きと。

 それが「あなたを男として見ていません」、と暗に言われた気がして少しだけ落ち込んでしまう。


「それならロミオを演じるときは、多少はいつも通りの雰囲気でいいのかな」


 強がりみたいに言うと、神崎は少し考えるように顎に指をあてる。


「もうちょっとガラを悪くしないと。まだ大人しいかも」

「了解。神崎は、もっと溌溂としないとな」

「うぅ……頑張る」


 肩に力を入れて両の拳を握り締めているのが、やっぱりかわいらしかった。

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