掌編小説・『漢字』
夢美瑠瑠
掌編小説・『漢字』
(これは、12月12日の「漢字の日」にアメブロに投稿したものです)
掌編小説・『漢字』
「要するに”ことば”とは何だろうか…?」と、老純文学作家の古木寒巌<コボク・カンガン>氏は愛用の紫檀の書き物机に向かいつつ黙想していた。この机はオークションで20万円で競り落としたもので、菊池寛のゆかりの逸品だということだったが、どういう「ゆかり」かまでは不詳だった。「ゆかり」という知り合いの女の机だったのかもしれないと言って友人と笑ったことがあった。
「あの時に友人は『そりゃあ傑作だね』と言った。”傑作だね”がどういう意味かはもちろんおれには自明だが、相当に日本語に通じていないと正確に理解しにくい言辞、でもあるなあ。話し言葉というのは平易なようでいて、膨大な慣用句の用法とか文脈に応じた意味の使い分けとかに通暁していないとスムーズに会話を持続するのは困難だ。一番理解が難しいのは学術論文とかみたいに思われているがこれは数学の公式みたいに一義的で”綾”とかはないから翻訳する場合とかは却って簡単だろう。文芸の翻訳とかは一種特殊な才能が必要だが、語彙や言語感覚、かなり高度な常識やバランス感覚が要求される。」
窓外には雪がちらついている。年の瀬に、こういう暇なことを考えていられるのも作家やら隠居老人やらの特権であろう。そういう滑稽さに本人はいささかも自覚的でない。
灰色の空を背景に咲いている山茶花の色が冬寂びた風情を強調している。
「もちろん言葉は人間を人間たらしめる根源的なものだが、ある作家の述懐に「言葉などというこんなあいまいで不確かなものが中心になって人間社会をまとめる役割を担っているとは…と愕然とした」、とかそういうのがあったという話を聞いたことがある。むしろそういうフレキシブルなものである必要があるのかな?現実というのはとてつもなく複雑なものだろうし、社会や自然も一筋縄では理解できない。単純なルールに微分してなんとかわかりやすくしようとしても、しょせん蜃気楼を追っているような具合にならざるを得ない…」
老人の灰色の脳細胞にシンクロするような灰色の風景が色っぽくない灰色の思考を惹起しているような散文的な光景である…
「しかし、おれはいくら現実には瀰漫しているものでも日常の世間話とかは嫌いだな。するやつも嫌いだ。ハイデッガーの言う「頽落」だよ。会話が、そうすれば日常を超越した詩的創造であったほうがましだよな。そう、例えば自分の気持ちを常に俳句で表現するとか、漢詩に例えるとか聖賢の字句を引用してみるとか…そうすれば会話だって退屈でなくなるしレクレーションとしてでもかなり知的なゲームみたいになる。日常会話がやっとというハクチでないならそういう会話をする日本人文学亜種?だっていても誰も痛痒を感じないだろう。…」
「こんにちわあ!先生、お元気ですか?」
そこまで考えたときに潮流社の美人の編集者が来訪した。原稿を督促に来たらしい。エッセーの種に困っていたのでこういうアイデアを話してみた。
「…と、いうような、まあ日常言語の異化というかね。構想していたんだがね」
「なるほど。面白そうですね。じゃ、具体的にはどうなるんですか?アドリブでそんなことできるんですか?」
入社したてだという聡明そうな、が初々しいかんじもする編集者が訊いた。
23歳で、薫ちゃん、と呼ばれているらしい。
「重ね来し月日栞りて風薫る 汀子」
「いい句ですね。私の名前から連想したんですね。説明はないの?」
「博覧強記 自画自賛 美人薄命」
「今の心境ですか?自負の念と、ちょっと若さに嫉妬しているっていうこと?でも真意が伝わりにくいわね」
「五里霧中 乾坤一擲 往時茫々」
「なんとなくわかるけどね。先生の小説みたいになんか隔靴掻痒ね」
「四季折々 山紫水明 心身一如 多岐亡羊」
「でも…ニュアンスとか意味をたくさんこめられそうではあるけどね。精神分析の自由連想みたいになりそうでもあるわ。業務連絡には使えないけど、対話するときに却って本音が出たりするかも」
「春風駘蕩 泰山北斗 欣喜雀躍」
「やっぱり先生は分裂気質だし…ちょっと表現が空虚になるのかしら?よくわからないわね」
「虚空遍歴 虚無回廊 虚々実々 虚実皮膜」
「先生のアタマが空虚になってきたんじゃない?アハッツごめんなさい」
「千客万来 甲論乙駁 無礼千万 怒髪衝天」
コトバの行き違いで古木氏と「薫ちゃん」は険悪な空気になって、しばらくの沈黙ののちにきわめて事務的に仕事の会話だけを交わし、気まずい空気のままそそくさと別れたのだった。
やはり文学は文字の上だけにして、日常のコミュニケーションは保守的で穏当な形式にとどめたほうがよさそうである。
仲良き事は美しき哉 実篤
<了>
掌編小説・『漢字』 夢美瑠瑠 @joeyasushi
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