6
──恐怖というのは、目の前のものに対して自分が太刀打ちできないと感じた時に、浮かぶものだ。太刀打ちができない、というのは、物理的にかもしれないし、理解ができないとか、飲み込めないとかいった精神的なものかもしれないけれど。
今。春㫤が溶かしていく肉の穴を降りながら、何かが怖いとはあまり思わなかった。
無論、この赤黒い世界は
それは幼い頃から彼女が彼女を守るために会得したものではあった。
ただ、そういうフィルターを永遠に、
だから、今夜はこうして朦朧と血肉から思考を逸らすとしても、少しずつこのフィルターは、解体する必要があるだろう。乗り切ったかに思えた恐怖が、意図せず脳裏に揺さぶり戻される瞬間というのは、他人からの暴虐に等しい。それよりはまだ、自分の意思で手に取って、時間をかけてでも咀嚼そしゃくした方が、これ以上犯されはしないというものだ。この自己の、尊厳が。
…その行程には、問題はなかった。度を越した恐怖の処理には、その感情を認めて支えてくれる他者というのが必要だ。それは無論、自分の中に存在させることもできるから。ただ、恐怖の解体まではできても、残留廃棄物のような
「生駒ー」
「…はい」
「そろそろだけど、なんか全然移動してない…感じがするんだよな」
春㫤は肉の襞に、ぐ、と手のひらを押し当てながら言った。鼠を潜らせたものに触れていると、中の構造がどうなっているのか感じられるらしい。少女だけでは手当たり次第に肉塊を蒸発させるか切り刻むしかなかっただろうが、彼は先ほどの腕の生えた蛇の居場所を的確に掴んで見せている。
「ふむ…休んでいるんですか? それとも、私たちみたいに潰されたとか…?」
潰された…と口のなかで反芻しながら、春㫤はその肉塊のかたちを確かめるように視線を宙へやる。
「…なんか、どろどろ、してる?」
「先輩、溶かしました?」
「してない」
なんで再生しないんだ? と首をひねりながら春㫤は生駒に、この奥、と言った。その手のひらの近くに自分の手を押し当てて、彼女は、く、と瞳孔を開く。熱にはじけ飛んだ血肉は、ふたりに降り注ぐこともできずに霧散した。その奥から何か伸びてくることを警戒してか、銀の鎖が前方を護るようにしなる。
少女はすこし、微笑んだ。それから暗闇に向かって、手を掲げる。
──まるで、磔にされながら捕食されているようだった。その蛇は。
肉壁の内側に半分沈められながら、確かに、どろどろと溶かされて吸われている。だがまだ動いていた。痛みを感じているような抵抗の仕方ではない。階段を今もまだ上っているような、巻かれたゼンマイの分だけしか動く術を知らないような、在り方、だ。
「…ど、ういう、こ、と…ですか…?」
この肉壁は少女たちの敵ではなかったのだろうか。
「…先輩。この…肉壁の方を倒さないといけないんですか?」
生駒は蛇から視線を外さないまま春㫤に尋ねた。青年は、いや…と困惑した声で答える。
「心臓はこっちの蛇にしかないぞ。だから…ここは本当にただの、内臓みたいな…肉塊…」
「──内臓」
春㫤はこの肉塊の全容を把握したうえで、内臓と表現した。意味のない血肉の塊ではなくて、機能と連続性を持っているということだ。しかし心臓は無い。
「脳は? 先輩、この肉壁に感覚の統合器官はあります?」
「ない。俺が脳っぽいなってわかるものはってことだけど」
であれば確かに、敵、ではないかもしれないと少女は判断した。目の前の惨状も、自分たちが受けたことも反射に過ぎなかったのだろう。
「…難易度が下がったと思いましょう。心臓、出せばいいんですよね」
何処でしょう、と少女は手の感覚を確かめながら春㫤に尋ねた。尻尾の付け根の方、と答えた青年の指先から、先導するように子鼠が躍り出る。それが、ここだよ、と蛇の赤黒い肌にぴっとり張り付くので、生駒は少し、微笑んだ。
「頭の方じゃなくて…よかった…」
そうして一歩、近づいた少女の方へ、波に揺られる磯巾着のように無数の腕が振り向く。ただ、それらはすぐに、銀の鎖にまとめて縛られて、少女ではない方向へと捻じ曲げられていった。びく、と春㫤が肩を揺らす。
「な、なんか…ラッガすごい自由なんだな」
「…確かに。先輩たちの相方さんは外に出てこないですよね」
「出てこないっていうか、俺の中だから…。どうやって出すんだ?」
「ううん、意図してやってるわけじゃないので…。ラッガさんは私の中にはいませんし、この首輪と鎖がラッガさんというか」
「?? それ、本当に犬か?」
「──…」
青年の問いに、少女はすこし苦し気な、それでいて嬉しさも混じったような表情で目を細めた。しかし喜ぶのはまだ早いかもしれない。春㫤に、それはどういう意味ですか、と尋ねる。
「えっ、う、うーん…鎖がラッガだってのは生駒の勘違いじゃないか、って意味…?」
いや、”勘違い”じゃないな…と、彼はちょっと眉根を寄せながら適切な言葉を探す。
「こう…自分のCaratをラッガみたいに感じてる…? とか…」
「ふむ…でも私のCaratは手の方、だと思います」
「うう、ん? じゃあやっぱり鎖はラッガなのか…」
わかんない、と彼は目を瞑った。生駒としてはラッガが鎖でも首輪でもなんでも構わなかったが、春㫤が違和感を抱いている、からには考えるだけの価値があるように思える。この人が首を傾げているということは、適当な常識と食い違っているだけではなくて、少女にも何か意味のある齟齬のはずだった。
ただ、今は目の前のものの解体が先だろう。これ以上ラッガについて考えを深められる材料も、今の自分たちは持っていない。
初めて生き物の身体にメスを入れる少女の恐れを支えるように、鎖は首元を撫でて背を支えるようにした。生駒は安堵の息を吐きながら、蛇の厚い尾を掻き落とす。肌を、肉の筋を断つ感触が全くないほどの、切れ味だった。何かに触れたというやわく心地いい感覚しか、彼女の脳には送られないくらいの。
…少女は、その不快な快感に目を歪めながら、肉に埋まった白く輝く鉱石を見た。果実で言うなら林檎程度の大きさだ。脈打ちはしないけれど──自分がここへ来た時に含まされたものと同じ色を、している。それを掻きだして、一歩、二歩と肉塊から距離を取る。
もうあまり、まわりを見たくなかった。両手の上の鉱石以外のものに焦点をやらないようにしながら、春㫤を呼ぶ。
「…これで、いいでしょうか」
「…ん」
応えながら、黄金の青年は少女の身体を腕の中に掬い上げた。
外で食べよう、と言う彼の声を聞きながら、彼女は目を、閉じた。
その内臓の山から外の空気に触れるまで、生駒の熱が必要になる局面は訪れなかった。たった、と春㫤が鼠で肉を掻き分けながら進んでいく揺れと、鎖が何かを弾き飛ばす、唸るような音が時折聞こえるだけで。
間違いなく彼らに甘えている状態ではあったけれど、これが少女の限界でもある。あの時春㫤に、自分の足で歩けと言われれば彼女はそうしただろうが、彼はそうは言わなかった。きっと思いもしていない、はずだ。
多分、こういう道も最後まで自分の足で駆けられるようになる日が来る。人間には慣れという機能が備わっているし、自分がそうできるようになるという展望もある。…でも、それまでの段階はお前のペースで構わないと許されているのは、とても、涙が滲むほど少女を安堵させた。
覚えのある温い空気が肌を撫でる。青年はそこをふっと飛び降りて、数秒の高さがあったはずなのに、衝撃無く着地する。彼女は薄く、目を開けた。
「…先輩、猫ちゃんですね」
「ふふん、そういうこと」
自分を褒められたというよりは、ミトンを褒められた、という調子で彼は声を弾ませた。
そこは更地だった。広大な敷地に立ち並んでいた建物を、軒並み解体した跡のようにまっさらで、マンション大の肉塊は周囲の景観から浮いている。遠目に線路と駅のようなシルエットが見えた。それくらいしか前方には人工物が無い。生駒は少し身体を伸ばして春㫤の後ろを覗いた。
「…なんでしょう、あの工場…」
「…なんだろ。採掘場に似てるけど…錆びてないしな」
「はい。廃棄されてるわけじゃなさそうです」
ここが何処かはわからないが、夜笠だと言われれば頷ける夜風と景観をしているのは確かだ。湿気とぬるさと、星の煌めき。遠い山脈の縁まで人間の家屋なんかほとんどない平地が広がっていて、地上の光が無ければ、人の瞳にだって空の深さはわかる。それは、人間の頭上をどこまでも覆いながら、この星が生命のものではないと、布団を引き上げるように少女を安堵させてくれる。
そうして少しこわばりの緩んだ身体を抱え直して、青年は、駅の方へと歩き出した。しかし、肉塊から二十メートルも離れないうちに足を止める。彼はブーツの先でつん、と宙に触れた。
何か、鉱石のような膜が煌めく。それは透明だった。こつこつと彼が蹴って見せなければ光の反射も見せないような、静かで、有無を言わせない檻だ。
なんなんですかね、と少女はすこし、笑った。なんだろうなあ、と不思議そうに言いながら彼は腰を降ろす。生駒はその腕の中から這い出て、更地に座った。胸に抱えていた白い鉱石を手のひらに置いて眺めていると、ひょい、とそれを青年に奪われる。
「あっ、先輩」
「うん?」
「…いえ」
春㫤はブロックの組み方でも確かめるように鉱石を両手でゆるく引いて、それから、えい、とふたつに割った。しゃくり。もろい氷を崩すような音だった。溢れ出すような汁は内包していないようだけど、口内の熱にも溶けてしまいそうな儚い冷ややかさをしている。きっと、つめたくて、甘くて、──美味しいはずだ。
ただ、そのふたつは大きさが不均等だった。意図してやったことではないらしい。春㫤は、上手く割れなかった木の箸を眺めるような微妙な表情をしている。
「…ふふ。不器用なんですか?」
「……意外と難しい」
…ああ。いつもは甘夏が配分してくれていた、ということだろうか。確かに、あの銀色の美しい人は、大抵のことを器用にこなしてしまえそうだった。
まあそれならそれでいいか、と春㫤は表情を変えて、ひとつ、瞬いたあと、小さな方を生駒に差し出した。少女が何をも言う前に、自分の方へ口を付けて食べ始めてしまって、彼女はすこし眉根を寄せる。
その視線に気づかないほど、鈍感なわけではないようだった。彼が目を逸らすのを見ながら、少女も自分の分に口を付ける。あわく愛らしい光を遊色ゆうしょくさせた白は、洋梨のようにあまくとけて、もっとと強請りたくなるような心地のいい冷たさをしている。──だが、その悍ましい穏やかさは、青年と少女を目先の快感に眩ませて、その先に何が待つのかお前は考えなくていいのだと、喉を絞めながら言い聞かせているようだった。考えるな、このひと時の安寧に溺れていろ。息をするな、生殺与奪を握っているのはお前ではなくて私だ、と。
…だから、その最後の一滴を身体に流し込んだ後、春㫤に言う。
「──次は、はんぶんこにしてくださいね」
「…えっと。…上手く割れなかっただけ」
「何回も砕けばいいです。私もそういうのそんなに得意じゃないですし」
練習、しましょう、と笑いかける。春㫤は、そういうことじゃない、という顔をした。…わかっている。きっと、得体の知れないものは必要最低限しか友人に食べさせたくない、と彼は思っているのだ。でもそれは、向日だって同じだった。
「…私もこれ、先輩にあんまり食べさせたくありません。だから…ちゃんと半分にしてください」
お願いです、と彼の目を見る。その瞳は、今は何かを考えられるようだった。少女がそう言ったからそうする、という色ではなくて、自分の意思とは食い違うのだとしても、その人の選択を尊重したい、という色で頷く。
春㫤は、考えられるのだ。他人と自分の意思のすり合わせについて。では何が、彼を〝わからなく〟してしまうのかはまだ、少女の中でも掴めていないけれど。
彼女はすこし口元を緩めて、宙の鎖に背を寄せた。そのひとは大した面積ももっていないはずなのに、少女の重さを確かに受け止めて、支えている。
「…融合って、どうやって解くんでしょう」
さあ…と春㫤は首を傾げた。そういえば、そういう人だった。
「うーん、なつは…なんだろう、気づいたら離れてるし…」
「曖昧ですね…そんなにふわふわでいいんでしょうか…」
先輩、何かのはずみにミトンちゃんと分離しちゃったらどうするんですか、と少女はすこし真剣に尋ねた。しかし春㫤は揺れもしない。
「俺とミトンは一緒だもん。そんなこと起こんない」
何か理屈を持っている音ではなかった。意識しなくても心臓が動き続けるように、肉の身が勝手にばらばらになったりはしないように、融合が解けてしまわないことも疑っていないだけ。きっと、そんなことに思い至らないほど、彼らは溶けて混じり合って、同じになっているだけ。
恐らくそれが、春㫤とミトンだけの感覚だった。自分の身の内にラッガを感じられないという生駒の感覚と同じ、彼らだけの特異点。だとするとラッガは──今も、もしかしたら、”融合している”わけではなくて、”形を変えて傍にいる”だけなのかもしれない。…それは一体何を意味するのだろう。わからなかった。彼が、その在り方を──別の生き物として、異なる思考体として、少女に寄り添うという在り方を、変えないでくれているということしか。
それなら…それでいい。このままでも。この状態は少女の身体に負荷をかけるのかもしれないが、ラッガがこのかたちがいいと言うのなら、それに殉じても。…ただ、彼がこうしていたいのかは、やはり生駒にはわからなかった。そういう感情が伝わってくるような状態ではないのだ。二人は同じにはなっていないのだから。
少女はひとつ、ため息をついた。
…大丈夫だよ、と春㫤が言う。
「ラッガは、生駒をさびしがらせたりしない。そうだろ?」
…それは、こんな短時間しか一緒にいなくてもわかるようなことなのだろうか。彼がラッガを認知したのはほんの数十分前のはずなのに。
それでも彼の声音には、衒いも、気遣いも、無理もなかった。そのひとが、そういうひとであるという、当然のような信頼の色をしている。
少女はその、悲観も、非情も知らない音に微笑んで、春㫤の瞳を確かめようとして──
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