法華経 五百弟子受記品

 その時、富楼那弥多羅尼子は、釈迦牟尼仏より、この智慧の「方便」、「便宜的な方法」の「随宜の」、「相手に応じた」説法を聞いて、

また、(釈迦牟尼仏が、)諸々の大いなる弟子に、「阿耨多羅三藐三菩提の記を授けた」、「仏に成れる予言を授けた」のを聞いて、

また、前世の因縁の事を聞いて、

また、諸仏が有している大いに自在な神通の力について聞いて、

心が未曾有になることを得て、心が清浄になって踊躍して、

座より起立して、釈迦牟尼仏の前に行って、頭を釈迦牟尼仏の足につけて敬礼して、座に戻って、釈迦牟尼仏の御尊顔を仰ぎ見て、目を一時も離さず、このように思った。


 世尊(、仏)は、とても特別に優れているし、行いが希有である。

 (仏は、)世間の生者の、いくつかの「種性」、「素質」に応じて、「方便」、「便宜的な方法」の知見によって、生者の為に説法して、「衆生」、「生者」を色々なものへの貪欲な執着から抜け出させる。

 私達は、仏の功徳を、(厳密には)言い表すことが不可能である。

 仏だけが、私達の心の奥深くのもとの願いを知ることが可能なのである。


 その時、釈迦牟尼仏は、諸々の「比丘」、「出家者」に告げた。


 あなた達は、この富楼那弥多羅尼子が見えるか? 否か?

 私(、釈迦牟尼仏)は、常に、この富楼那を、「説法する人の中で、(雄弁さが)最も第一である」と、ほめたたえる。

 また、(私、釈迦牟尼仏は、)常に、この富楼那の種々の功徳をほめたたえる。

 (富楼那は、)私(、釈迦牟尼仏)の仏法に精勤的であるし、私(、釈迦牟尼仏)の仏法を破らず護って保持して、補助して説明する。

 (富楼那は、)「四衆」、「出家者の男女と在家信者の男女」に、「示教利喜」、「教示して鼓舞して喜ばせること」が可能である。

 (富楼那は、)仏の正しい法を十分に備えて、(正しく)解釈して、大いに、同じ仏道修行者に利益をもたらす。

 仏以外に、この富楼那の言論の雄弁さのように雄弁に説明し尽くせる者はいない。

 あなた達、「富楼那は、ただ、私(、釈迦牟尼仏)の仏法を破らず護って保持して、補助して説明することが可能なだけである」と思うなかれ。

 (富楼那は、)過去、九十億の諸仏の所でも、また、仏の正しい法を破らず護って保持して、補助して説明してきた。

 (富楼那は、)この九十億の諸仏の所で説法する人の中でも、また、(雄弁さが)最も第一であった。

 また、(富楼那は、)諸仏の所説のくうの法を、明らめて通達している。

 (富楼那は、)「法無礙智、義無礙智、辞無礙智、楽説無礙智」という「四無礙智」を得ている。

 (富楼那は、)明らかに、清浄に、説法することができる。

 (富楼那には、)疑惑が無い。

 (富楼那は、)菩薩の神通の力を十分に備えている。

 (富楼那は、)その寿命に応じて、常に、仏道修行してきている。

 この九十億の諸仏の世の人々は、ことごとく皆、「この人(、前世の富楼那)が、真実の声聞なのである」と思った。

 富楼那は、この「方便」、「便宜的な方法」によって、幾百、幾千もの量り知れないほど無数の「衆生」、「生者」に利益をもたらしている。

 また、(富楼那は、)幾阿僧祇もの量り知れないほど無数の人々に、「阿耨多羅三藐三菩提」、「無上普遍正覚」を求める心をふるい立たせている。

 (富楼那は、)仏国土を清浄にするために、常に、「仏事」、「仏の行い」をおこなって、「衆生」、「生者」を教化する。

 諸々の「比丘」、「出家者」よ、富楼那は、また、「過去七仏」の時代の説法する人の中でも、(雄弁さで)第一位を得ていた。

 富楼那は、また、私(、釈迦牟尼仏)の所で説法する人の中でも、(雄弁さが)第一なのである。

 (富楼那は、)「賢劫」の中の未来の諸仏の時代の説法する人の中でも、また、(雄弁さが)第一なのである。

 そして、(富楼那は、)「賢劫」の未来の諸仏の皆の所で、仏法を破らず護って保持して、補助して説明する。

 また、(富楼那は、)未来、無限なほど量り知れないほど無数の諸仏の仏法を破らず護って保持して、補助して説明して、量り知れないほど無数の「衆生」、「生者」を教化して利益をもたらして、「阿耨多羅三藐三菩提」、「無上普遍正覚」を求める心をふるい立たせる。

 (富楼那は、)仏国土を清浄にするために、常に、精進に勤めて、「衆生」、「生者」を教化して、徐々に、菩薩の道を十分に備える。

 (富楼那は、)幾阿僧祇もの量り知れないほど無数の劫を過ぎると、まさに、この仏国土で、「阿耨多羅三藐三菩提」、「無上普遍正覚」を得て、法明仏と言う称号の仏になる。

 その法明仏は、幾恒河沙もの「三千大千世界」を一つの仏国土とする。

 (法明仏の仏国土は、)「七宝」、「七種類の宝」を地とする。

 地は、手のひらのように、平らである。

 山と丘、谷、みぞ、穴が無い。

 「七宝」、「七種類の宝」の「台観」、「高い建物」が、その仏国土の中に、満ちている。

 諸々の天人の宮殿は、虚空の近くにある。

 人と天人は、交流して接することができて、両方とも、相互に見合うことができ得る。

 諸々の「悪道」、「悪事」が無い。

 また、女性がいない。(男尊女卑ではない。)

 (法明仏の仏国土の)一切の「衆生」、「生者」は皆、「化生」であるし、(悪い)性欲が無いし、大神通を得るし、身から光明を放出するし、飛行が自在であるし、志、意思が堅固であるし、精進するし、智慧があるし、あまねく皆、(仏のような)金色(の身)であるし、(仏のような)三十二相で自身を荘厳に飾る。

 その法明仏の仏国土の「衆生」、「生者」は、常に、二つの物を食べ物、糧とする。

 一つ目は、「法喜」、「仏法による喜び」を食べ物、糧とする。

 二つ目は、「禅悦」、「禅定による喜び」を食べ物、糧とする。

 幾阿僧祇千万億那由他もの量り知れないほど無数の諸々の菩薩達がいて、大神通と、「法無礙智、義無礙智、辞無礙智、楽説無礙智」という「四無礙智」を得るし、善く「衆生」、「生者」を教化することが可能である。

 その法明仏の声聞達は、人数を数えて知ることが不可能で、皆、「三明六通」、および、「八解脱」を得て、十分に備えている。

 その法明仏の仏国土には、これらのような無量の功徳が有って、(仏国土を)荘厳に飾るし、(富楼那である法明仏の願いを)成就する。

 (法明仏の)劫の名前は、宝明である。

 (法明仏の)仏国土の名前は、善浄である。

 その法明仏の寿命は、幾阿僧祇劫もの量り知れないほど無数の劫である。

 法明仏による仏法は、とても長い間、仏国土に住んで留まる。

 法明仏の(仮の身の)死後、「七宝」、「七種類の宝」の塔が建てられて、その仏国土に、あまねく満ちる。


 その時、世尊(、釈迦牟尼仏)は、くり返し、この意義を話したいと欲して、詩で説いて言った。


 諸々の「比丘」、「出家者」よ、明らかに、聴きなさい。

 仏の子の行いとは、善く、「方便」、「便宜的な方法」を学ぶことなのである。

 そのため、(仏の行い、仏の子の行いは)不可思議なのである。(俗人には思考することが不可能なのである。)

 (諸々の菩薩は、)「衆生」、「生者」が、「小法」、「中途半端の法」、「矮小な物」を願って、(仏の)大いなる智慧を(得るために仏になるために修行することを)恐れてしまうのを知っている。

 このため、諸々の菩薩は、声聞や「縁覚」、「独覚」に成って、無数の「方便」、「便宜的な方法」で諸々の「衆生」、「生者」を化して導いて、自ら、このように説くのである。


 この声聞の段階の者は、仏道から、とても遠く離れ去ってしまっているのである。


 菩薩は、量り知れないほど無数の「衆生」、「生者」を皆ことごとく、仏土へ渡して解脱させて、仏道を成就させることができ得る。

 (生者が)矮小な物を欲していて怠けていても、(菩薩は、)徐々に、まさに、(生者を)仏に成らせることができる。

 (菩薩は、)内に、菩薩の行いを秘めて、外には、「声聞である」と現す。

 (菩薩は、)少欲で、生死を嫌い、実に、自ら、仏国土を清浄にする。

 (菩薩は、悪の例として、)「三毒」が有ることを「衆生」、「生者」に示す。

 また、(菩薩は、悪の例として、)邪悪な見解の「相」、「外見」を現す。

 私、釈迦牟尼仏の弟子は、このような「方便」、「便宜的な方法」で、「衆生」、「生者」を仏土へ渡す。

 もし私、釈迦牟尼仏が「現化」、「仏や菩薩が生者を救うために色々な姿に変身して、この世に出現すること」を十分に備えて説いたら、「衆生」、「生者」は、この「現化」を聞けば、心に疑惑を懐いてしまう。

 今、この富楼那は、昔、千億の仏の所で、仏の行いを修行することに勤めて、諸々の仏法を説いて破らず護って、無上の(仏の)智慧を探求してきているため、諸々の仏の所で、上位の仏の弟子として、この世に出現する。

 (富楼那は、)仏法を多数、見聞きして学んでいる。

 (富楼那には、)智慧が有る。

 (富楼那の)所説には、恐れる所が無い。

 (富楼那は、)「衆生」、「生者」を喜ばせることが可能である。

 (富楼那は、)仏の行いを補助して、未だかつて疲れたり飽きたりしたことが無い。

 (富楼那は、)大いなる神通に到達している。

 (富楼那は、)「法無礙智、義無礙智、辞無礙智、楽説無礙智」という「四無礙智」を備えている。

 (富楼那は、)「衆生」、「生者」の「根」、「能力」の利発、愚鈍を知ることができる。

 (富楼那は、)常に、清浄な仏法を説いている。

 (富楼那は、)この(法華経の)ような意義を広く説いて、幾千億もの諸々の「衆生」、「生者」を教えて「大乗法」に安住させて、自らは仏国土を清浄にする。

 (富楼那は、)未来でも、また、量り知れないほど無数の仏に捧げものを捧げて、正しい仏法を破らず護って補助して説いて、また、自らは仏国土を清浄にする。

 (富楼那は、)常に、諸々の「方便」、「便宜的な方法」で説法して、恐れる所が無く、無数の「衆生」、「生者」を仏土へ渡す。

 (富楼那は、)「一切智」を成就する。

 (富楼那は、)諸仏に捧げものを捧げる。

 (富楼那は、)仏法、「宝蔵」、「宝に満ちている蔵に例えられる仏の教え」を破らず護って保持する。

 (富楼那は、)その後、法明仏と言う称号、名前の仏に成る。

 その仏国土の名前は、善浄であり、「七宝」、「七種類の宝」で合成されている。

 劫の名前は、宝明である。

 菩薩達が、とても多く、その人数は幾億もの量り知れないほど無数であり、皆、大いなる神通に到達するし、威徳の力を十分に備えるし、その仏国土に満ちる。

 声聞も、また、無数であり、「三明」、「八解脱」、「四無礙智」を得る。

 (大いなる神通に到達し威徳の力を十分に備えた菩薩か、「三明」、「八解脱」、「四無礙智」を得た声聞)、これらの者達を(真実の)僧とする。

 その仏国土の諸々の「衆生」、「生者」は、皆、既に、(悪い)性欲を断っているし、純一であるし、化生であり、(仏のような)三十二相で自身を荘厳に飾る。

 「法喜」、「仏法による喜び」と、「禅悦」、「禅定による喜び」を食べ物、糧として、更に他の物を食べようという想いが無い。

 女性がいない。(男尊女卑ではない。)

 また、諸々の「悪道」、「悪事」が無い。

 富楼那は、功徳を、ことごとく完成して、まさに、このような「浄土」、「仏国土」を得る。

 賢者、聖者達が、とても多い。

 このような事が、量り知れないほど無数であり、私、釈迦牟尼仏は、今、簡略して説いただけなのである。


 その時、千二百人の心が自在な者である阿羅漢は、このように思った。


 私達は、喜んで、心が未曾有になることを得た。

 もし世尊(、釈迦牟尼仏)が、他の大いなる弟子のように、私達、阿羅漢の各々にも「授記」、「仏に成れる予言」をしてくれたら快くなれるのではないか?


 釈迦牟尼仏は、これらの千二百人の阿羅漢の心の思いを知って、摩訶迦葉に告げた。


 この千二百人の阿羅漢に、私、釈迦牟尼仏は、今、まさに、目の前で、順番に、「阿耨多羅三藐三菩提の記を授け与える」、「仏に成れる予言を授け与える」。

 この阿羅漢達の中の、私、釈迦牟尼仏の大いなる弟子、(阿若 )憍陳如は、まさに、六万二千億人の仏に捧げものを捧げて、その後、普明仏と言う称号の仏に成ることができ得る。

 五百人の阿羅漢、

優楼頻螺 迦葉、

伽耶 迦葉、

那提 迦葉、

迦留陀夷、

優陀夷、

阿㝹楼駄、

離婆多、

劫賓那、

薄拘羅、

周陀、

莎伽陀などは、

皆、まさに、普明仏と言う同一の称号、名前の仏と成ることができ得る。


 その時、世尊、釈迦牟尼仏は、くり返し、この意義を話したいと欲して、詩で説いて言った。


 (阿若 )憍陳如は、まさに、量り知れないほど無数の仏にまみえて、阿僧祇劫を過ぎて、「『等正覚』、『無上普遍正覚』を成就する」、「仏に成る」。

 (阿若 憍陳如である仏は、)常に、大いなる光明を放つ。

 (阿若 憍陳如である仏は、)諸々の神通を十分に備えている。

 (阿若 憍陳如である仏の)名声は、十方に、あまねく聞こえることになる。

 (阿若 憍陳如である仏は、)一切の生者に敬われることになる。

 (阿若 憍陳如である仏は、)常に、無上の仏道を説く。

 そのため、普明仏という称号なのである。

 その普明仏の仏国土は清浄である。

 普明仏の菩薩達は皆、勇猛である。

 (普明仏の菩薩達は、)ことごとく、妙なる立派な高い建物に昇る。

 (普明仏の菩薩達は、)諸々の十方の仏国土を巡って、無上の捧げ物を諸仏に捧げる。

 (普明仏の菩薩達は、)このように捧げ終わると、心に大いなる喜びを懐いて、「須臾に」、「瞬時に」、本国へ帰還する。

 (普明仏の菩薩達には、)このような(瞬間移動の)神通力が有る。

 普明仏の寿命は、六万劫である。

 普明仏の正法は、普明仏の寿命の倍、仏国土に住んで留まる。

 普明仏の像法も、また、正法の倍、仏国土に住んで留まる。

 (阿若 憍陳如である)普明仏の仏法が姿を隠すと、天人、人は憂う。

 五百人の阿羅漢が、順番に、まさに、普明仏と言う同じ称号の仏に成る。

 五百人の阿羅漢は、「転次して」、「転々と次々と」、このように「授記する」、「仏に成れる予言をする」。


 私の(仮の身の)死後、誰々は、まさに、仏に成る。

 その仏に化されて導かれる世界、仏国土も、また、私の今日の仏国土の荘厳な清浄のようになる。

 また、その仏の諸々の神通力、菩薩達、声聞達、正法および像法、寿命の長短も、皆、前述の所説のように(私の今日のように)なる。


 (摩訶)迦葉よ、あなたは、すでに、五百人の心が自在な者である阿羅漢(の仏に成る未来)を知ったことになる。

 他の諸々の声聞達も、また、まさに、同様に(仏に)成る。

 この集会に不在な者達には、あなた(、迦葉)が、まさに、その者達の為に、(仏に成れる予言を)説きなさい。


 その時、五百人の阿羅漢は、釈迦牟尼仏の前で、「記」、「仏に成れる予言」を受けて得て終わると、喜んで、心が踊躍して、座より起立して、釈迦牟尼仏の前に進み出て、頭を釈迦牟尼仏の足につけて敬礼して、「悔過して」、「悔い改めて」、このように自らを責めた。


 世尊、釈迦牟尼仏よ、私達は、常に、このように自ら思ってしまっていました。


 既に、最終的な究極的な「滅度」を得た。


 (しかし、)今、「このように思う者は無知者のような者である」と知りました。

 理由は何か? (と言うと、)

 私達は、仏の智慧を得る必要が有ります。

 しかし、(今までは、)自ら、「小智」、「中途半端の智慧」、「矮小な智慧」で「満ち足りている」としてしまっていました。

 世尊、釈迦牟尼仏よ、例えば、ある人が親友(である仏)の家へ行って、酒に酔ってしまって、眠り込んでしまっているような物なのです。

 この時、親友は、公務のため、値段がつけられないほど貴重な宝玉を、その、ある人の衣の内側に結び付けて、宝玉を与えて、去って行きました。

 その、ある人は、酔ってしまっていて、眠り込んでしまっていて、全く、覚知していませんでした。

 ある人は、起きると、巡って、他国へ行って、衣食のために、つとめて、衣食を求めました。

 ある人は、とても大いに困難して苦悩しました。

 もし少しでも所得が有れば、「満ち足りている」としていました。

 後に、親友は、ある人と会い、この状況を見て、このように言いました。


 愚かであるかな。

 一人前の人であるのに。

 どうして、衣食の為に、このような状況に至ってしまったのか?

 私は、昔、あなたに安楽を得させたい、五欲を思い通りにさせたいと欲して、何々年何々月何々日に、値段がつけられないほど貴重な宝玉をあなたの衣の内側に結び付けたのです。

 そのため、今も、(宝玉が、あなたの衣の内側に)現に存在しています。

 しかし、あなたは、知らずに、労苦して、憂い悩んで、自力で生活しようと求めてしまいました。

 とても愚かです。

 あなたは、今、この宝玉を売って、常に、思い通りに、欠乏が無いようにしなさい。


 仏も、また、同様なのです。

 菩薩と成っていた時、私達を教化して、私達に仏の「一切智」を求める心を起こさせました。

 しかし、すぐに、忘れてしまって、知覚せず、阿羅漢を得て、このように自ら思ってしまいました。


 「滅度」し終えた。


 生きるのに困難して苦労しているのに、少しの物を得て「満ち足りている」としてしまっていました。

 仏の「一切智」を求める願いは、なお、存在していて、失っていませんでした。

 今、世尊、釈迦牟尼仏は、私達を悟らせて、このように言ってくれました。


 諸々の「比丘」、「出家者」よ、あなた達の得ている物は、最終的な究極的な「滅度」ではない。

 私、釈迦牟尼仏は、長い間、あなた達に、仏と成るための善の種と成る善行を植えさせて、「方便」、「便宜的な方法」として「涅槃」、「煩悩の寂静」の相を示した。

 しかし、あなた達は、このように思ってしまいました。


 真実の「滅度」を得たのである。


 世尊、釈迦牟尼仏よ、私達は、今、知りました。


 実は、菩薩なのである。(仏に成れていない。)


 私達は、「阿耨多羅三藐三菩提の授記」、「仏に成れる予言」を得て、これにより、とても大いに喜んで、心が未曾有になることを得ました。


 その時、阿若 憍陳如などは、くり返し、この意義を説きたいと欲して、詩で説いて言った。


 私達は、無上の、安穏とさせる「授記」、「仏と成れる予言」の「声」、「教え」を聞いて、喜んで、心が未曾有になりました。

 無量の智慧者である仏を敬礼します。

 今、世尊、釈迦牟尼仏の前で、自ら、諸々のあやまち、とがを悔い改めます。

 無量の仏の宝の中で、少し「涅槃」、「煩悩の寂静」の分け前を得ただけなのに、無知な愚者のように、自ら「満ち足りている」としてしまっていました。

 例えば、貧困で困窮している、ある人が、親友(である仏)の家に行ったような物なのです。

 その親友の家は、とても大いに富んでいて、色々と、諸々の御馳走ごちそうを設けてくれました。

 (また、親友は、)値段がつけられないほど貴重な宝玉をある人の「内衣」、「肌着」の内側に結び付けて、黙って宝玉をある人に与えて、ある人を放置して、(公務しに行くため)去りました。

 その時、ある人は、眠り込んでしまっていて、覚知していませんでした。

 この、ある人は、起きると、巡って、他国へ行って、衣食を求めて、自力で済ませていました。

 ある人は、生きるために、とても困難して苦労しました。

 少しの物を得て、「満ち足りている」としてしまいました。

 更に好い物を願いませんでした。

 ある人は、知らずに、「内衣」、「肌着」の内側に、値段がつけられないほど貴重な宝玉を所有していました。

 宝玉を与えた親友は、後に、この貧しい、ある人を見て、にがり切って、この、ある人を責め終わると、結び付けていた宝玉を示しました。

 貧しい、ある人は、この宝玉を見て、その心を大いに喜ばせました。

 ある人は、富んで、諸々の財宝を所有して、五欲を思い通りにしました。

 私達も、また、(例え話の貧しい人と)同様なのです。

 世尊、釈迦牟尼仏は、「長夜」、「輪廻転生」で、常に、(生者を)あわれんで、見てくれて、教化して、無上の仏を求める願いを植えさせました。

 私達は、無知のため、覚知せず、少し「涅槃」、「煩悩の寂静」の分け前を得ただけなのに、自ら「満ち足りている」としてしまって、(仏の)他の物を求めていませんでした。

 今、釈迦牟尼仏は、私達を悟らせて、このように言ってくれました。


 (仏ではない者の「涅槃」、「煩悩の寂静」は、)真実の「滅度」ではない。

 仏の無上の智慧を得たら、真実の「滅度」を得たことに成るのである。


 私達は、今、釈迦牟尼仏から、「授記」、「仏と成れる予言」の荘厳な事を聞いて、また、「転次して」、「転々と次々と」、「受決する」、「仏と成れる予言を受けられる」と聞いて、身と心で、あまねく、喜んでいます。

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