中編

   ◆9


 黒い入れ墨が左肩に彫られている。薄暗い室内の中でも存在感を放つように、それは深く黒い。禍々しいどころか、不安も飲み込んだ闇を凝縮させたようにただ、黒い。

 それはサソリの絵だった。尾を振りかざすサソリの入れ墨。それが指す意味を、彼の配下は皆知っている。

 統率者はいわばボスだった。更に上がいようとも、その入れ墨を今ここで見せる彼は、彼に付き従って甘い汁をすすってきた男達にも圧倒的な存在感を持たせていた。

〈スコーピオン〉。

 街の暗闇に密かにひそむ彼らは、魔法石のみを狙って動いていた強盗団に他ならなかった。

 唯一サソリの入れ墨を持つ男が、のしりと立ち上がる。

「行くぞ」

 獲物は決まった。

 手順も把握した。

 あとは、実行に移すのみ。



   ◆10


 愕然としていた。

 一人で通学路の途中で立ちつくし、シリウスはぽかんと呆気に取られていた。

 いつものようにアリエスと共に帰ってきていた道だ。もう慣れきった道だったし、どこに何があるかも大体把握している。隠れられるような場所がないことも。

 なのに、アリエスは忽然と姿を消していた。

「……アリエスー?」

 買い食い上等、とアリエスに鞄を持たせて道を離れ、クレープを買って戻ってきたシリウスを迎えるはずの少年の姿は、どこにもない。住宅街の奇妙な賑わしさと人気のない静かさが合わさって、どこかのどかに見える風景。

「アリエスー? おーい、どこいったぁ?」

 自分用に買ってきたクレープをかじりながら、もう片方の手に握ったチョコクレープに目を落とす。置いて帰るなんていう選択肢があいつの中にあるようには思えない。

「おーい、何やってんだよ、どこにいるんだ?」

 周囲に声を張り上げてみるが、まったく返る声はない。そこで、シリウスは嫌な予感に囚われた。歩いてきた道、歩いて帰る道、少しずつ戻ったり行ったりしながらキョロキョロと少年の姿を探す。

 そこで見つけた。

 家と家の間にある、路地に落ちた鞄が二つ。傍らに光る、あのペンダント。

「──ッ!」

 持っていたクレープを落とし、慌ててそれに駆け寄る。ひっつかむように拾い上げたそれらの鞄は、間違いなくシリウスとアリエスのものだ。ペンダントも掴みあげて、チェーンが切れていることに気づいた。安物とはいえ、そう簡単にチェーンが切れるなんて事はない、はずなのに。

「アリエスー!!」

 何かあったんだ、その強迫観念に襲われてシリウスはその場で叫んだ。いんいんいん……と声が響いて、返る声はない。

「くっそッ!」

 悪態をついて鞄をひっつかんだまま路地を飛び出したところで──

「きゃあッ!」

「うわぁ!」

 角から出てきた人間とぶつかった。よろめきながら謝ろうとして、

「あ、シリウス! やっぱりここだったのね!」

「あ? スピカ?」

 さきほど教室で別れたばかりのスピカが驚いた顔でこちらを指さしてきた。

「さっきあんたの声が聞こえたのよ。何か叫んでたでしょ?」

「あ、ああ。そうだ、アリエス見なかったか? 路地に、鞄だけ落ちててどこにもいなくて、」

 こうした場合は、まず警察だろうか。アリエスの家に行って両親にも言わなくては、もしかしてどこかに歩いていったとか……とごちゃごちゃ考える思考に、別の声が割って入った。

「──なんだと?」

 初めて聞く低い声にぎょっとして顔を上げると、スピカの隣に背の高い男がいた。

 誰だ?

 訝ったのを悟ったスピカがすかさず言った。

「シリウス、こっちタウルスさん。さっきそこで出会って、アリエスを知らないかって聞いてきたから、あんたんち行こうとしてた所。いつも大抵どっちかの家にいるでしょ?」

「え? ああ、いつもはそう……だけど、そうじゃねえよ! 今アリエスがいねえんだよ!」

「は? 喧嘩でもしたの?」

「違うわ! クレープ買って帰ってきたらいなかったんだよ! 鞄だけ落ちてたんだっつーの!」

「それ、どこだ」

 強い口調で、タウルスと紹介された男がシリウスの肩を掴んだ。その握力に悲鳴を上げ、シリウスは慌ててその手を振り払った。肩が軋むかと思った。

「ここだ、ここの路地。……タウルス? だっけ、あんたアリエスの何だ? 知り合いか?」

「似たようなものだ。……反応は残ってないな」

 路地を睨み付けるように見て、タウルスは舌打ちした。直後、ざーっ、という雑音が空気に混じった。何事かと振り向く二人の学生の前で、タウルスはベルトから通信機をむしり取った。

「こちら〝ジェミニ・牡牛座〟、何だ」

『こちら〝射手座〟。何だじゃないよ、今どこにいるの? 勝手な行動は危険だからやめなさいっていってるだろう!』

「初耳だ。サージ、責任は取ってくれるんだろうな」

『は? 何の? ていうか、今どこなの?』

「街だ。アリエスが攫われた。一足遅かったようだ。あいつの知り合いが二人、この会話を聞いている」

『何だって!?』

 通信機越しに交わされる会話は意味がわからなかったものの、シリウスは聞き捨てならない台詞を聞いてタウルスに掴みかかった。

「おい、どういう意味だ! あいつが攫われた? 一足遅いって何だよッ!」

「事態を把握中だ。関係者以外に説明はできない」

 冷たいほどの素っ気なさでタウルスはシリウスの手をふりほどいた。後ろにつんのめり、たたらを踏んでシリウスは相手を睨み付けた。

『かまわない、タウルス。彼らはアリエスのよき理解者のようだ。〝両親〟に連絡がついた。聞いている相手は、同じクラスのシリウスくんと、スピカちゃんだね?』

 名前も知らない通信機の向こう側の人間から名前を呼ばれたことにぎょっとして、二人は通信機を凝視した。その視線がわかったわけでもないだろうに、〝射手座〟を名乗った声は続けた。

『君たちの話はよく聞いている。アリエスの〝両親〟と僕らは長い付き合いだからね』

「……友だちか」

『そうだよ、タウルス。無関係ともいえない』

「事態には関係がない」

『君のそういうとこ……思いこんだら周りが目に入らなくなる性格は直した方がいいと思うけどなぁ』

 通信機の声が呆れたようにいうのに、シリウスはかっとなった。何をのんきな、目の前で友だちが──!

「何のんきに喋ってんだよ! あいつがどうなってもいいっていうのかよッ!」

「手がかりを捜索中だ。これでもサーチしている。少し黙っててくれ」

「どこがだよ、攫われるってわかってたのか? わかってたなら何でもっと早くこねえんだよ!」

「シリウス、落ち着いてって!」

 激高しかけるシリウスにスピカがしがみついた。腕を抱き込まれただけだったが、全力で抑えられてはシリウスも本気でふりほどくことは出来なかった。苦虫を噛み潰したような顔で握りしめていた拳をゆるめる。代わりにスピカが呟くように尋ねた。

「ホントなんですか? アリエス、攫われたの? なんで……?」

「…………」

 タウルスは苛立ちのこもった渋い顔で無言を貫いた。通信機も沈黙を守っている。それを聞いて、シリウスは脳裏にふっとある情景が思い浮かんだ。アリエス、あいつが常に纏っていた冷気。そして不思議な力──。

「あの力のせいか……?」

 無自覚に呟いた声に、タウルスが反応した。驚いた顔でシリウスを見つめ、次に眉を寄せた。

「おまえ、あいつのことを知ってるのか?」

 シリウスはその強い圧迫感を発する言葉に一瞬で冷や汗を感じた。曖昧な言葉なのに裏の意味が透けて伝わってきたせいだ。しくじった! 迂闊に力のことをばらしたら、それこそ何があるか──。

「その力って、『ものを凍らせる』力?」

 それは疑問系の形を取っていても、確認するような声音だった。ずばりと言い当てられてシリウスは声を失った。

「なんで──知って……」

「サージ、聞こえたか」

『うん。そうか、彼も知ってたんだね。道理で〝両親〟が何も言わないのに異常事態にならなかったのか。彼に感謝しなきゃ』

 通信機の声は穏やかだった。状況もアリエスの能力が何を示すのかもわからないが、少なくとも責められるとか問い詰められることにはならないようで、シリウスは内心胸を撫で下ろした。

「どういうこと? シリウス、あんた何知ってるの?」

 隣でスピカが袖を引っ張ってくる。彼女もシリウスと共にアリエスとは四年近いつきあいだ。一緒にアリエスがあれだけ体温が低いことを心配したこともある。ここで何でもないといっても諦めるような簡単な性格をしていないし、信用できることはシリウスが一番よく知っている。

「あまり部外者に情報は……」

『無理だと思うけどねぇ、タウルス』

 少年と通信機に鋭い視線を向けると、事態収拾を掴みそこねたような苦い顔で双方沈黙した。広めたいとも思っていないがここで制止も出来ない状況だと悟ったのだろう。その隙にシリウスはスピカに向き直った。

「あいつさ、いつも体温冷たかったろ? おまえ、よく夏にひっついてたもんな」

「うん。冷たすぎることはあったけど、でも健康だったんでしょ?」

「まぁたしかにそうなんだけど……あのな、あれ、あいつが持つ力の一部だったんだよ」

「どういうこと?」

「超能力……みたいなもんなのか? あいつがもの持ってると、それだけで周りが冷えてくんだよ。前に一度、ジュースを持たせておいたら凍っちまって飲めなくなったことがあったんだ」

 スピカは意味を掴みかねた困惑した顔で話を聞いていたが、シリウスの表情が真剣なのに気圧されたようにうなずいた。

「正確には、あれはあいつ自身が持つ『体質』だ。比較的安定しているから、人が触れてもあまり害がない。その代わり、別の媒体を持っていると力が間違って流れることがあったようだが。あいつ自身、無意識にコントロール訓練でもしてたんだろう」

 タウルスが補足したが、シリウス達には何を言われているのかわからなかった。理解不能、ということをわかったのだろうか、タウルスは片方の手袋を外してシリウスに伸ばした。握手を求めているような手だ。

「……?」

 その手を見つめても微動だにしない。相手の顔色を窺いながら恐る恐る手を掴む、と。

「──ッ!」

 声にならない悲鳴を上げてシリウスはその手をふりほどいた。肩を掴まれた時の比じゃない、これは。

「熱ッ……いぃ!」

 火傷したような痛みが手の中に残っている。手を振って開いてみるが、異常はないように見える、けど。

「こういうことだ」

 素っ気なくこれで説明は全てだと言いたげな口調で終わり、タウルスは再び通信機に向かって二言三言喋り始めた。その間に目を丸くしていたスピカが顔を寄せてくる。

「何、今のどうしたの?」

「……めっちゃくちゃ熱かった。ストーブに直接触っちまったときみたいな」

 初めに触れられた時はそうでもなかったのに、少なくとも人間が持つ体温じゃなかった。シリウスは素性の掴めない相手に警戒の視線を向けて、手を握ったり開いたりした。火傷は、していない。

「了解、こちらであとは追う」

『頼む。──本部〝射手座〟以上』

「〝ジェミニ・牡牛座〟、以上」

 同じようなやりとりを繰り返して、通信機は切れた。タウルスはそのまま歩き出す。どこへ向かうか決まったような足取り。

「スピカ、悪いオレらの鞄持って帰ってて! あいつの両親に連絡よろしく!」

「え? あ、ちょっとどこ行く気!?」

 スピカに鞄を押しつけ、シリウスはダッシュで前を行くタウルスを追いかけた。彼も焦りだしているのか駆け足だ。その背中に追いつくつもりで、シリウスは地面を蹴った。



   ◆11


 目を覚まして、最初に目に入ったのはぼろくて高い、どこかの天井だった。遠すぎて明かりがぼやけている。

 ──どこだろう、ここ。

 どうしてこんなところで天井を見ているのか──見ているということは寝ている、ということで、何でだろうとぼんやりとした思考で思っていると。

「──目が覚めたのか」

 低い、しゃがれた男の声がした。視界に移り込んでくる男の影。知らない人。左肩にサソリの入れ墨。

(誰……?)

 自分がどんな状況に立たされているのかわからず、どんな反応も返せずにいると、男が喉の奥で笑って引っ込んだ。

「まだ、自分の状況を理解してないようですぜ」

「寝せたままの方が、幸せだったんじゃないですかね」

「まさか、本当に眠らせることが出来るとは思ってなかったからな。まあ、いいさ。どうせ──すぐに終わる」

 ──瞬間、ぞっとした感触に脅かされて、アリエスの意識は完全に覚醒した。反射的に飛び起きようとしたが、数センチも起きないうちに引き戻された。見ると、両手首が鎖に繋がれて固定されている。足も同様に動かず、そこでアリエスは自分が手術室にある寝台のようなものに寝かされていると言うことに気付いた。

「嘘、何これッ!」

「お、ようやく自分の状況がわかったみたいだな」

「あっはっは、どれだけすごい奴かって思ってたら、可愛い子供だなぁ」

「ただ、気付くのがすこーし遅くなっちまっただけでなぁ」

 次々にわからないところで交わされる会話。声は多い。少なくとも、五人以上はいる。恐怖に駆られて、アリエスは叫んだ。単語も意味もなさない声は、遠い天井に反響して消えた。

「管理局が何十年もかけて作り上げたプログラム、その結晶体〝ジェミニ〟。そんなものに選ばれた自分を恨むといい」

 最初に声をかけた、入れ墨を持つ男がくっくと笑った。どこを見ても黒い気配しか滲ませない恐怖の気配。アリエスは身を捩って腕を引っ張った。けれど鎖はびくともしない。

「嘘、何、何なの! 嫌だッ!」

「最近ニュースで有名な、強盗団を知らないのか? ガキ」

 強盗団? 強盗団って何だっけ? そうだ、ニュースでやってた、人も殺して魔法石を奪っていく奴ら。何で? 彼ら? こいつらが?

「〈スコーピオン〉」

 頭領らしいそいつが言う。何のことかわからなかったが、次には相手自ら説明がなされた。

「世界規模で、魔法石を集めて高値で売りさばいちまおうって組織の名前だよ。俺は、このグループをまとめるトップ。レオだ」

 スコーピオン。レオ。聞き慣れない言葉。アリエスにはわからない。

 レオは低い声で続ける。講義をするわけでもなく、誇るでもなく、恐怖を刻むようでもなく。

「そして、真っ先に狙ってみた管理局でいい情報をゲットしたんだ。さすがにあそこの本拠地は破れず、魔法石も盗めなかったが……それより素晴らしいものが手に入った。何かわかるか?」

 くくく、と相手は笑う。アリエスは嫌な予感だけ感じて、胃をぎゅっと握られるような心地がした。怖い、怖い、怖い。

「魔法石の情報だよ。どこに、どれだけ、どんな質のものがでているか、わかりやすい資料を拾ってきた。それが手助けしてくれてなぁ、あっさりといろんなところから魔法石が手に入った。けれど、」

 サソリを背負うレオが、とん、とアリエスの胸の上に指を置いた。たいした力もないはずなのに、岩でも置かれたような重圧を感じてアリエスの息がつまった。

「あったんだよなぁ。この時代に、このご時世に、この石ころみたいな純度の低いものしか見つからないはずの現代に! 純度七〇が基準だった当時にもなかった、今は二〇だろうが三〇だろうがバカみたいな値段で売れるこの現代に! 黄金時代にも見つからなかった高純度、純度『一〇〇』の魔法石が!」

 吐き出される言葉は熱っぽくて気持ちが悪い。興奮したような声に応えて、周りも興奮しているのか、嫌に耳に残る笑い声が上がる。

「その魔法石が、どこにあるか知ってるかよ? ガキ」

「……!」

 知るわけがない、と叫びたかった。魔法石なんてアリエスにとっては夢物語で、歴史に出る用語ぐらいにしか思っていない。だって魔法石なんか、今じゃ文明のエネルギーにされているただの石……。


「おまえだよ」


 ささやかれた声は、毒のように重く痺れてアリエスの動きをしばった。

「おまえだ。世界の全てが求める史上の宝物。偉大なる、尋常ならざる力を秘めた結晶。この星が作り出した最後の奇跡」

 レオは、胸に突きつけていた指をゆっくりと動かした。それは丁度胸の真ん中、心臓の上。

「ここだ」

 何をいわれているのかわからない。アリエスはただ恐怖だけ感じて目を見開き、相手の狂気にも勝る狂喜に溢れる顔を見ることしかできなかった。それにとどめを刺すように、男の声。

「おまえの心臓が、世界で一番高価な魔法石で出来てるんだよ」

 ──え?


 何を言ってるんだ。そんなこと。バカな。何で。何をしてるの。何を。どうして。


 否定してくれる自分の家族は、友だちは、今ここにいない。

 空白。何を言われているのかわからない。感情が焼き切れたように何も浮かばなかった。

「知らないのか?」

「自分でも気付いてないのかよ」

「資料には、『人間の中で観察実験を行う』て書いてあったもんな」

「本人にも知られずに?」

「洗脳でもしてあるんだろ」

「管理局もえぐいことするなぁ」

 ぞっとする笑い声。笑っていても雰囲気は温かくない。濁った、暗い闇の笑い。

「まぁいい。おい、さっさと取り出して引き上げるぞ。ここまでに時間を食いすぎた」

「解読も遅れましたからね」

「突き止めるのにも時間かかっちまって」

「警察が頑張ってますからね」

「無駄口を叩くな」

 レオの言葉に発言した男達が口を手で覆った。だが、その中でもれる忍び笑いまでは隠していない。

 一人が寝台に近寄り、ナイフを取り出した。その刀身がキラリと輝くのを見て、アリエスはようやく事態の最悪さを悟った。それを魔法石と信じ込んだ彼らが、自分の心臓をえぐり出そうとしていることが。

 その恐怖が、やっと彼らをも上回った。

「い、や……やあああああああああああっ!」

 男の一人がアリエスの喉を掴んで寝台に押さえつける。鎖で固定された上から更に手で押さえつけられる。服が手荒にはがされ、白い肌にキラリと光るナイフが──

「──あああああああああぁぁ!」

 突き立てられる。衝撃で、そのショックで痛みは感じなかった。ただ視界に飛び込むナイフと刺された体が目に焼き付く。

 肌を裂くナイフが、冷たいのかもわからない。心臓を取り出すと明言しているのだ、殺す気であることは間違えようもない。遠慮もない手つきで中が暴かれる。

 そして、アリエスの意識が、弾けた。



 冷気。

 絶対零度を彷彿させる冷気が空気に交ざったことに最初に気付いたのは、強盗団が潜伏していると割り出された工業に忍び込んだタウルスだった。気配に似た力を探ると、中にはアリエスの反応と、それより鈍いが大きな魔法石の反応があった。

 魔法石の特徴の一つに、共鳴反応というものがある。魔法石は同じ存在の魔法石と共鳴する、というただそれだけのものだ。あいにく人にはほとんどわからないので特徴とは呼べないとされているが、魔法石使い〈マスター〉が魔法石の鉱山などに行くとうるさくて耳が聞こえなくなるとまでいう話もある。

 その特徴は事実だが、どの石でも勝手に共鳴するわけではなく、同じ純度の石でなければ共鳴を起こさない。だから例えば相手が純度五〇の石を持っていたら、同じく五〇の石で共鳴を起こして居場所を知ることができる。魔法石の感度が高ければ、高純度から低純度の共鳴も起こすことが可能である。

 そうしてタウルスがアリエスの反応を探してたどり着いたそこはすでに廃墟となっていて、通信機で連絡をとるとすぐに管理局の部隊が動くとの返事を貰った。こういった魔法石に関する事件の場合、警察より先に管理局の機動隊が動く。タウルスは信用してさらに内部に足を踏み入れた。

「な、何か寒くね?」

「……ついてくるなと言ったはずだぞ」

 あとを追って、瓦礫を踏まないよう慎重についてくる少年に、タウルスは呆れを含んだため息をついた。それを聞くと、シリウスはきっと強い瞳でタウルスを睨みつけ、

「ダチが攫われたってのに黙ってお祈りなんかしてられるか! あいつは俺の親友だし、俺の責任でもあるんだからな!」

「わかったから、もう少し静かにしてくれ」

 言うと、シリウスはあわてて口を塞いだ。それから周りの様子を窺うように首を回して、ほっと胸を撫で下ろす。そこへ遠慮なくタウルスが感知した事態を呟いた。

「力が発動した。まずいな」

「は? 力? なんの……ええっ?」

「さて、吉と出るか凶と出るか……」

 説明する気もなしに、タウルスは低い姿勢で通路を走り出した。シリウスも慌ててついて行く。

 地面間近の空気が、冷えてゆっくりと辺りを侵略し出す。



   ◆12


「ぎゃあああああああ────!」

 痛みと恐怖によって上げられた悲鳴は、一つで終わった。一人しか上げなかったのではなく、一人しか上げられなかった。

 その〝力〟が〈起動〉したとき、真っ先に被害を受けたのは、直接アリエスを抑えていた男達だった。

 心臓が、光り輝く。

 その暴走が起きる寸前に、男達は見ていた。皮膚を切り裂いても血のでない体、臓器とはほど遠い感触のする内部を開いて現れた、青い石。

 綺麗なハートの形をした、握り拳ほどもある結晶。純度が高くなるほどに結晶が小さくなると言われている魔法石で、純結晶が拳ほどもあるといえば、それにつけられる値段は破格どころではない。

 青く透き通り、どことなくかすれたように濃い青が交ざる結晶は、まさしく石そのものが魔法。純度一〇〇。昔から夢見られた純粋な結晶石。氷のように透き通り、冷気を固めたように吸い込まれる透明度を放つそれ。人は昔、空想上のそれをこう呼んだ。

『氷の心臓』、と。

 それはまさしく心臓の役目を果たし、鼓動のようにとくん、とくん、と優しく光が明滅していた。冷たい、清らかな光が放つ光は何よりも清澄で──

 けれど〈スコーピオン〉にはそんなことは関係なかった。輝かしい魔法石。それはただの金に換わるもの。舌なめずりをせんがばかりにナイフをかざした男がそれに手を伸ばし──


 そして、力は暴発した。


「うわあああああああ────!」

 第二派の悲鳴を放ったのは、それを離れたところで傍観していた残りの人間だった。そこには〈スコーピオン〉幹部、レオの姿もあった。彼は残りの部下と同様に、目の前の光景を目を見開いて凝視していた。

 心臓がひときわ強く輝いた。その瞬間、子供を掴んでいた奴らが一様に凍り付いて砕けた。氷の欠片と共に破片がバラバラと辺りに転がって……

「ああああああ───!」

 恐怖に駆られた者が数人、我先に逃れようと出口に走り去っていく。レオはそれを呆然と感知していたが、予想もしない事態に我に返って怒号を上げた。

「馬鹿野郎! 特等の魔法石なんだ、ちったぁ腹据えろ!」

 逃げ出すことも出来ず固まっていた部下が、その声で動き出した。未だ少年の心臓は眩しいほどに光り続けている。青い光が目を灼くように輝き、それに向かって男達が手を伸ばす──

 その指先が、腕が体が全てが――凍っていく。霜がはしり、全身が凍り付いて──砕けた。

 今度こそレオも息を飲んだ。純度一〇〇の魔法石の力か? それとも、別の何か?

 その力に呼ばれたように、足下の冷気はどこまでも冷たくなってきていた。ブーツの中の足はすでに冷え切って凍ったようになっている。その冷気はどんどん侵略し、どんどん高さを増してくる。

 思考が一時停止した間に、急激に冷やされた温度に絶えかねて鎖が弾け飛んだ。正確には固定していた革が引きちぎれたようだった。その衝撃で目を覚ましたのか、飛び起きた少年の頭がぐるり、とこちらを振り返った。

 心臓と同じ、凍り付く青い瞳。

 感情のない、人形本来の目だった。

 ──やばい。

 本能が危険性を訴え、逃げだそうと動き出した瞬間、

「──てめえ!」

 怒りも露わな若い声が、冷気に満ちる空気を破った。



 アリエスの意識が、奇妙に殻をかぶったように、中途半端に覚醒していた。

 自己防衛反応と育った心が、どうにか一つの形になれないかと試行錯誤している結果だった。だからアリエスは起きていたし見ていた。話も聞こえていた。けれどそれは意識を滑るだけで、何も届いていないに等しかった。

 小麦色の長髪を束ねた少年がいる。何かが頭の隅に引っかかったが、意識表面上の記憶に該当するものはなく、非常事態防衛プログラムはそれを不必要な情報だと判断してすぐに切って捨てた。

「てめえら、何してやがるッ!」

 この広い場所の入り口に仁王立ちして、彼は怒りの滲む声で叫んだ。サソリの入れ墨を持った男が、少年に怒鳴りかえす。

「誰だてめえは!」

「こっちの台詞だ、アリエスに何をした!」

 レオは舌打ちして、背後の『人形』と正面の少年を見比べた。向こうはまだあれ以上動く気はないらしい。なら高純度の心臓を逃すには惜しい。ならば──。

「心臓をえぐり出して、高く売り払ってやろうとしたところだ。邪魔すんな」

「何だと……ッ!」

 軋むような声で、少年は歯をむき出しにしてレオを睨み付けてきた。殺気。若いのに気配は充分、度胸もあり。

 だが、相手をしている暇はない。魔法石の回収はまだ終わっていないし、時間もおしているのだ。

「この状況もどうにか押さえつけられる力があることだしな」

 ふてぶてしく笑い、レオは服からそれを取り出した。結晶。透明感のある乳白色の丸い石。完璧に真円を描く、ビー玉大の──魔法石。

「なっ……!」

「もろともに示さん! ――吹き飛べ!」

 それが起動して淡く光る。魔法石使い〈マスター〉か、そう判断すると同時にタウルスは飛び退いて壊れかけた扉の影へと転がり込んだ。直後、無音の衝撃。

「────ッ!」

 横から殴られたように強烈なダメージが全身を叩きつけた。がらくたと扉が激しく振動する。影に隠れたはいいものの、一緒になって吹き飛ばされたようだった。

「……ふっ」

 静かに息を吐いて、影で体勢を整える。向こうではまだ青い輝きが光り続けている。早く治めなければ、周囲一帯が絶対零度に巻き込まれて崩壊してしまう。

 内心舌打ちして、タウルスは扉に背をつけた。盛大に叩かれたはずの体はまだびくともしていない。体に感謝するべきなんだろうな、と思いつつ次の行動を頭でシミュレーションする。

「ガキ、おまえは何だ!? 勇気と無謀をはき違えたバカか?」

「失礼な、これでも管理局の者だ」

 挑発に素直に返事を返し、扉にそっと手を置く。金属製だ、先ほどの冷気で冷え切っているようだったが、問題はない。影からそっと中を伺ってみると、中心でリーダーが勝ち誇ったように顔を笑みに歪めていた。

「管理局? あの管理局はおまえみたいなガキまで雇わんと動けないようなぼろいところなのか?」

「ぼろいところに否定はしないが、雇われてるわけじゃない。あそこは俺の生まれ育った場所なんでね」

「だから、魔法石の心臓を持ったガキも知ってるってか。それで助けに来たと」

「好き勝手に解釈してくれ」タウルスは扉越しに声を張り上げた。「だが、そっちが魔法石を出したんなら、こっちだって出し惜しみはしないぞ」

「ほう?」

 レオは周囲の部下に目で合図を送った。相手がもし魔法石を持っているようなら、奪い取れという意味だった。部下もリーダーの魔法石には何者も負けずと信じ切った表情で力強くうなずいた。

「魔法石使い〈マスター〉が、おまえだけだと思うなよ?」

 少年の言葉も、ただの強がりにしか聞こえなかった。男達は全員下卑た笑みを浮かべて少年に襲いかかるチャンスを狙う。少年は扉の影に隠れて見えないままだが、レオの持つ石で引きずり出すこともできる──


「──綾まねいて」


 ふいに、凜、と澄んだ声で歌が流れた。虚を衝かれて咄嗟に男達は反応を忘れた。

「何だ……?」「歌?」「何を……」

 部下たちの中で意味の取れない歌について動揺のさざ波が走った。声は朗々と続く。


「はり通る空虚の波 弦はり浮く 回廊はまだき ──…… うねる光迅を差し止めよ 其は星を止む 貫く怒りを ここに知らしめさん」


 そこでレオは気付いた。魔法石使い〈マスター〉は、全盛期こそ多かった技術習得者の称号。今ではほとんどいないため、彼らが口頭で継いできた技術も全て潰えたと聞いている。

素質があるからとただ魔法石を与えられただけのレオに、その技術を授かる術はない。魔法石をただ起動するだけでは、魔法石使い〈マスター〉見習いにもほど遠い。

 しかし、もしあの子供が本物の魔法石使い〈マスター〉なら。

 一般人にはすでに忘れ去られ、もう誰も伝える人がいないはずのその技術。魔法石を起動させ、その力を本当に行使することこそが彼らの本領発揮。

 まさか、と思ったその油断がレオによる指示の遅れを招いた。閃光と熱波が彼らを灼く。

「うわああああああああ!」

 冷え切っていた工房が一気に高温に上げられ、温度差が目を灼いた。空気が一瞬で膨張してその場にあるものをなぎ払い、けたたましい音を立てて金属や瓦礫が吹き飛ぶ。

 魔法石はその内にふくむ固有振動数と内包成分元素で周囲に働きかけ、石を核として現実に変化をおよぼす特殊な鉱石。普段は眠っている状態のそれは、〈起動術〉を唱えることで起動し、魔法石使い〈マスター〉と共鳴することによって初めて『魔法』を発動させる。起動した魔法石は休眠状態から覚醒して発光をはじめ、魔法石〈マスター〉の共鳴度数を読み取って力を使い始める。それは念じる、という表現が一番近い。

 しかし、それだけでは具現できる『魔法』の規模は限られる。そのため魔法石使い〈マスター〉はさらに上位の〈起動術〉を使って、各魔法石の固定振動数を高レベルで共鳴させ、その結果に起こる魔法の規模を変化させる。魔法は、魔法石の純度に比例して威力を上げ――属性に応じた現象を引き起こす。

「がっ……ぐぅ……」

 床に叩きつけられた体に熱波が襲い、耳鳴りまでする衝撃を受けてあちこちでうめき声が上がった。

「……のやろうッ! 砕けろ!」

 乳白色の魔法石を握りしめて、レオは叫んだ。〈起動術〉とはほど遠い命令だったが、反応するのは彼の持つ魔法石が高純度だからだ。それを見た時、タウルスはその石を純度七〇と見積もった。

 空間がビシリ、と歪んだ。文字通りその場が砕けるように収縮して、周囲にあった瓦礫を噛んで吹き飛ばした。いくつかは部下の方にも飛んだようだったが、それはレオの知ったことではない。

「命令が単調だな。せっかく七〇もの純度があるのに、それでは石がもったいない」

「何だと……舐めたこといってんじゃねえガキ!」

 再度空間がひずむ。周りの男達はその威力と光景にもてはやした歓声を上げる。けれどタウルスは、別のことに気付いて顔を強ばらせた。

 ──温度が、さがっている。

 一度は熱された室内が、再び冷気に満ちて気温の低下を招いている。まさか、とタウルスは扉越しに『彼』の様子を窺ってぞっとした。

 寝台に座り込む彼が──ぼんやりとした無表情で、光を強くしていた。心臓から光が、煌々と、更に明るく。このまま見つめていれば失明してしまいそうな明るさ。それに背を向けているからか、強盗団の奴らはまだ気付いていないようだった。まずい、と思う。

 ──これは、一気にやるしかないな。

 当初から強盗団に対する命令は「捕獲」や「逮捕」ではなく、「討伐」だった。それはつまり、必要があるなら殺してもかまわないという絶対制約。すでに幾人かを殺している相手に、手加減など考えるなという機動隊の指令。

 それに抵抗を覚えるほど、タウルスは割り切りが出来ていないわけではなかった。

 だから扉につけていた背を離し、砂や埃をはたいて立ち上がり、手袋を外して、相手がぽかんとするほどの無防備さで扉の横に姿を現した。

「痛くても、恨まないでくれ」

 そういってタウルスは扉に手をつき──〝力〟を操って──それを熱し──

 さび付いた扉が、高温で熱され赤くなって熔けて──

 それをじっと見ていたなら、彼らもタウルスの持つ力に気付いたのかも知れない。力を発する彼の瞳が、覚醒したアリエスと同じように輝いていたのを。彼の持つ魔法石が見えていたなら、その石と同じ赤色に染まっていたのを。

 何事だと立ちすくむ彼らに向かって、タウルスは熔けた金属を掴んだ腕を思い切り振った。金属は融解したまま弾丸のように宙を飛び、男達の腕や足や体に突き刺さった。

「っ、ぎゃあああああああああああああああ!」

 先の『人形』と引けを取らない絶叫が空気を揺さぶった。体についたそれを払おうとして、逆に手が焼けてしまうという酷い状況に被害を受けた者がのたうち回っている。融解した鉄の温度は約一五〇〇度。扉から滴った液状の鉄が地面に焦げ穴をつける。

 奇跡的に鉄をかぶらなかった数名はのたうち回る仲間の姿に恐怖し悲鳴を上げて別の扉から飛び出していき、部屋に残るのは死に絶えていく者と呆然我失した者のみ。当初はわりと大規模のグループだったのだろうが、数は半分に減っていた。レオは魔法石の力を使って防いだようで白く輝く結晶を握りしめていたが、顔面は引きつり冷や汗を流している。

「……てめえ、何をした」

「鉄が熔けるくらい、珍しくないだろ。鍛冶屋の仕事を知らないのか?」

 悠々と答える少年は、金属を飛ばした右手を払った。まだ残っていた熔けた鉄は、水滴のように空を飛んでじゅ、と付着したものを焦がした。だが少年のその手は、素手であるのに焼けた様子すらない。

 レオは歯軋りして過去に聞き流した魔法石の情報を引っ張り出した。熱を起点とするなら、使用している魔法石は火属性。起動した魔法石は内包する色に発光するはず、なのに少年の姿に光点は見つからない。

「すまないが、時間がないようだ。素直に外に叩き出されてくれ」

「寝言は寝てからいえ、ガキ」



 そうして争い、戦い出す『それら』を──『彼』の意識は全て『邪魔者』だと判断して、魔法を発動させた。

 逃げ遅れた何人かが、凍結睡眠に似た、永遠の眠りについた。



 ◆13


 運良く命からがら逃れた部下達は、息も絶え絶えに工場の外に出た。そこで、包囲している武装した集団に銃を突きつけられ、ホールドアップした。

「こちら、管理局直属機動隊です。武器を捨て、大人しく投降しなさい。抵抗した場合は、容赦なく撃ちます」

 淡々とした、冷え切った声が拡声器で響き渡り、男達は青ざめた顔のまま、諦めたように手を挙げた。

 それを眺めながら、

「ホントに大丈夫なんですか!?」

「大丈夫です。管理局でもとびきり強い人がいっていますから」

「いやそうじゃなく、いやそうなんだけど……」

「あなたも早く温まりなさい。凍傷を起こしてしまいますよ」

「うううう……」

 タウルスの連絡によって到着した機動隊に保護されたシリウスは、薄着で真冬の外に放り出されたように体中を真っ赤にして毛布をかぶっていた。頑張ってタウルスを追いかけていたのだが、途中で危険と判断され外に放り出されたのだ。そのとき通路は冷蔵庫並の温度をしていて、体のためには出ておいてよかったと思うのだが、アリエスを助け出しに行けなかったことは心の傷だ。

「何であんなに寒いんだ……? まるで冷蔵庫の中じゃねえか」

「冷蔵庫ですむなら軽いものです。内部は、本体の所は冷凍庫より凶悪でしょうから」

「は?」

 装備でこてこてに体を固めた人(声からして女性)は、親切にシリウスの言葉にいちいち応えてくれたが、そればかりはシリウスは首を傾げざるを得なかった。今までの付き合いでジュースが凍ったことはあったが、それ以上になるとは想像もつかなかったからだった。

 不安に煽られそうになりながら、手の中の透明な石のペンダントを握りしめる。戻ってきたら返そうと壊れたチェーンをつなぎ直したそれは、小さくしゃらしゃらと鳴った。

 シリウスに出来るのは、ただ友人の無事の帰還を祈ることだけだった。



 眩しすぎるほどに輝いた刹那、冷気が部屋中に満ちて、熱された直後の温度差に耐えきれずコンクリートやガラスが砕け散った。思わず床に伏せたタウルスが次に顔を上げると、人の数は激しく変動していた。人の形をした氷像が転がる中、サソリの入れ墨を持つ男と数名がアリエスの前にうずくまっていた。

「──アリエス!」

 タウルスが嫌な予感に囚われて張り上げた声は、冷気によって凍り付いたかのようだった。魔法石の共鳴が強い。下手をすれば引きずり込まれそうだ。

 寝台に腰掛けたアリエスはただ輝く青い瞳を向けるばかりで、本当の人形のように静止したままだった。内部で自己防衛反応が活発に動き始めている。ぱくりと開かれた胸から、青い魔法石が──『氷の心臓』が光っているのが見える。

「ぐ……くそ……」

 うめいて、凍傷を負いかけた有様のレオが体を起こした。魔法石で多少の被害を抑えたらしいが、魔法の力は純度差だ、すべてを防ぎきることはできなかったのだろう。

「ちくしょう……」

 レオはさすがにこの状況までどうにかしようとする気は起きなかったらしく、強靱な精神力で立ち上がると別の入り口から出て行った。生き残った部下も必死にそのあとをついて、工場の奥に入っていく――。

 その後を追うかどうか一瞬迷ったが、すぐに優先項目が脳裏に浮かび上がった。青く光を発するそれに振り向く。

「アリエス……」

 苦渋にしかめた顔でタウルスは彼が自ら目覚め、気がつくのを期待した。けれど、期待は所詮期待だけだった。主の意志に関係なく、防衛反応が動き出して周囲がさらに冷え込んでいく。

 アリエスもタウルスも、温度変化には鈍い。よく言えば強いのだ。周囲が冷えようが熱せられようが、人間の限界を超えても佇むことが出来る。それが今の状態だった。

 アリエスの心臓がとくん、と強く明滅した。彼を中心にして四方八方に霜が走る。そのあとを追って氷柱が水晶のように生えていく。事象を早送りしたように、息も凍り付く温度で、瞬く間に。

「建物が崩れちまうぞ……」

 呟いた声に反応はない。タウルスは冷気の圧力に逆らって進み、アリエスの肩を掴んだ。冷気と熱気が接触部分から反応を起こし、触れた手がしびれるような感覚を訴える。それを無視して反応のない体をそのまま引き寄せ、かき抱いた。

 共鳴音がひときわ高くなった。人間なら耳を塞いで逃げたくなるような高周波の音。自らの胸も音を発していることに気付きながら、タウルスはかまわず少年の体を抱きしめた。

 光が弾けた。

 唐突に音が止んだ。凍てつく刃を撒いていた冷気が途切れ、それを食い止めていたタウルスの魔法石が一気に周囲の気温を元に引き戻した。息苦しいくらいの霧が立ちこめる。

「……──、アリエス!」

 腕の中でぐったりとする細い体を抱き起こして、タウルスは声をかけた。応急処置のように、ボロボロになっていた服の上から自分のコートを着せる。それから再び名前を呼び、五度目の呼びかけで、ぴくり、とアリエスの瞼が動いた。

「──……」

「アリエス?」

 あと一押しとばかりに声をかけると、アリエスはゆっくりと瞳を瞬いてタウルスに目を向けた。その瞳に彼が映り、

「……ここ、は?」

 ぼんやりとした声で呟いた。昔のように呼ばれるのを期待したことに自分を叱咤し、タウルスは穏やかに話しかけた。

「ここがどこかわかるか?」

 アリエスはぼうっとした顔でじっとタウルスを見つめていたが、次第に意識が覚醒したらしく、周囲を見、突然ひっ、と引き攣った声を上げた。胸を裂かれたのを思い出したのだろう。その体を遠慮なく力一杯抱きしめ、強い声でタウルスはささやいた。

「大丈夫だ」

 震える体が、助けを求めてタウルスの服を掴んだ。それを感じながら、タウルスはアリエスの背中を優しく叩いた。

「大丈夫だ」

 震えていた体は、そうして落ち着こうとする代わりに限界を迎え、アリエスは声もなく泣き出した。ぎゅっと瞑られた目から涙がぽろぽろと落ちていく。タウルスはその背中を撫でながら、涙が止まるのを待った。


「……、ごめん、なさい……」

「おまえが謝る必要はない。……歩けるか?」

 こくこくとうなずいて、アリエスは寝台から降りようとした。その手を取って、タウルスが体を抱き上げる。驚いたアリエスを床に降ろして、ぽん、と背中を叩く。

「外に出よう。シリウスも待ってるだろう」

「シリウスが?」

 知った友人の名前に、ぱっとアリエスの顔が明るくなった。かと思うと何を思いだしたのかまた表情が暗くなり、不安げにタウルスの袖を掴んだ。

彼の手を優しく引きながら、タウルスは静かに唇を噛みしめた。思いついて通信機を引き抜き、そのスイッチを入れる。

「こちら〝牡牛座〟。サージ、いるか?」

『はいこちら〝射手座〟。コードネーム言う前に名前言っちゃだめでしょ。出てきた部下は捕らえたよ。無事かい?』

「アリエスは保護した。無事だ。残りの、リーダーには逃げられた。追って報告がある。追跡はしても無駄だ」

『──了解。場所は作っておく。こっちに戻ってきてくれ』

「わかった。以上」

 それだけでスイッチを切り、タウルスはアリエスを促した。

「行こう、アリエス」

 アリエスは小さく頷き、自分の名前を知るこの人は誰だろう、とそっと思った。



   ◆14


 触れない方がいい、という忠告を無視してその肩に手をかけた時、今までに予想だにしない冷たさを感じてシリウスは悲鳴を上げた。皮膚が張り付くかと思った。その反応に本人も驚いた顔をしてシリウスを見つめ、それから不安そうに瞳を揺らして顔を伏せた。

 それが工場から助け出されたアリエスとの最初の交流。

「まだ覚醒した力が収まりきってないんだ。人が触れられる温度になっていない」

 そういいながらも、タウルスの手はアリエスの肩に乗せられたままだ。そこにマイナスを越える、ドライアイス並に冷え切っているアリエスからダメージを受けているようには見えない。

「状態は?」

「力が暴走した。落ち着けばすぐ元に戻る」

 管理局を離れてわざわざ駆けつけたらしいサジタリウスと含みを持たせた短い会話を交わして、タウルスはアリエスを見た。

保護されたアリエスは機動隊がひいてきた車の荷台に乗せられ、かたかたと震える体を抱きしめている。その場にいるのは四人、しがみついて事情を説明するまでは離れないと主張して、シリウスもついてきていた。

 機動隊が乗ってきた車の荷台はがらがらに空いていて、外では指示する声と足跡が乱雑に交錯している。今はわざわざここを覗きに来る輩はいない。

 タウルスがかけたコートの上からさらに毛布をかぶって、アリエスは座席の上でうずくまっていた。シリウスが声をかけても、強い拒絶ではねのけられた。おろおろとするシリウスの隣で、タウルスは真顔でそれを観察していた。

「な、どうしたよ? 大丈夫だって、もう襲ってこねえよ。……あ、俺のせいだよな、俺が目を離したから……ごめんなアリエス! で、でも無事でよかったじゃねえか!」

 必死に慰めようとするシリウスにも、アリエスは答えなかった。逆に、伸ばされた手を勢いよくはたかれた。

「ほっといて! ……違う、そんなことじゃない!」

「アリエス? 何が? どうしたよ?」

「無事だとか、そんなの、関係ない! 僕は、──僕は人間じゃなかったんだ! 嘘だ……嘘だ、酷い、こんな……」

 言葉尻は涙声に飲み込まれた。シリウスは勢いに押され、言葉を飲み込んであげた手をさまよわせる。

「人間じゃないんだよ! あんなこと、胸を刺されて生きていられるわけがない! あんな、心臓が、どうのって……僕には関係ないじゃないか!」

 金切り声で絶叫して、アリエスは毛布を頭からかぶった。拒絶をあらわにする親友の姿に、シリウスは慌てて「落ち着け」と叫んだ。

 子供の手術成功を祈る父親のような重々しい表情でサジタリウスは隣に立つ少年へ尋ねた。

「……中で何があったの?」

「俺が突入したときには、すでにアリエスの力が暴走していた。相手は予想通り心臓を狙っていたらしい。最終防衛反応が働いて暴走したんだろうが……」

 穏やかならぬ台詞に、表情をこわばらせて学生二人が管理局の人間を振り返った。

「し、心臓……?」

 攫われただけだと思いこんでいたシリウスは、予想以上の出来事があったことを知って顔を蒼白にした。冗談だという返事を探して瞳が揺れ動くが、訂正の言葉は無い。唇をふるわせ、先程は冷気に拒絶された右手がアリエスの肩を掴む。温度差はまだあるはずなのに手は引かず、力の強さにアリエスが驚いて友人を見上げた。

「何の……何の話だよ! ただ、アリエスの変わった力を見ようとか、そんな奴らが攫った、それだけじゃなかったのかよ!? 心臓とか、人間じゃないとか、何の話だよ!」

 管理局の人間は、互いに視線を交わして、どこまで説明するべきかを迷った。だが、想像以上に事態は深くまで足をつっこまれてしまっている。しわを寄せた額に手を当てて、サジタリウスは苦虫を噛み潰したような顔をした。

 それを無言の肯定とみなして、タウルスが少年らに目を向けた。

「……最近ニュースでやっている魔法石強盗の話は知っているか」

「……? ああ……」

「今回アリエスを攫ったのは、その一団だ。奴らの目的は純度の高い魔法石。管理局が保管していた機密が盗まれ、漏洩したのが原因だ」

「……機密?」

「それが何で、アリエスの誘拐につながるんだ?」

 か細い声で問い返す声に、一度タウルスは目を閉じた。これから言うべき事を整理しているような短い沈黙。静かに瞼を開けた彼は、アリエスを見つめ、冷静を装った口調で説明を始めた。

「──おまえの心臓に入っているのは、三百年前に北の最果て、氷の洞窟で見つかったものだ。純度一〇〇の歴史上最も高純度、高密度の魔法石。水の属性を極限まで高めた力を宿すそれが、『氷の心臓』」

 聞き覚えのあるフレーズにアリエスは肩をびくりと震わせて、抱えた膝の間に顔を埋めた。耳元で恐怖を喚起する男の声がよみがえりそうになって耳をふさぐ。

「それを世間に公表する前に、ある可能性を見た科学者がとある構築式を考案し、二百年前に計画が始動した。魔法石を心臓という核にすることで動く、人為的魔法石使い〈マスター〉の作成だ」

ぽかんとした顔でシリウスがタウルスを見つめ、何かを言いかけてサジタリウスに止められた。形容しがたい表情で従うかどうかを悩んだ後、シリウスはアリエスの隣に腰を下ろした。話は続く。

「生身の人間に埋め込むのは不可能との結論が早々に出て、ボディパーツは全て生体機能付加の人工物が開発された。人間と同じようにナイフで表面は切れるが、扱い方を覚えれば岩を壊そうが骨が折れることはない。長年の研究はほとんどがボディの開発につぎ込まれたからな」

「……だから、傷がないの?」

 アリエスがかすかに顔を上げた。その手は確かに切られたはずの胸を掴んでいる。あるのは昔からあるという傷跡だけ。先ほど受けたはずの怪我はどこにもなかった。

「魔法石の起動によってボディは連結機能を起こしている。わずかだが修復機能が働いて、表面を直すことも可能だ」

「じゃあ、この傷は? この傷だけ残ってるのは、何で?」

「魔法石を入れられる時についた傷だからだ」

 アリエスの顔が歪んだ。決定的に自分の存在を否定された顔。それは絶望なのか、怒りなのか、ただ悲しんでいるのかわからない。

「ボディ完成以後も、魔法石の純度が高すぎて合致する者はなかなか現れなかった。──そんな中、見事『氷の心臓』に適応したボディが現れた。被検体ナンバー3800。覚醒し、自らの意識も生み出した二人目の完成体」

 タウルスは、まっすぐにアリエスの目を見つめた。

「おまえだ」

「……!」

「ちょっと待てよ! 今、二人目って言わなかったか?」

 シリウスが混乱しながらも話について行こうと、そこへ割り込んだ。タウルスは今度はシリウスに向き直り、

「言った。アリエスは魔法石を心臓として作られた〝ジェミニ〟の片割れ。二人目だ」

「え、じゃあ……一人目は?」

 ついて行くのがいっぱいいっぱいで、自分で考えることも出来ずシリウスは更に問う。アリエスも答えを望むように、タウルスを見た。

「……──」

 タウルスはおもむろにシャツのボタンをはずし、黒のタンクトップも脱いだ。服を払った体の──

 胸の位置に走る、縦に長い手術痕。それはアリエスの胸にあるものとほぼ同じ。

「……!」

「俺もおまえと同じ存在。相対し、対立する力を持つ――……」

 そっと、ささやくように、声は。


「おまえの兄だ」


「──……」

 アリエスは目を見開いて息を飲んだ。兄? 同じ……存在?

 タウルスは淡々と続けた。

「俺が初代完成品、火山で生まれ見つかったという純度一〇〇の魔法石『炎の心臓』を与えられた被検体ナンバー3656。コードネーム〝ジェミニ〟の〝牡牛座〟。──おまえが〝牡羊座〟」

 そして、と声なく彼の唇が動いた。人ならば気付かないだろう小さな逡巡をアリエスは悟り、その続きにくるだろう言葉を拒絶したいと痛切に思った。

「おまえは――人間ではない」

 頭が真っ白になるという感覚をこう何度も体験するなんてことないだろうと、アリエスは呆然に唖然を重ねた意識の表面で思った。脳が理解することを拒んだように何もわからず他人事の感覚しかしない、まるで時間が止まってしまったかのようだった。

 その膜をぶち抜いたのは、隣にいた少年だった。


 ガアンッ!


 シリウスが壁を叩いて立ち上がった。びくりとして友人を振り返ると、彼はアリエスの代わりに怒っているようだった。

「それ、知ってたのかよ! 最初から、アリエスはあんたの……弟だって、同じ奴だって知ってたのか!?」

「知っている。アリエスが生まれた時から俺は傍にいた」

「じゃあ何で……だって、アリエスは記憶喪失で……!」

「それは管理局の意向でね」

 持ち込んで作ったらしいココアを飲んでいたサジタリウスが、そこで会話に割り込んだ。

「人間と同じ形にしたものが、人間と同じように暮らすことは可能なのか? という疑問から作動した、もう一つの〝ジェミニ〟の任務だ。そのために今まで管理局にいた記憶にプロテクトをかけ、人として生きるようプログラミングされて送り出された」

「そんな……」

 呆然と声が空間に落ちる。

 誰が誰に何を言っていいのか、困惑した空気。我に返ったシリウスが居心地悪そうに握りしめていた拳をおろした。

「……禁忌に手を染めたという意味では、君たちに怒りを向けられるべきなのは僕たち管理局の方だろうね」

 ふいに、傍らのサジタリウスがつぶやいた。視線が集まったのにも気づかない風に、彼は独白する。

「何せ、今の現況がどれだけ好意と善意といたわりと気遣いに満ちていようが、被験者たちが文句を言わなかろうが、人為的魔法石使い〈マスター〉の制作というのはつまり『自分たちの都合のいいように動く便利なシステムの開発』でしかないのだから」

 それを、さらに人の形に作り、心まで与えたなんて、もういつ罰があたってもおかしくないよ。

 白衣に眼鏡の男性が自嘲気味にいった。その言葉に表情が強ばったのはふたり。残る一人は当然の表情で何も言わない。

 沈黙が満ちた数秒後、アリエスは顔を上げた。

「〝ジェミニ〟って……?」

「君たち完成体の通称だ。君たちは初の顔合わせの時から仲が良くてね、常に行動を共にしていた。そして自ら君たちが『兄弟』あるいは『双子』を自称し始め、君が彼を『兄さん』と呼ぶようになってからは、管理局でも君たちを双子と定めて扱うことにしたんだ。〝双子座〟。表裏一体でありながら同じもの。これほどぴったりな名前もないと思うよ」

 にいさん、アリエスの唇がその形に動いた。それを見ていたタウルスは、いたたまれない表情でそっと目を伏せた。

「どうして、僕が……?」

「タウルスの強い意見からだ。ちょっと専門的な話になるけど、純度一〇〇の魔法石を入れた君たちは、動くことは出来てもやはり人と違う。顕著に違うのが、魔法石使い〈マスター〉の力だ。今はすでに廃れた職業だけど、君たちはそれを習わずとも使えた。そこで二人の性格の差が出た」

 首を傾げる少年ら。タウルスは口を挟もうとしない。

「タウルスはその力のコントロールがほぼ完璧に出来た。湯を沸かすことも水を蒸発させることも、金属を溶かすことさえ自在にやってのけた。ただ、逆に自分の体温だけは調節できず、常に彼の表面温度は五十度を超えて下回ることがない」

 シリウスは彼と握手した時のことを思い出した。確かに、人の体温ではなかった。

「そして同様に、アリエスにも得手不得手があった。タウルスとはまったく逆で、自分の体温は限りなく人間に近づけた状態で保つことが出来る。それでも少し低いくらいだけど──でも、外界に触れて行うコントロールは極端に悪い。触っているだけでものを凍らせてしまうということが多々あった」

 アリエスはそっとタウルスを伺った。タウルスはサジタリウスを見ていたが、視線に気付くとアリエスの方を向いた。慌てて顔を伏せる。

「そういうわけで、管理局は魔法石に関する事件にも首をつっこむからね、動けるならコントロールできる方がいい。アリエスの力は封印してしまえばほとんど発動しないから、そして何より──タウルスが、弟に手を汚させるようなことをさせたくなかったから推薦したことが理由だね」

「サージ」

 責めるような声音だったが、サジタリウスは気にしない。

「事実じゃない」

「言っていいことと悪いことがある。不必要な情報を与えることは推奨しない」

「こんな時ばかり小難しい言い方したって無駄だよ。向こうは、すでにアリエスに狙いを定めている」

「……」

 眼力に力があるなら、体を貫いていてもおかしくない鋭さだった。タウルスの視線を受け止めながら、サジタリウスは静かな顔で肩をすくめた。

「……僕の兄さん、なの? 双子の……? ホントに……?」

 毛布から頭を出して、アリエスは確かめるように震える声で尋ねた。タウルスはそれに動揺したように硬い表情を崩しかけ、口をへの字にした。

「……便宜上はな。双子っていうのは、俺たちが自分でつけた自称だ。正確に言えば、俺の外見年齢設定は十八、おまえは十六──おまえの方は成長に合わせて変化させようとしてたらしいが──、制作年月も、俺とおまえじゃ一年違う。血のつながりもないし、言ってしまえば……──おまえが俺を兄と呼ぶ理由はない」

「…………」

「タウルス、ちゃんと言わなきゃ。でもよければ呼んで欲しいーって」

「殴るぞ」

「ぎゃーっ! 君痛いっていうか熱いから嫌!」

 サジタリウスは逃げるように隅へ飛んでいき、二杯目のココアを作り始めた。ため息をついて、服を着直した後タウルスも座席に出されていたカップを手に取る。どう反応して良いかたっぷりと悩む時間を経て、シリウスが恐る恐る聞いた。

「……変なこと聞くようだけどさ。それは? 食べ物とか、大丈夫なの?」

「食べなくても問題ないし、寝なくても活動は出来る。ただ、人と行動してる分時間を合わせる方が楽だから一緒に摂っているだけだ」

 感心したようにうなずいて、シリウスもアリエスにカップを差しだした。アリエスはおずおずとそれを受け取る。

「ついでに尋ねるけど、……設定年齢ってことは、ホントはいくつなんだ?」

「制作年月は九年前だ。それを基準にするなら、今は九歳だな」

 簡単に答えるタウルスをまじまじと見て、シリウスは大声で叫ばないよう努力して、代わりに椅子をバフバフ叩いた。

「見えねえ~……っ!」

「当たり前だろう。アリエスは八歳になるな」

 シリウスがいよいよ信じがたい顔をして腕組みをし、何事やら考え始めた頃、

「……そろそろ時間だな」

 あっという間に空にしたカップを置いて、タウルスは外に顔を向けた。見ると、外はすでに日が落ちて窓から見える天頂には月が昇っている。アリエスはふと今まで「両親」だと思っていた人達のことを思い出した。

「お母さんたちは……?」

「管理局の職員の一人だ。この任務の立候補者を募った時、君に何度も世話になったからと立候補した。実の親子ではないが──彼らは、君を大切に想っている」

 サジタリウスの言葉に、アリエスの視界が再び滲んだ。その肩を、人間であったときと変わらない強さでシリウスが叩いた。力強く。

 そこへ、外部のくぐもった声がかけ込んできた。武装した機動隊の兵士だった。

「局長、相手方が少し……緊急事態です」

「どうした?」

 コップを置いてサジタリウスが促す。兵士は一般人の少年を見て躊躇ったようだったが、すぐに続けた。

「相手が見逃せと要求していて……さもなくば、工場の主柱を壊す、と」

「はぁ?」

 明らかに呆れた声で聞き返して、サジタリウスは荷台から外に顔を出した。おぼろげに、明かりも壊れかけている廃墟になった工業。古いことに合わせてその規模はでかい。

「出来るのかどうかはともかく……あれが倒れたらどれだけ被害が出るかな?」

「周りの住宅街が大半巻き込まれるかと」

「避難命令を出せ」

「了解。直々に話しますか?」

「それは勘弁願いたいけど……俺もちょっと最前列まで行こう。タウルス、来てくれ」

「わかった」

 躊躇もなく了解の意を示して、タウルスも立ち上がった。放り投げていたシャツを拾い上げ、羽織って──

 歩き出そうとした足が、軽い力に引き留められた。驚いて下を向くと、毛布から出た手がズボンを掴んでいた。弱々しい表情の弟が追い縋ろうと必死に見上げている。その唇が震えるように動いて、

「あ、の……にい、」

 タウルスはそっと弟の頭に手を乗せた。アリエスが驚いて見上げると、懐かしい感じのする優しい笑顔。

「無理しなくていい。──また会える」

 上着を翻して彼が出て行くのを見送って、アリエスは彼がかけてくれたコートをぎゅっと握りしめた。

「悪いけど、だれか代わりに彼らを見ていてあげてくれる? そこまで人手は割かなくていい。けど、一般人だからね、気をつけて」

「了解」

 兵士は敬礼して伝えるためにどこかへと走っていた。荷台から飛び降りて、タウルスは早々に最前列へと歩いていく。よたよたと降りて、サジタリウスは荷台に残る二人に笑いかけた。

「あとでちゃんと送るから、待っててね。シリウスくんも、ありがとう」

「へ? あ、はい……何が?」

「アリエスのこと、知っても仲良くしてくれたでしょ。ありがとう」

「あ、いえ、こちらこそお世話になってます……」

 サジタリウスは深い笑みを浮かべて、手をひらりと振ると踵を返した。

 工場は、おぼろげに不気味な様相で立ちつくす。



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