第22話 ペンネームの由来
結局、それから二時間ほど二人でプチ会議を繰り広げたが、オルフェウスの続刊も、それに代わる新作のアイデアも煮詰まらなかった。そんなにすぐに一作分の構想が纏まるなら、世の中の創作者の誰も苦労はしない。
それでも、ちゃぶ台に広げられたノートには、
「ふぅ。今日はこんなところかなー」
ペンを置き、可愛く伸びをする彼女の胸元から目をそらしつつ、俺は静かに頷いた。正直、彼女と顔を突き合わせる緊張と、真剣な案出しの合わせ技ですっかり脳は疲れ切っていたが、すかさず向けられた彼女の笑顔が全てを癒やしてくれる気がした。
和室の窓から覗く空は、もう夕暮れに染まっている。
「……なんか、結局大したアイデアは出せなくてゴメン」
俺が素直に言うと、彼女は「ううん」と満面の笑みを浮かべて。
「すっごく勉強になったよ、ありがとっ。それに……」
珍しく、言葉を途中で溜めてから、恥じらうような上目遣いを向けてきた。
「構想が纏まりきらなければ、また
「……いや、だから……。反則なんだって、そういうの……」
癒やしなんてとんでもない。絶えず新たな動揺を俺に叩き込むことを、彼女は最後まで忘れていないのだった。
***
その後、「夕食も一緒に食べていけばいいのに」と言うおばさんに頭を下げて、家を辞去する間際。
駅まで送ってくれるという藤谷さんが、先に玄関で靴を履いているところで、おばさんはふと「尾上くん」と小声で俺を呼び止めてきた。
「あなたといると、
花柄のマスク越しの微笑に、俺はドキリとした。
もしかして、本当は彼女のウソに気付いていて……。いや、それより……。
「……俺なんかに、出来ることでしたら」
動揺の中で答えながらも、俺は今のおばさんの言葉の重さに、僅かな違和感を覚えていた。
いくら居候先の保護者と言っても……。今みたいなセリフは普通、実の母親とかが言うものなんじゃ……?
「また遊びに来てちょうだいね。今度は正式のアフタヌーンティーにするわ」
「は、はい。お邪魔しました」
精一杯の丁寧さでお辞儀をして、藤谷さんの後について玄関を出る。
去り際に見たおばさんの目は、今の楽しそうな姪っ子の姿に本気で安堵する、慈愛の色に満ちて見えた。
すっかり夜の
「
彼女の言葉に、写真立ての中の優しそうな女性の姿がふと脳裏をよぎった。
「七瀬って名前、お母さんの命名なんだ」
「うん、最初はほんとに虹の星でナナセって付けようとしたんだって。さすがに読めないからって親戚みんなに止められて、それで普通の字になったの」
「へぇ……」
つまり、母親が付けようとしていた名前をペンネームとして拾い上げたわけか……。そうなると、俺が写真立てに気付いたときの彼女の反応の理由は、やっぱり関係が悪いとかじゃなく……。
「なな……」
「んー?」
「……いや、何でも……」
ナナセ先生のお母さんって今どうしてるの、とは、さすがに聞けなかった。本当の恋人でもないのに、彼女が自分から言ってこないことにまで踏み込める勇気はない。
だけど、先程のおばさんの態度といい、どこか母親の存在を過去形にしたような彼女の話し方といい、その母親に貰った名前をペンネームに掲げてまで大事にしていることといい……。大体、想像される答えは一つじゃないか。
「なになに? 私のこと呼び捨てにしたいー?」
「違うって。……いや、そのさ」
言い淀んだ言葉の代わりに、俺は咄嗟に別の質問を引っ張り出した。
「
「ふふっ、あるねー。じゃあ、駅に着くまでクイズね?」
ぴんと人差し指を立てて、街灯の明かりの下で彼女は微笑む。
「私ことナナセちゃんは、どうしてペンネームにイロハって付けたんでしょうー」
「えぇぇ……ウミガメのスープ並に難しいやつじゃん……」
まあ、それを言うなら、そもそも彼女が俺と親しく接してくれること自体、かなりの謎なんだけど……。
「いろは……と言えば、『いろはにほへと』……だろ。言葉を綴る仕事だから、それっぽくした、とか?」
ひとまず思いついた答えを口にすると、彼女はマスク越しに自分の口元に指を当てて「うーん」と唸った。
「ちょっと惜しいかなっ。でも、一発でいろは歌に辿り着くのはすごいよ。さっすが私の尾上くんだねー」
「いや、キミのものではないですけど……」
「じゃあ、ヒントね。いろは歌といえば何文字でしょう?」
にまっと笑いながら問うてくる彼女に、律儀に心拍数を上げられながらも、俺は必死に思考を回転させる。
「えー……。あれって五十音に対応してるわけだから、大体そのくらいの文字数だとは思うけど……」
いろはにほへと、ちりぬるを……。わかよたれそ、つねならむ……。
なんか源氏物語の漫画があったなぁ、と思いながら、俺は指を折って文字数を数え上げた。
「……四十七文字?」
「せーかい。『ん』を入れると四十八文字だけどね。さて、四十七という数字から連想されることは?」
立て板に水の調子で問いを重ねてくる美少女作家の表情は、学習アプリのCMで見る予備校講師のように楽しげだった。
「
「いろは四十七字を知らないのに、よくそっちは秒で出るねー。でも残念っ、忠臣蔵は関係ありませーん」
「じゃあ……」
まさか銃の名前じゃないだろうし。握手会で有名なアイドルグループ……は、彼女の美貌には釣り合うだろうけど、数字が違うし。となると、残る可能性は……。
「……都道府県?」
俺が言うやいなや、彼女は「ぴんぽーん」と可愛く声を上げて、親指と人差し指でマル印を作ってきた。……くっ、一挙手一投足がいちいち可愛いな……。
夜道を彩る店の明かりは次第に増えて、駅はあと数分の距離に近づいてきている。
「私の想いを込めた作品が、四十七の都道府県の端から端まで届きますようにって。北海道から沖縄まで、日本中のどこの本屋さんに行っても、私の本が並んでますようにって」
東京の夜空よりもずっと煌めく瞳を輝かせて、美少女作家はその由来を語った。
街灯に照らされた横顔の美しさに一瞬
「私ね、今はまだ、こんなご時世だから無理だけど……いつか世の中が元に戻ったら、日本中の本屋さんを旅したいの。印税とか、ぱーっと使っちゃってさ。行ったこともない土地の、聞いたこともない本屋さんをたくさん見てみたい」
「……旅の目的が本屋さんって、珍しいね」
書店なんて、ある程度の規模の街ならどこでも変わらないだろうに……。
でも、そんな、ちょっと不思議な感性こそが、彼女の彼女たるゆえんなのかもしれない。
「その時は、ついてきてね?」
「えっ!?」
ふいに飛んできた矢のような一言に、ずばっと心臓を撃ち抜かれ、一瞬で頭が真っ白になる。
「いやいやいや、そういうことはさ、本当の彼氏とかが出来た時に言うべきだって!」
俺が動転して声を張っても、彼女はくすくすと笑うだけで。
これ、もしかして、本当に俺から告白すれば可能性はあるんじゃ……なんて、無謀な考えが頭の隅に浮かんでくるのを、かろうじて残る理性で払いのけようとした――その時だった。
「尾上くんは?
「……あぁ、大した意味じゃないよ。当時好きだったアニメの主題歌の――」
そこまで答えかけてから、俺はぎょっとして目を見張った。
数秒、時間が止まり――
好きとか何とか言われた時とはまるで違う種類のざわめきが、さぁっと心を撫ぜる。
聞き間違いじゃない。今、確かに彼女は口にした。リアルでは俺自身と後輩しか知らないはずの、かつての俺のペンネームを――。
「って、なんで知ってんの!? えっ、俺、キミにその名前言ったことあるっけ!?」
「さあ、なんででしょうー」
彼女の余裕の流し目が、ますます混乱に拍車をかける。
チカにはちゃんと口止め……まではしてないか。アイツがバラしたのか? 信奉する美少女作家に問われるがままに?
いや、でも、それなら彼女は「チカちゃんに聞いた」と言うだけでは……?
「えっ、何なのキミ、今までで一番コワイんだけど」
「怖いの? 嫌いになっちゃう?」
今度は切ない演技の上目遣い。俺は反射的にふるふると首を横に振る。
「いや、嫌いにはならないけど……!」
「よかった。じゃあ、次会うときまでの宿題ね? どうして私はキミのペンネームを知っているのでしょうー」
「……次って、もう明日じゃん」
俺が言うと、彼女は初めてそれに気付いたように、くすっと笑って。
「そうだね、明日からも……これからも、よろしくね?」
「え?」
もう駅が目前というところで、静かに立ち止まり、きゅっと俺のジャケットの袖を掴んできた。
振り向いた瞬間、引き寄せられるように彼女と目が合う。
「ずっと……ずっとお互いのファンでいさせてね。いなくなったらダメだよ」
星の瞳でまっすぐ俺を見上げてくる彼女の表情は、なぜか、俺がどこかに消えてしまう可能性を本気で危惧しているように見えて。
……分不相応な夢を見させてもらっているのはこっちなのに、どうして彼女がそんな切ない目をするのか。
「ならないって。どっちかって言うとキミの方が月に帰ったりしそうじゃん」
俺が努めて苦笑いを作ると、二秒ほど置いて、彼女の目にも笑みが戻った。
「その時は、月まででも追いかけてきてよ」
「原作より要求キツイんだ」
竹取物語を「原作」と表現したのが可笑しかったのか、彼女は空いた片手で口元を押さえて笑い――
それから、俺の袖を掴んでいた手をすっと持ち上げたかと思うと、俺の小指に自分の小指を絡めてきた。
「っ!?」
油断しきっていたところに思わぬ攻撃を食らって、俺の意識は硬直する。
「いなくならないって、約束ね?」
「……恥ずかしいって」
道行く人達がチラチラとこちらを見てくる気がする。さすがに指切りの歌を歌いだしはしなかったが、彼女はじっと笑顔で俺を見つめたまま、しばらくその指を離してくれなかった。
どくどくと鳴る自分の心臓の音に、駅から微かに聴こえる発着のアナウンスの声が混ざる。
「……約束する。いなくならないよ」
呟くように俺が言うと、彼女はこくんと頷いて、やっと指を離してくれた。
じゃあ、また明日――と言い合って別れる彼女の声には、もう先程の切なさはカケラもなく。
なぜ昔のペンネームを知られていたのかという疑問も、今は意識の奥に引っ込み――
改札の外から小さく手を振り続けてくれる彼女の姿を、俺は何度も振り返って目に焼き付け、いなくなるものかと強く思った。
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