法華経 随喜功徳品

 その時、弥勒菩薩は、釈迦牟尼仏に言った。

「釈迦牟尼仏よ、善い男子や善い女の人が、この法華経を聞いて喜んだら、どれくらいの幸福を得ることができますか?」


 (弥勒菩薩は、釈迦牟尼仏に、)詩で言った。

「釈迦牟尼仏の(肉体の)死後、この法華経を聞いて喜んだら、どれくらいの幸福を得ることができますか?」


 その時、釈迦牟尼仏は、弥勒菩薩に告げた。


 阿逸多とも呼ばれる弥勒菩薩よ、釈迦牟尼仏の(肉体の)死後、出家者の男性や女性や、在家信者の男性や女性や、他の年長の知者や幼い知者が、この法華経を聞いて喜んで、法華経という仏法が説かれた集まりから退出して、他の場所に行って、「僧坊」、「僧が住む建物」や、人里離れた静かな場所や、町や、路地や、集落や、田畑や山里にいて、聞いた通りに、父や母や、親族や、善い友人や善知識を持つ人々の為に、自分の力に応じて、演説すると、これらの諸々の人達も、聞いて喜んで、また、「転じて」、「説いて」、教え、他の人も、また、聞いて喜んで、「転じて」、「説いて」、(他の人に)教えていったとする。

 このようにしていき、転々としていき、第五十番目の善い男子や善い女の人に至ったとする。

 阿逸多とも呼ばれる弥勒菩薩よ、その第五十番目の善い男子や善い女の人が喜んだ功徳。私、釈迦牟尼仏は、今、これについて説こう。

 あなたは、まさに、善く、聴きなさい。

 四百万億阿僧祇世界の「六趣」、「六道」、「地獄、餓鬼、修羅、畜生、人間、天」の「四生」、「胎生、卵生、湿生、化生」の「衆生」、「生者」には、「胎生、卵生、湿生、化生」や、「有形、無形」、「肉眼の目に見える者、肉眼の目に見えない者」や、「有想、無想、非有想、非無想」や、足が無い者、二本足の者、四本足の者、多足の者といった、これらの「衆生」、「生者」がいる数のうち、ある人が、幸福を求めて、それらの生者達の欲望に応じて、娯楽の物を、皆に与えたとする。

 各々の生者に、「閻浮提」、「この世」に満ちる金、銀、瑠璃るり硨磲しゃこ碼碯めのう珊瑚さんご琥珀こはくといった諸々の妙なる珍しい宝や、ゾウ、馬や、乗り物や、七種類の宝で成っている宮殿や高い建物などを与えたとする。

 この大いなる布施をした主が、満八十年間、このように布施し終わると、このように思ったとする。

 「私は、既に、『衆生』、『生者』達に、娯楽の物を、心の欲望に応じて、布施した。これらの生者達は皆、既に、老衰して、年が八十歳を過ぎて、髪が白く、顔面にしわができて、まさに、久しからず、死にそうである。私は、まさに、仏法で、これらの生者達を、教え導こう」と。

 そこで、これらの生者達を集めると、仏法を広く教えて、教化して、「示教利喜して」、「教示して鼓舞して喜ばせて」、一時で、皆に、「須陀洹、斯陀含、阿那含、阿羅漢」、「四果」の仏道の果報を得させて、諸々に有る「漏」、「煩悩」を無くし尽くさせて、深い禅定によって、皆、自由自在になることを得させて、「八解脱」を備えさせたとする。

 あなた(、弥勒菩薩)は、どう思うであろうか?

 この大いなる布施をした主が得た功徳は、多いであろうか? 否か?


 弥勒菩薩は、釈迦牟尼仏に言った。

「釈迦牟尼仏よ、この例え話の人の功徳は、とても多く、無量、無限です。

もし、この布施をした主が、ただ、『衆生』、『生者』達に、一切の娯楽の物を布施しただけだったとしても、功徳は無量です。

まして、生者達に、阿羅漢の仏道の果報を得させたならば、なおさら、功徳は多いです」


 釈迦牟尼仏は、弥勒菩薩に告げた。


 私、釈迦牟尼仏は、今、明らかに、あなた、弥勒菩薩に語ろう。

 この例え話の人が一切の娯楽の物を四百万億阿僧祇世界の「六趣」、「六道」、「地獄、餓鬼、修羅、畜生、人間、天」の「衆生」、「生者」達に布施し、また、阿羅漢果を得させて得た功徳は、別の例え話の第五十番目の人が法華経の一つの詩を聞いて喜んだ功徳には、及ばないのである。

 百分の一、千分の一、百千万億分の一に及ばないのである。

 また、数えても、例えても、知ることは不可能なほどなのである。

 阿逸多とも呼ばれる弥勒菩薩よ、この例え話の第五十番目の人が、転々として、法華経を聞いて喜んだ功徳ですらなお、無量、無限、「阿僧祇」、「無数」なのである。

 まして、最初に、会の中で、法華経を聞いて喜べば、その幸福は、なおさら、優れていて、無量、無限、「阿僧祇」、「無数」で、比べることができ得ないほどなのである。

 また、阿逸多とも呼ばれる弥勒菩薩よ、もし人が、この法華経のために、「僧坊」、「僧が住む建物」へ行って、坐ったり、立ったりして、一瞬でも、法華経を聞いて受け入れたら、この功徳によって、「転身して」、「身が生まれ変わって」、生まれた所で、好い上質な妙なるゾウ、馬、乗り物、珍しい宝の乗り物を得るし、天の宮殿に住める。

 また、もし人が、法華経の仏法が説かれている場所に坐っていて、別の人が来ると、座を勧めて坐らせて法華経を聴かせたり、座を分けて坐らせたりすれば、この人は、功徳によって、「転身したら」、「身が生まれ変わったら」、帝釈天が坐る座か、梵天が坐る座か、転輪聖王が坐る座を得る。

 阿逸多とも呼ばれる弥勒菩薩よ、また、もし人が、他の人に、「『法華経』という名前の経が有ります。共に、行って、聴きましょう」と言ったならば、

その他の人が、その教えてくれた言葉を受けて、一瞬でも、法華経を聴けば、

この人は、功徳によって、「転身したら」、「身が生まれ変わったら」、「陀羅尼菩薩」と同じ場所に生まれることができ得るし、「根」、「能力」が利発になるし、智慧をえるし、幾百、幾千、幾万の生でも、終に、話せなくなることも聞けなくなることも無いし、くちからの息は臭くないし、舌が常に無病であるし、口も無病であるし、歯が汚れで黒くならないし、黄色くならないし、まばらにならないし、欠落しないし、不揃いにならないし、斜めに生えたりしないし、唇が垂れ下がらないし、めくれて萎縮しないし、ざらつかないし、皮膚病にならないし、欠けたり壊れたりしないし、歪まないし、厚くならないし、大きくならないし、黒くならないし、諸々の悪い所が無いし、鼻が平らではないし、曲がらないし、顔面の色が黒くならないし、狭く長くならないし、くぼんだり曲がったりしないし、一切の喜ぶべきではない相は無いし、唇や舌や犬歯や歯が、ことごとく皆、荘厳で好いし、鼻が長いし、高いし、真っ直ぐであるし、顔面、容貌が円満であるし、眉が高いし、長いし、ひたいが広いし、平らであるし、端正であるし、(善い)人相を十分に備えるし、生から生へ、生まれた所で、仏を見るし、仏法を聞くし、仏教を信じて受け入れる。

 阿逸多とも呼ばれる弥勒菩薩よ、あなたは、しばらく、この事について観察しなさい。

 一人に勧めて、行かせて、法華経の仏法を聴かせる功徳は、このようなのである。

 まして、一心に、法華経を聞いて、説いて、読んで、大衆の中で他の人の為に分別して、教えの通りに修行する功徳は、なおさら、善いのである。


 その時、釈迦牟尼仏は、くり返し、この意義を話したいと欲して、詩で説いて言った。


 もし人が仏法が説かれる集まりで、詩、一つでも、この法華経を聞くことができ得て喜んで、他の人の為に説いたとする。

 このようにして、転々として、教えて、第五十番目の人に至ったとする。この最後の第五十番目の人が獲得できる幸福、今、まさに、この幸福について分別しよう。

 例えば、大いなる布施をした主がいて、量り知れないほど無数の「衆生」、「生者」達に、あれこれ、満八十年間、生者達の心の欲望に応じて、娯楽の物を供給したとする。

 布施をした主は、髪が白い、顔面にしわがある、歯がまばらである、姿形が乾いて干からびたかのようである、この生者達の老衰の相を見て、このように思ったとする。

 「死ぬのは、遠くない。私は、今、まさに、仏法を教えて、仏道の果報を得させよう」と。

 そして、生者達の為に、「方便」、「便宜的な方法」で、涅槃の真実の仏法を説いたとする。

 「この世のものは皆、水しぶきや泡や火のように、堅牢、堅固ではない。あなた達は、ことごとく、まさに、すみやかに、『厭離の心』、『この世を嫌い離れる心』を生じさせなさい」と。

 諸々の人達は、このような仏法を聞いて、皆、阿羅漢を会得して、「六神通」と「三明」と「八解脱」を十分に備えた。

 最後の第五十番目の人が法華経の詩の一つを聞いて喜べば、この第五十番目の人の幸福は、大いなる布施をした主の幸福よりも優れていて、例えることが不可能なほどなのである。

 このように、転々として、(第五十番目に、)法華経を聞いた、その幸福ですらなお、無量なのである。

 まして、法華経の仏法が説かれた集まりで、最初に、法華経を聞いて喜んだ者の幸福は、なおさら、善いのである。

 もし一人の人に勧めて、まさに、引き寄せて、法華経を聴かせようとして、このように言ったとする。

 「この法華経は、深く、絶妙で、幾千、幾万の劫がたっても出会うのは難しい」と。

 この一人の人が、その教えてくれた言葉を受けて、行って、一瞬でも法華経を聞いたとする。この人の幸福、報いを、今、まさに、分別して説こう。

 生から生へ、口の疾患が無いし、歯がまばらにも黄色くも黒くもならないし、唇が厚くもならないしめくれも欠けもしないし、悪い相が無いし、舌が乾かないし黒くも短くもならないし、鼻が高いし、長いし、真っ直ぐであるし、ひたいが広いし、平らであるし、端正であるし、顔や姿が、ことごとく端正であるし、荘厳であるし、他人が見ることを喜ぶし、くちからの息は、臭くないし、汚れていないし、優鉢羅華の香りが常に、そのくちから出る。

 法華経を聴きたいと欲したために、「僧坊」、「僧が住む建物」に行って、一瞬でも法華経を聞いて喜んだとする。今、まさに、その幸福を説こう。

 後の生で、天人の中に生まれて、妙なるゾウ、馬、車、珍しい宝の乗り物を得るし、天の宮殿に住む。

 もし法華経の仏法が説かれている場所で他人に勧めて坐らせて法華経を聴かせたならば、この幸福をもたらす因縁によって、帝釈天や梵天や転輪聖王の座を得る。

 まして、法華経を一心に聴いて、その意義を解説して、教えの通りに修行すれば、その幸福は無限なのである。

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