ファイナルアンサー
夏が始まる頃、克文は奇跡的に葵と元の関係へと戻ることができた。結局、葵の提案は克文の身丈に合っていたのだった。克文にとって恋人という役回りはプレッシャーだった。そのため、どうしても過剰な振る舞いへと走りがちなところがあったが、そうした役回りから下りることで、自然体で葵に接することができ、図らずもそれが功を奏したのだった。デートでの飲食店にしても、立ち飲み屋などのよく行っている店に行った。また、克文が犯してきたこれまでの失敗やら何やら包み隠すことなく話した。そうすることで、克文は信頼できる相手として認められたのだった。結局のところ、信頼こそが関係を築く上で核となるものであり、経済的な状況は当初から問題ではなかったのかもしれなかった。
およそ十週間ぶりに葵と同衾した夜は、最初に同衾したときの宝くじに当たるような喜びではなく、もっとはるかに深い、達成感のある喜びに満たされた。それこそが、自分が人生で成し遂げた最大のことである、と確信できた。それは形あるものでなく、誰かに伝えられることではなかったが、人生の核になると予感した。
お盆シーズンを迎える頃、妹からLINEがあった。お盆の予定を訊かれたが、帰る予定はないと答えた。その後、克文の意表を突く質問があった。
「そっか。ところで、朋恵とはやりとりしてる?」
「最近はしてないけど、どうして?」
「今、精神病院に入院しているそうよ。六月に自殺未遂を犯したとか。朋恵のお母さんから聞いた――」
浮かれていた気分が吹き飛んだ。克文はその病院名を訊いた。それは、東京の郊外にある病院だった。克文は久しぶりに朋恵のSNSを見た。そこには、最後に確認した涙の画像の後、さらに痛々しい投稿が続いていた。
(ひどい……。あのとき通知をオフにしていなければ。もしかしたら、朋恵の力になれたかもしれないのに)
翌日、克文は朋恵が入院している病院に行った。それは高尾山のふもとにあり、高尾駅からバスでアクセスできた。
病院施設は明るい色調でデザイン性が高かった。おそらく新しい病院なのだろう。受付で面会に来た旨を告げると、患者との関係を訊かれた。親戚と言うと面会を許可された。朋恵の病室は個室だった。克文が病室の引き戸をノックすると、「はい」と朋恵の声があった。
「
沈黙があった後、引き戸が開いた。朋恵はTシャツにスウェットパンツを着ており、化粧してなかった。
「久しぶりですね。どうぞ」
朋恵は特にやつれた様子ではなかった。ベッドと机だけしかない狭い部屋だった。窓は一つだけ。鉄格子は付いてなかった。精神病院の部屋であることを伺わせるものは特にないように思えた。
「ここにずっといるの?」
「最初は四人部屋だったんだけど、個室にしてもらったの。ひどいところでしょ?」
「何もないね」
「そうなのよ。やることなくて。まあ、もうすぐ退院できるから良かったよ。ここ狭いからロビー行こうか?」
島の形にソファが配された広々としたロビーには人がまばらだった。二人は、ソファに並んで座った。
「退院できて良かったね。どれだけの期間いたの?」
「六月からだから一か月半くらいかな。最初は、ひどいものだったわよ。拘束もされたし。まあ、オーバードーズなんてした自分が悪いんだけど。もうだいぶ落ち着いた感はあるね」
「そういうことをした理由、訊いてもいい?」
「本を正せば恋愛がらみだね。彼氏と喧嘩して、浮気したんだよ。私が。そうしたら、浮気相手の男がヤバイ奴で、ストーカー化してね。警察に行ったりしてたから彼氏に浮気したことがバレて、振られた。それからオーバードーズするようになって、仕事も辞めたんだ」
「なるほど。いろいろあったんだね」
克文はSNSのことに触れるべきかどうか迷った。
「うん、思えばこの数週間で、まるで雪崩のように人生が壊れたね」
「……だけど、見たところ、健康そうだし、人生まだまだこれからだよ」
「そうかな? 仕事また探さないとならないし、これで貯金もだいぶ減ったし、不安しかないよ」
そう言う、朋恵の目は潤んでいた。克文は反射的に従妹の白い手に自分の手をかぶせた。朋恵は克文に驚きの眼差しを向けた。
「大丈夫。これからは、僕が相談に乗るから。退院したら、飲みに行こう」
「ありがとう」
「実は、俺……、本当はもっと早く君に連絡することができたんだ。でも、ちょっと事情があって、しないほうがいいかって思ってたんだけど、間違いだったね」
「……言ってること、よくわからないな。でも、こうして遠路はるばる来てくれて嬉しいよ」
熱のこもった眼差しを受けて、克文は従妹を抱きしめたいという思いをこらえるのに必死だった。
帰りのバスに揺られているとき、道路に面した小学校のグラウンドを左手にバスが信号待ちで止まったが、グラウンドには、野球をやっている子どもたちの姿があった。克文は、以前自分にもこういう時代があったことを思い出した。あの頃から自分は変わったのだ、と認識した。それは、大人として振る舞うようになったということである。しかし、思春期には「大人」を攻撃していたのではなかったか? よくあるロックの歌詞に共感していたが、自分もその「大人」になったのではないだろうか?
克文は高尾駅で電車に乗ると、八王子駅で下車した。二十代の頃、克文は八王子市に住んでおり、よく八王子の繁華街に遊びに来ていた。夏の八王子には夜遊びした思い出があった。駅構内を出ると、当時できた駅前の商業施設が目についた。
時間は午後六時半頃で、夏の夕方という克文が好きな時間帯だった。それは、昔、会社のバンの中で真夏に都心で見た夕焼けの景色の美しさが印象に残っているためだった。その頃、克文は不本意ながら、肉体労働――マンションの共用部分の清掃――に従事していたが、その夕焼けは克文に希望を与えるものだった。景色一つで心持ちが変わるというのは不思議だったが、それは事実だった。
克文は、八王子の手頃な店を検索して、駅近くにある居酒屋に入った。
そこは、店主とアルバイトだけの小ぢんまりとしたやきとりの店だった。客は少なかった。若いカップルと中年のカップルの二組だけだった。カウンター席にいるのは克文だけだった。すぐに瓶ビールと枝豆と冷奴を注文した。次に焼きとんと焼鳥を全部で五本ほど注文し、最後におにぎりを注文した。
ドリンクはホッピーセットの「中」のおかわりで十分だった。克文は飲食しながら、昔八王子のクラブに行ったことを思い出していた。そこはR&Bが中心の小箱のクラブだった。克文は一人で来ていたが、そのうち常連客のOLと話したのだった。「宇宙人みたいって言われない?」。そう訊かれたことは覚えていた。長時間カウンターで誰とも話すことなく一人でいたからである。そうした行動はおよそ「クラバー」に似つかわしくないものだった。結局、克文はいわゆる一般的なクラバーではなかった。酒や音楽は好きだったが、陰気さはいささかも抜けなかった。
そのとき話しかけてきたOLは魅力的な女性だった。そういう女性から話しかけられるのは若い頃だけだろう。克文はそうした女性からの行動をまったく利用できてなかった。そのOLだけでなく、クラブで何らかのアプローチしてきた女性は他にもいた。たとえば、自分の隣に座ったり。しかし、克文はそういう女性に対して何の反応もしたことがなかった。
克文が飲み屋を出たとき、時間はまだ二十時になったばかりだった。そこで克文が検索したのはピンサロだった。昔八王子のピンサロに行ったことがあり、それ以来行ってなかったが、今日は当時を懐かしむイベントになっていたので、ピンサロは最適だった。
店は雑居ビルの二階にあった。店に入ると若い男性の店員に五千円を払った。他に客は若い男が二人いた。待合所のソファで十分以上待った後、薄暗いフロアに案内された。大音量のJポップが流れていた。パーティションで区切ってあるだけなので、他の人のプレイも丸見えだった。
相手をしてくれる女性は、スレンダーで、まだ二十代と思えた。シュミーズにパンティという下着スタイルだった。克文はフラットシートのブースに入ると、八王子で飲んでいたことを話した。
「そうなんだ。私もよく八王子で飲むよ。お兄さん、八王子に住んでるの?」
ミクという子は言った。
「いや、横浜に住んでるけど、昔は八王子に住んでた。今日はたまたまこっちに来る用事があってね。懐かしくなって八王子で飲んでたんだ」
「へぇ~、その頃ピンサロにも行ってたの?」
ミクはフフっと笑った。
「そうだね。二回ほど行ったよ。当時とあまり変わってないね。音楽は当時ユーロビートだったけど」
「音楽は、変えてもらったんだよ。ユーロビートは気が狂いそうになるから。他はまあ、変わりようがないよね」
ミクはそう言うと、克文の手を取り、自分の胸に持っていった。
「触っていいよ」
そのトーンを落とした声には、淫靡な響きがあった。克文はその豊満な胸を堪能した。そのうち鼻息が荒くなった。それからパンティの中に手を入れた。ミクは濡れてなかった。克文が「舐めたい」というとミクは了承した。克文は顔を下げて尻を上げるという滑稽な体勢になって、ミクの股間に顔を突っ込み、夢中でミクの割れ目を舐めた。かすかな尿臭がしたが、それが克文の欲情を煽った。
(やっぱり女はマンコだよな)
克文は夢中で舌を這わせながら、そんなことを考えていた。しかし、ミクは喘ぎ声を漏らすこともなく、濡れることもなかった。今度はミクの番になったが、克文のイチモツは勃たなかった。結局、克文は発射することなく店を出た。
克文は罪悪感を抱えていた。発射できないなんて、悪いことをしたな、と思っていた。ピンサロ体験で唯一克文が得た教訓といえば「マンコはいつでも舐められる」というものだった。マンコこそは、克文が毎日夢に見ているものだったが、結局、数千円でマンコは舐められるものだった。
(濡れたマンコは違うだろうか? 葵は濡れる。とはいえ、葵に性的魅力がなくなってもなお彼女を好きでいられるだろうか? 一方で、朋恵には性欲以上のものがある。つまり、朋恵の人生に責任を負っている)
厳密にはそうではないかもしれないが、克文はそういう思考に陥っていた。もし自分が朋恵にメッセージを送っていたなら、朋恵は入院することなどなかったのではないか、と。
葵とはセックスできる関係に戻って嬉しかったが、それでもセフレという関係を出ないと考えていた。葵に対して結婚を持ち出すことはできなかった。彼女にとって自分と結婚することにいかなるメリットもないことはわかっていたから。
朋恵に対してもメリットはないが、メリットを超越した深い動機があるように思っていた。それは、つまり責任であり、それは自分だけが負っていると思えるものだった。そのことに克文は魅了された。
(朋恵を幸せにするという目標は何と素晴らしいことだろう)
克文はそのためにありとあらゆることができる、と強く思った。またそうすべきである、と。
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