嵐の前のやすらかなひととき。
生まれた男の子をすぐに「希(のぞみ)」と命名した。
その名前にした最も大きな理由は、最近の時流に乗って性別を問わないジェンダーフリーな響きを考えたということ。だから将来彼が自分の心と身体のアンバランスに気づいた時、どんな姿を選択しても違和感のない配慮をしたという、下世話なオチも付け加えた。
だがこの表向きの理由は実は紛れもない後付けで、彼が生まれるずっと以前からこの名に決めて、誰にも言えない密かな願いを込めていた。
それは「希望(きぼう)」ということ。
未来に向けて、彼が希望の光になってほしいという願い。
決してヒーローになって何かをしてくれということじゃない。
麻里奈によると、彼が生まれたことにより「人類滅亡の危機」はさらに近付いている。
(未だに実感が湧かないのだが……。)
そしてカオルが企てる人類滅亡のシナリオには、彼を手に掛ける選択肢が潜んでいるという。
そんな我が子に「希」と名付けることによって、少しでもその選択肢を回避する抑止力になってくれないかと、悲壮感にも似た想いを込めた。
だが提案した際のカオルの反応は、意外なほど好意的だった。命名の意図を深読みするような態度、表情は微塵も感じらられなかった。
とりあえずは安堵したが、手放しで喜べない自分もいた。
カオルはとてつもない悪行を画策しているのだから。
出産から四日後、カオルと希は無事に退院した。看護師さんに言わせると、通常は経産婦でも退院まで五、六日かかるそうだが、カオルの産後の経過がすこぶる良好だったことに加え、希の健康状態にも特に問題がなかったため、医師から異例の許可が出たそうだ。
カオルが自ら連絡を取ると、三姉妹はそろって我が家に集結してくれた。家に戻るのは六日後だと高を括っていた彼女たちは、慌てて準備したんだからねと、カオルに愚痴をこぼしながらも楽しそうに新生児用グッズを分担し持ち寄ってくれた。
長女の佐藤優深は旦那も連れて、ベビーベッドと布団、枕、シーツなどのベビー寝具を。次女の河野葉子はベビー肌着数枚にツーウェイオールのベビーウェアを三着、ベビーバスなどのお風呂グッズ。そして三女の石川麻里奈は、紙おむつなどのおむつグッズと哺乳瓶などの授乳グッズ、それに綿棒や保湿剤などのケアグッズ、といった具合だ。
出産経験に関してはカオルの方が先輩でも現役に近いのはやはり娘たちの方。抜かりのない的確な準備に、ボクはただ敬服するばかりだった。
「ほら見てこれ、昔のモノに比べたらカラフルで可愛いでしょ?」
手に取った哺乳瓶を、麻里奈はカオルに向かって掲げて見せた。
「そんなのいらなかったのに」
するとカオルは迷惑そうに答えた。
「どうして?」
「だって母乳をそのままあげるもん」
「えーっ!ママ母乳出るの?」
(!)
三人が声を揃えて驚いた。
胸の鼓動が一瞬跳ねた。
カオルの授乳シーンを想像し、なぜか下半身が熱くなった。
「ママ、私たちの時、出なかったって言ってたじゃない!」
その情報は知らなかった。
「そうなの。でも、希の口に含ませたらピューッって出て。その後急にあふれてきちゃって……」
「へーそうなんだ!どうしてなのかな?若い頃に出なかったのが、超高齢出産で出るなんて不思議だね」
麻里奈はボクを見て、不敵な笑みを浮かべた。
「たっくんが妊娠中も優しくしてくれたからじゃないの?」
優深が大声で囃し立てる。科学的な根拠はないが、そうかもねと葉子が頷きながら笑っている。
「そう言えば、たっくんはすごく優しいってママが言ってたな」
麻里奈は独り言のように呟いた。
「私そんなコト言ったかな?」
カオルは軽くとぼけたが、麻里奈は二人がヤッタ『回数』を知っている。
顔から火が出る思いがした。
この時を機に、かつてカオルが産んだ三姉妹は、希を溺愛するようになった。
それもそうだ。
腹違い……じゃなかった、父親が異なる『タネ違い』ではあるが、希はカオルから生まれた紛れもない彼女らの『弟』だ。真剣に考えたこともないが、自分のコトに精一杯で、ボクはその事実をすっかり忘れていた。
丁度この辺を通りかかったからとか、同じモノを子どもたちにも使ったから持ってきたとか、些細な理由を付けて頻繁に希に会いに来てくれた。
生まれた時から親戚だったとはいえ、佐藤家にすればボクはよそ者。カオルの姓が坂本に変わったとしても、四人の絆に変わりはない。だから時々負い目を感じ、四人に深くは溶け込めない自分もいた。
だがボクのDNAを受け継いだカオルの子、新たな実の弟の出現で、やっとこの家族の一員になれた気がした。
これからは希が成長するにつれて、彼を中心に三姉妹には楽しく関わり続けることが出来るだろう。
故に次の子を性急に必要とする理由が今のボクにはない。
しばらくはこのままで、佐藤家の中にいると実感できる自分を満喫したい。
そう願って止まなかった。
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