「手縫いのこころ」

Uamo

原点0と移動点Pと固定点a SinCosTan

その頑健なもので四方八方守られている中の、

脆い崩れやすいはかない心が欲しかった。

けれど、その守りは強く負荷をかければかけるほど固く、

どこにも隙がなく、まるく、とっかかりのないもので、

彼は遂にはそれを諦めた。

そして隣の男がその殻に触れた時、その守りがまるで嘘のように剥がれた。


彼は考えた。

自分のどこが男に劣っているというのだろう?

様々な角度からその姿を見た。

それでも遂に彼にはわからなかった。

そのてのひらの上にある、とろけるような心が欲しい。

どうすればそれを自分のものにできるだろうか。

いつしか彼はそればかりを考えるようになっていた。


彼が求めてやまないその心を、男はそっと床に置いた。

手から、放した。

円い脆い心は床に当たり歪にその形を変えた。

彼は男を批難する。

その手にあればなによりも美しいものであるのに、なぜそんなことをするのか。

男は困ったような顔をして、思った以上に柔らかく壊しそうで怖いのだと言った。


彼は何を今更そんなことを言うのか、と詰め寄った。

脆弱なそれは手にする前から脆弱だとわかっていたはずだ、と。

男はそれでも床に置いたまま一歩二歩と遠ざかる。

置かれた心。

彼が何よりも望んだそれが目の前にあって、触れるかどうか、彼は動けなかった。

だって己にはあの守りは解けなかったのだ。


迷った末に、その指先が触れる。

その瞬間にそれは地べたに溶けた。

形を保てず染みのように拡がった。わかっていた。

これはあの手だからこそ堪えていた。

あの男の手だからこそ。

自分の手ではだめなのだ、何が、何がだめなのか。

なぜそれは自分ではいけないのか。

染みに抉るように爪をたてる。

そして彼はその形を戻すことを考え始めた。


よくあることだ。

見知らぬ誰かが真実と異なることを広めることは。

誰かが言い始めた。

その心を壊したのは彼なのだと。

そして誰かが誰かに囁いた。

それらはまるで燃え盛る炎のようにあらゆる場所に芽吹いた。

違う。彼は叫んだ。

自分ではない。これを殻から取り出してこんな場所に置いたのはあの男だ。


その心ははたして戻らなかった。

そこに拡がったまま染みとなり形を取り戻さなかった。

彼はそれを諦めきれず方法を探しにそこを離れる。

元凶の男は二度とそこを訪れなかった。


誰も来なくなったそこに少年が立つ。

「君はどうしたかったんだい?」

心は何も答えなかった。

ただ崩れて地べたに拡がりそこに在る。


彼は次第に無力感に苛まれた。

あの男が触れることを止めればよかった。

あの殻の外から愛でるだけでよかった。

ああすればよかった、こうすればよかった。

どこを探しても元に戻す方法が見つからない。

彼はついには遠く果ての地に自身を閉ざした。

崩れた心の元に戻ることもせず、悲嘆に暮れた。


形を保てずに崩れ落ちた心がそこにある。

床に染みのように拡がり消えない跡と成り果てている。

その色は濁りあらゆる色を飲み込む混沌の色と化していた。

心は何れにか問う。なぜここに置いたのか。

なぜその温かい手で触れる優しさがありながら、これほど非道なことをするのか。

心は崩れたまま空を仰いでいた。



闇のように成り果てた心の上に彼女は仁王立ちをした。

心に問う。

確かに彼は意中の者ではなかっただろう。

その頑健な守りを解けぬ相手だっただろう。

確かに男は責任無きことをしたかもしれぬ。

だがそれで彼の言葉に耳を傾けもしないのはどういうことか。

両足で染みを下敷きにして彼女は怒っていた。


男も男だ。

怖がるくらいなら外から眺めて満足しておけばよかったのだ。

中途半端に手を出したりして。

彼女は彼がひどく傷ついたことを許せなかった。

しかし彼女は当事者ではない。

心は彼女にその足を下ろせと命じた。

誰にも自身を踏みつける権利などないのだと、その足を絡め取り、彼女を転がした。

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