法華経 法師功徳品

 その時、釈迦牟尼仏は、常精進菩薩に告げた。


 もし善い男子や善い女の人が、この法華経を受け入れて保持して、(声を出さないで)読んだり、声を出して読んだり、解説したり、書き写したりすれば、これらの人は、まさに、八百の眼の功徳、千二百の耳の功徳、八百の鼻の功徳、千二百の舌の功徳、八百の身の功徳、千二百の「意」、「心」の功徳を得て、これらの功徳で「六根」、「眼、耳、鼻、舌、身、意」を荘厳に飾って、皆、清浄にする。

 これらの善い男子や善い女の人は、父と母から生まれた清浄な肉眼で、「三千大千世界」の内外に有る山、林、河、海を、下は「阿鼻地獄」から上は「有頂天」に至るまで、見る。

 また、それらの中の一切の「衆生」、「生者」を見る。

 また、業による因縁、果報により生まれる所の、ことごとくを見て、ことごとくを知る。



 その時、釈迦牟尼仏は、くり返し、この意義を話したいと欲して、詩で説いて言った。


 大衆の中で、恐れる所が無い心で、この法華経を説く。あなた(、常精進菩薩よ、)その功徳を聴きなさい。

 これらの人は、八百の功徳による特別に優れている眼を得て、この眼で(肉眼を)荘厳に飾るため、その(肉)眼は、とても清浄なのである。

 父と母から生まれた(肉)眼で、「三千界」の内外、弥楼山、須弥山、鉄囲山、諸々の他の山、林、大海、大河、河を、下は「阿鼻地獄」から上は「有頂天」に至るまで、ことごとく見る。

 また、それらの中の諸々の「衆生」、「生者」を一切、皆、ことごとく見る。

 天人の「天眼」を未だ得ていなくても、肉眼の力が、このようになるのである。



 (釈迦牟尼仏は、常精進菩薩に言った。)


 また、次に、常精進菩薩よ、もし善い男子や善い女の人が、この法華経を受け入れて保持して、(声を出さないで)読んだり、声を出して読んだり、解説したり、書き写したりすれば、千二百の耳の功徳を得て、これらによる清浄な耳で、「三千大千世界」の下は「阿鼻地獄」から上は「有頂天」に至るまで、それらの中の、内外の種々に有る言葉、音声、ゾウの声、馬の声、牛の声、車の音声、泣き叫ぶ声、嘆きの声、法螺貝を吹く音、太鼓を打ち鳴らす音、鐘を打ち鳴らす音、鈴の音、笑い声、話し声、男の声、女の声、童子の声、童女の声、仏法を説く声、仏法ではない声、苦しんでいる声、楽しんでいる声、凡人の声、聖人の声、喜んでいる声、喜んでいない声、天人の声、龍の声、夜叉の声、乾闥婆の声、阿修羅の声、迦楼羅の声、緊那羅の声、摩睺羅伽の声、火の音声、水の音声、風の音声、地獄の音声、畜生界の音声、餓鬼界の音声、出家者の男性の声、出家者の女性の声、声聞の声、「辟支仏」、「独覚」の声、菩薩の声、仏の声を聞く。

 要約して、この事について言うと、「三千大千世界」の中の、一切の、内外に有る諸々の音声を、天人の「天耳」を未だ得ていなくても、父と母から生まれた清浄な通常の耳で、皆ことごとく、聞いて知る。

 また、このように、種々の音声を分別しても、耳を壊さない。



 その時、釈迦牟尼仏は、くり返し、この意義を話したいと欲して、詩で説いて言った。


 父と母から生まれた耳が、清浄になって、汚れが無くなって、この通常の耳で、「三千世界」の音声を、象や馬や車や牛の音声、鐘や鈴や法螺貝や太鼓を鳴らす音声、琴や瑟や「箜篌」を鳴らす音声、「簫笛」を吹く音声、清浄な好い歌声を聞く。

 これらを聞いても執着しない。

 無数の種類の人の声を聞いて、ことごとく理解することが可能になる。

 また、諸々の天人の声、微細で絶妙な歌声を聞く。

 また、男や女の声、童子や童女の声、山や川や険しい谷の中の「迦陵頻伽」の声を聞く。

 「命命鳥」などの諸々の鳥の、その音声をことごとく聞く。

 地獄の多数の苦痛による種々の激しい苦痛による声、餓鬼が飢え渇いて飲食物を探し求める声、諸々の阿修羅などが大海の海辺にいて自ら共に話し合う時に出す大いなる音声。この法華経の仏法を説く者は、これらの間に安住して、遥か遠くから、これらの多数の音声を聞いても、耳を壊さない。

 十方の世界の中の禽獣は鳴いて相互に呼び合うが、この法華経の仏法を説く人は、この世で、これらをことごとく聞く。

 それらの(十方の)諸々の「大梵天」や「光音天」、「極光浄天」や「遍浄天」から「有頂天」までの言葉、音声。(法華経の)「法師」、「仏法の教師」は、これらに住んで、ことごとく皆、これらを聞くことができ得る。

 一切の出家者の男性や、諸々の出家者の女性が、経を読んだり、他人の為に説いたりすれば、(法華経の)「法師」、「仏法の教師」は、これらの場所にいて、ことごとく皆、これらを聞くことができ得る。

 また、諸々の菩薩がいて、経の仏法を読んだり、他人の為に説いたり、撰集したり、その意義を解説したりする、これらの諸々の音声。(法華経の「法師」、「仏法の教師」は、)ことごとく皆、これらを聞くことができ得る。

 諸仏は、「衆生」、「生者」を教化する者として、諸々の大いなる会の中で、微細で絶妙な仏法を演説する。この法華経を保持している者は、ことごとく皆、これらを聞くことができ得る。

 下は「阿鼻地獄」から上は「有頂天」に至るまでの「三千大千世界」の内外の諸々の音声。皆、それらの音声を聞いても、耳を壊さない。

 その耳は利発なので、ことごとく分別して知ることが可能である。

 この法華経を保持している者は、天人の「天耳」を未だ得ていなくても、父と母から生まれた耳だけを用いて、功徳が、このようになるのである。



 (釈迦牟尼仏は、常精進菩薩に言った。)


 また、次に、常精進菩薩よ、もし善い男子や善い女の人が、この法華経を受け入れて保持して、(声を出さないで)読んだり、声を出して読んだり、解説したり、書き写したりすれば、八百の鼻の功徳を成就して、これらによる清浄な鼻で、「三千大千世界」の上下、内外の種々の諸々の香りを感じる。

 「須曼那」の華の香、「闍提」の華の香、「末利」の華の香、「瞻蔔」の華の香、「波羅羅」の華の香、赤蓮華の香、青蓮華の香、白蓮華の香、樹の華の香、果樹の果実の香、「栴檀香」、「沈水香」、「多摩羅跋」の香、「多伽羅」という香、千万種の香を和合した香を粉々にしたり、丸めたり、塗ったりしたとする。この法華経を保持している者は、これらの間にいて、ことごとく、分別することが可能である。

 また、「衆生」、「生者」の香り、ゾウの香り、馬の香り、牛、羊などの香り、男の香り、女の香り、童子の香り、童女の香り、草木、叢林の香りを分別して知ることが可能である。

 近くや遠くに有る諸々の香をことごとく皆、感じて、分別して、誤らないことができ得る。

 この法華経を保持している者は、この世にいても、天上の諸々の天人の香りを感じることができる。

 天の「波利質多羅」、天の「拘鞞陀羅」の樹の香、天の「曼陀羅華」の香、天の「摩訶曼陀羅華」の香、天の「曼殊沙華」の香、天の「摩訶曼殊沙華」の香、天の「栴檀香」、天の「沈水香」、天の種々の抹香、天の諸々の多様な華の香、これらの天の香を和合した香を、感知する。

 また、諸々の天人の身の香り、「釈提桓因」、「帝釈天」が優れた宮殿にいて「五欲」、「五感の欲望」の娯楽に遊び戯れている時の香り、帝釈天が妙なる法堂にいて「忉利天」の諸々の天人の為に説法している時の香り、帝釈天が諸々の園で遊び戯れている時の香り、他の天人達の男女の身の香りを皆ことごとく、遥か遠くから、感じる。

 また、このように、転々として、「大梵天」から上は「有頂天」に至るまでの諸々の天人の身の香り。これらを皆、感じる。

 また、諸々の天人の焼香の香りを感じる。

 また、声聞の香り、「辟支仏」、「独覚」の香り、菩薩の香り、諸仏の身の香りを皆、遥か遠くから感じて、それらの所在を知る。

 これらの香りを感じても、鼻を壊さないし、誤らない。

 もし他人の為に(、これらの香りを)分別したいと欲しても、説くことができるし、記憶しているし、誤らない。



 その時、釈迦牟尼仏は、くり返し、この意義を話したいと欲して、詩で説いて言った。


 このような人の鼻は、清浄で、この世界の中で、良い香りの物や臭う物を、種々に、ことごとく、感じて知る。

 「須曼那」の香、「闍提」の香、「多摩羅」の香、「栴檀香」、「沈水香」、「桂」の香、種々の華や果実の香、「衆生」、「生者」の香り、男子や女の人の香りを知る。

 (法華経の)仏法を説く者は、遠くにいても、香りを感じて、所在を知る。

 大いなる勢力をもつ転輪聖王、小転輪聖王、転輪聖王の王子、群臣、諸々の役人の香りを感じて、所在を知る。

 身に着けられている珍しい宝、地中の宝の蔵、転輪聖王の「宝女」、「女宝」、「玉女」、「宝玉のように美しい妻」の香りを感じて、所在を知る。

 諸々の人の身を荘厳に飾る装身具、衣服、「瓔珞」、「ひも状の飾り」、種々の塗香の香りを感じて、それらを着けている身を知る。

 諸々の天人が歩いたり、坐ったり、遊び戯れたり、神変を起こしたりした香りを、この法華経を保持している者は感じて、ことごとく知ることが可能である。

 諸々の樹の華の香気、果実の香気、「蘇油」の香気を、法華経を保持している者は、この香気の中にいれば、ことごとく、その(香気の元の)所在を知る。

 諸々の山々の深く険しい場所で栴檀の樹に華が広がれば、「衆生」、「生者」の中にいても、栴檀の樹の華の香りを感じて、(所在を)皆、知ることが可能である。

 鉄囲山、大海、地中の諸々の「衆生」、「生者」を、法華経を保持している者は、香りを感じて、ことごとく、その所在を知る。

 阿修羅の男女や、その阿修羅の眷属が、闘争して遊び戯れている時の香りを感じて、(所在を)皆、知ることができる。

 荒野の険しい場所の獅子ライオンゾウ、虎、狼、野牛、水牛などの香りを感じて、所在を知る。

 もし懐妊している者がいて、その子が男か、女か、「無根か」、「性器が無いか」、人ではない者の化生か、を未だ見分けることができていなくても、香りを感じて、ことごとく知ることが可能である。

 香りを感じる力で、その初懐妊が成就するか、成就しないか、幸福な子を安楽に産めるか、知る。

 香りを感じる力で、男や女の、思いと、欲に汚染されていることによる貪欲さ、「痴」、「愚かさ」、怒りという「三毒」の心を知るし、「修善している者」、「善行を積んでいる者」を知る。

 地中の多数の「伏蔵」、「宝の蔵」の、銅の器に盛られている、金、銀、諸々の珍しい宝の香りを感じて、(所在を)ことごとく知ることが可能である。

 種々の諸々の「瓔珞」、「ひも状の飾り」を、その価値を知らなくても、香りを感じて、価値の高い、低い、出処でどころ、所在を知る。

 天上の諸々の華々、天の「曼陀羅華」、天の「曼殊沙華」、天の「波利質多」の樹の華の香りを感じて、(所在を)ことごとく知ることが可能である。

 天上の諸々の宮殿の、上中下の区別、多数の宝の華によって荘厳に飾られていることを、香りを感じて、ことごとく知ることが可能である。

 天人が、天の園林、天の優れた宮殿、天の諸々の「観」、「高い建物」、天の妙なる法堂の中にいて楽しんでいる時の香りを感じて、ことごとく知ることが可能である。

 諸々の天人が、仏法を聞いたり、「五欲」、「五感の欲望」を受け入れたり、行き来したり、歩いたり、坐ったり、横に成ったりしている時の香りを感じて、ことごとく知ることが可能である。

 天女が、着ている衣を、好い華の香りで荘厳に飾って、回転させて遊び戯れている時の香りを感じて、ことごとく知ることが可能である。

 このように、転々として、上は「大梵天」に至るまでの、禅に入っている者や、禅から出た者の香りを感じて、ことごとく知ることが可能である。

 「光音天」、「極光浄天」や「遍浄天」から「有頂天」に至るまでの、天に生まれたばかりの時の香りや、「退没した」、「堕天した」時の香りを感じて、ことごとく知ることが可能である。

 諸々の出家者達が、仏法について常に精進して、坐禅したり、坐禅の合間に歩いたり、経の仏法を読んだり、林の樹の下にいて「専精」、「精神集中」したりしている時の香りを、法華経を保持している者は感じて、その所在をことごとく知る。

 菩薩が、意思が堅固で、坐禅して、経を読んだり、他人の為に仏法を説いたりしている時の香りを感じて、ことごとく知ることが可能である。

 至る所の仏が、一切の生者に恭しく敬われていて、「衆生」、「生者」をあわれんで仏法を説いている香りを感じて、ことごとく知ることが可能である。

 「衆生」、「生者」が仏の前にいて経を聞いて皆、喜んで仏法の通りに修行している時の香りを感じて、ことごとく知ることが可能である。

 菩薩の「無漏法」、「煩悩が無い在り方」から生まれた鼻を未だ得ていなくても、この法華経を保持している者は、先んじて、このような鼻の「相」、「有様」を得る。



 (釈迦牟尼仏は、常精進菩薩に言った。)


 また、次に、常精進菩薩よ、もし善い男子や善い女の人が、この法華経を受け入れて保持して、(声を出さないで)読んだり、声を出して読んだり、解説したり、書き写したりすれば、千二百の舌の功徳を得て、好きな物、嫌いな物、美味な物、不味い物、諸々の苦く渋い物が舌に在れば皆、天の甘露のような上質の美味に変化して、美味くなる。

 もし、(このような)舌で、大衆の中で、演説すれば、深い妙なる声が出て、それらの大衆の「心に入る」、「気に入られる」ことが可能で、皆を喜ばせる。

 また、諸々の天人、天女、帝釈天、梵天といった諸々の天人は、この深い妙なる音声で演説されている言論を聞くと、皆ことごとく、やって来て聴く。

 また、諸々の龍、龍女、夜叉、夜叉女、乾闥婆、乾闥婆女、阿修羅、阿修羅女、迦楼羅、迦楼羅女、緊那羅、緊那羅女、摩睺羅伽、摩睺羅伽女は、仏法を聴くために、皆、やって来て、親しみ近づいて、恭しく敬って、捧げものを捧げる。

 また、出家者の男性、出家者の女性、在家信者の男性、在家信者の女性、国王、王子、群臣、眷属、「小転輪聖王」、「大転輪聖王」、「転輪聖王」の「七宝」のもの達、「転輪聖王」の千人の王子、内外の眷属は、その各々の宮殿に乗って、共に、やって来て、仏法を聴く。

 このような菩薩は善く仏法を説くので、祭司バラモン、商人バイシャ、国内の人民は、その姿形、寿命を尽くして、従い、そばに仕えて、捧げものを捧げる。

 また、諸々の声聞、「辟支仏」、「独覚」、菩薩、諸仏は、常に、このような人を見ることを願う。

 このような人がいる場所の方向に向かって、諸仏は皆、仏法を説いてくれる。

 一切の仏法をことごとく受け入れて保持することが可能である。

 また、深い妙なる、仏法を説く音声を出すことが可能である。



 その時、釈迦牟尼仏は、くり返し、この意義を話したいと欲して、詩で説いて言った。


 このような人の舌は、清浄で、終に、悪い味を受けることが無い。

 その人が食べる物は、ことごとく皆、甘露に成る。

 深い清浄な妙なる声で、大衆に、仏法を説く。

 諸々の「因縁」、「譬喩」で、「衆生」、「生者」の心を導いて仏道へ引き入れる。

 聞いた者は皆、喜んで、諸々の上質な捧げものを捧げる。

 諸々の天人、龍、夜叉、阿修羅などは皆、恭しく敬う心をもって、共に、やって来て、仏法を聴く。

 このように仏法を説く人が、もし、「妙なる音声を『三千界』に、あまねく満たしたい」と欲したならば、思い通りに、行き渡らせることが可能である。

 「大転輪聖王」、「小転輪聖王」、「転輪聖王」の千人の王子、「転輪聖王」の眷属は、合掌して、恭しく敬う心で、常に、やって来て、仏法を聴いて受け入れる。

 諸々の天人、龍、夜叉、羅刹、毘舎闍ピシャーチャという鬼は、喜ぶ心をもって、常に、来て、捧げものを捧げたい、と願う。

 梵天、「第六天魔王波旬」、「自在天」、「大自在天」といった、これらの諸々の天人達は、常に、その場所に来る。

 諸仏、諸仏の弟子は、その仏法を説く音声を聞くと、常に、念頭に置いて、守護して、時には、その人の為に、身を出現させる。



 (釈迦牟尼仏は、常精進菩薩に言った。)


 また、次に、常精進菩薩よ、もし善い男子や善い女の人が、この法華経を受け入れて保持して、(声を出さないで)読んだり、声を出して読んだり、解説したり、書き写したりすれば、八百の身の功徳を得て、清浄な透明な瑠璃るりのような清浄な身を得て、「衆生」、「生者」は喜んで見る。

 そのような人の身は清浄なので、「三千大千世界」の「衆生」、「生者」の生まれた時、死ぬ時、上下、美醜、善い場所や悪い場所に生まれる事をことごとく身の中に現す。

 また、鉄囲山、大鉄囲山、弥楼山、摩訶弥楼山などの諸々の山の王と、その中の「衆生」、「生者」をことごとく身の中に現す。

 下は「阿鼻地獄」から上は「有頂天」に至るまでに有るものと「衆生」、「生者」をことごとく身の中に現す。

 また、声聞、「辟支仏」、「独覚」、菩薩、諸仏の説法の、その形を皆、身の中に現す。



 その時、釈迦牟尼仏は、くり返し、この意義を話したいと欲して、詩で説いて言った。


 もし法華経を保持すれば、その身が、清浄な透明な瑠璃るりのように、とても清浄になって、「衆生」、「生者」は皆、喜んで見る。

 また、清浄な「明鏡」、「くもりの無い良く映る鏡」で、ことごとく、諸々の形を見るように、このような菩薩は、清浄な身によって、皆、世に有るものを見る。

 他の人には見えないものを、単独で、自ら、明らかに知る。

 「三千世界」の中の一切の諸々の「群萌」、「生者」、天人、人、阿修羅、地獄の悪人、餓鬼、畜生界の悪人などの、これらの諸々の形を皆、身の中に現す。

 「有頂天」に至るまでの諸々の天人達の宮殿、鉄囲山、弥楼山、摩訶弥楼山、諸々の大海、川などを皆、身の中に現す。

 諸仏、声聞、仏の弟子、菩薩などが独りでいたり、大衆の中にいて仏法を説いたりしている形をことごとく皆、現す。

 「無漏」、「煩悩が無いこと」による「法性」、「法の本性」である妙なる身を未だ得ていなくても、清浄な通常の身体によって、一切を身の中に現す。



 (釈迦牟尼仏は、常精進菩薩に言った。)


 また、次に、常精進菩薩よ、もし善い男子や善い女の人が、釈迦牟尼仏の(肉体の)死後、この法華経を受け入れて保持して、(声を出さないで)読んだり、声を出して読んだり、解説したり、書き写したりすれば、千二百の「意」、「心」の功徳を得る。

 この清浄な「意」、「心」によって、経の一つの詩でも、経の詩の一句でも聞けば、無限なほど、量り知れないほど無数の意義に通達して、この意義を理解し終わると、その経の一つの詩、その経の詩の一句について、一か月間や四か月間から一年間、演説することが可能である。

 諸々の、仏法を説く言葉が、その意義にかない、皆、「実相」、「真実の相」にそむかない。

 もし俗世間の古典の故事、俗世の統治のための言葉、生活のための職業などについて説いても、皆、正しい仏法にかなう。

 「三千大千世界」の「六趣」、「六道」、「地獄、餓鬼、修羅、畜生、人間、天」の「衆生」、「生者」の心の中で想像している所行、心の動き、心の中で戯れている議論を皆ことごとく知る。

 「無漏の」、「煩悩が無い」智慧を未だ得ていなくても、その「意」、「心」は、このように清浄になる。

 このような人に有る思考、言説は皆、仏法であるし、真実であるし、過去の仏の経の中の所説なのである。



 その時、釈迦牟尼仏は、くり返し、この意義を話したいと欲して、詩で説いて言った。


 このような人の「意」、「心」は清浄であるし、明らかであるし、利発であるし、汚れていない。

 このような妙なる「意」、「心」によって、上中下の「法」、「もの」を知る。

 経の詩の一句でも聞けば、量り知れないほど無数の意義に通達する。

 仏法の通りに、一か月間や四か月間から一年間、説くことができる。

 この世界の内外の一切の諸々の「衆生」、「生者」、天人、龍、人、夜叉、鬼神などの、それらの者達が「六趣」、「六道」、「地獄、餓鬼、修羅、畜生、人間、天」の中にいて思っている幾つかの種類のことを、法華経を保持している報いによって、一時で、皆ことごとく知る。

 十方の無数の諸仏が、「百福荘厳相」で、「衆生」、「生者」の為に説いている仏法をことごとく聞いて、受け入れて保持して、量り知れないほど無数の意義を思考して、量り知れないほど無数に説法して、終始、忘れないし、誤らないことが可能である。

 法華経を保持しているので、「諸法」、「全てのもの」の相をことごとく知って、意義に従って理解して、次第に名前や言葉に通達して、智慧の通りに演説する。

 このような人に有る所説は皆、過去の仏の仏法なのである。

 このような仏法を演説するので、大衆に対して恐れる所が無いのである。

 法華経を保持している者の「意」、「心」は、このように、清浄なのである。

 「無漏」、「煩悩が無いこと」を未だ会得していなくても、先んじて、このような相が有るのである。

 このような人は、この法華経を保持して、希有な境地に安住して、一切の「衆生」、「生者」を喜ばせて、(法華経の仏法を)愛させて、敬わせる。

 法華経を保持しているので、幾千、幾万種類の善い巧みな言葉によって、分別して、演説することが可能である。

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