三人(?)の始まり。

 思い掛けない知らせが届いたのは想像以上に早く、最初の夜から十一日後、五度目の誘いを受けた翌日のことだった。

 玄関外のチャイムを鳴らすと、喜びに満ちたカオルの声が耳に届き、間を置かずドアが開いた。ボクの顔を見るなり満面の笑みを湛え、彼女は口を開いた。

「早く入って、大事な報告があるの」

 靴を脱ぐ十数秒の時間も与えられず、腕を掴まれ、なだれ込むように忙しくリビングに通されると、カオルはすぐ様床に正座し、ボクも隣りに座るよう促された。

 そこは叔父の遺影の前。カオルは笑顔である結果を打ち明けた。

「おめでとう、たっくん。あなたの赤ちゃんここに授かりました!」

 彼女は下腹部に視線を落し、指差した。

 

 えっ!妊娠……?


 痛々しい程細い身体の中でそこだけが強い張りを持った弧を描いているようにも見えるが……。


「まさか、できちゃったの?」


 カオルは黙って頷いた。


 ちょっと待て。いくら何でもそんなに早く膨らみ始める訳はない……。


「だって、早くない?いくら何でもヤッて十日で妊娠が判るなんてあり得ないでしょ!」


 カオルは今度は首を横に振った。

 

「判るの……。今朝目覚めたらね、急に胸が張って痛くなったの。これって妊娠した兆候なの」

「でも、どうしてそんなに早く『そうだ』って判るの?」


「受精すると卵は五日から七日で子宮内膜っていうところへ潜り込むの。それを『着床』って言うんだけど。その時に卵の周りの細胞からある物質が分泌されるの。その時極稀に敏感な人は『胸が張る』とか『すごく眠くなる』とか『イライラする』とか症状が出るの。私もその一人で、前にも経験があったの。だからすぐに判った」

「間違いないの?何かの病気の症状と似てたりしないの?」

「生理が始まる前に起こる『月経前症候群』ていうのがあるけど、私もう閉経してたし、出血もないから間違いないと思う」


 あの瞬間のカオルの呟きは本当だった。生理の起こる現象とはすなわち排卵だ。あの日の二度の射精で、何と奇跡の復活を遂げたようだ。ボクの心臓はかつて経験したこともない程の強さで脈打った。

「たっくん、約束、守ってくれるよね?」

 いたずら好きな少女のように、カオルは上目遣いでボクを見た。


「う、うん……」

 軽はずみの約束にも、勢いに押され漏れた返事にも、もちろん覚悟などない。ボクは瞬時に自虐的に、そして否定的な問い掛けた。

 

「でもボクでいいの?こんな頼りない男で……」


「いいよ、おばさんは選り好みできないもん」

 彼女はボクの反論を想定していたかのように素早く、そして意外な程フランクに切り返した。飾らない反応に戸惑いながらも内心は少し嬉しかった。結果はともあれ、積極的な行動が功を奏し、カオルはボクを受け入れた。それに生殖機能がピークを過ぎた年齢でも正常に働いたという事実も、喜びを更に割り増しした。


『年上の熟女を孕ませる!』


 まるで商業的なアダルト映像のような、実際には願っても叶わないこの境遇に、何のしがらみも、損得も考えず、ボクは素直に興奮していた。


「今日はとりあえずその報告だけ……の積りだったけど、たっくん……これからスル

?」


 遠慮がちに視線を向けるカオルの頬が少女の恥じらいのように紅潮していた。新しい命を宿した彼女の肌が心なしか潤いを見せた気もする。

 俄かに繁殖本能が目を覚まし、股間が熱くなる。だが冷静さを取り戻すと、時折頭に浮かぶ『妊娠』の二文字が浮かれてしまいそうな気持をすぐに現実に引き戻した。

「いや、今日はいいよ。身体、大事にして」

 心にもない言葉が口を付いた。

「そう……。でもご飯用意したから食べていって」

 ボクは黙って頷いた。

 過去にカオルの手料理を食べた経験はほとんどない。彼女の腕前がどれ程のものかもリサーチしたことがない。

 テーブルを挟んで終始笑顔の彼女は、料理を口に運ぶ度ボクの反応を窺っていた。そんな彼女のをガッカリさせないよう、旨いは自然に口から零れた。でもこの時の自分に全神経を味覚に集中させる余裕は全くなかった。


「自分で『報告だけ』って言ったけど、やっぱり、何もしないのは寂しいわね」


 徐に近付くカオルはボクの股間に両手を置いた。そして驚き、視線を落とすボクの頬をいきなり彼女の舌が這い始めた。慌てて戻した視線にはお掃除してあげるわねと囁やく濡れた唇と潤んだ瞳がボクを金縛りにする。妖しい別の生き物のように動く舌先は唇の周囲を徘徊し、こびり付く手料理の残骸を、唾液を滴らせながら自らの口に運んだ。お掃除どころではない。逆に彼女が作り出す粘度の強い体液で唇は淫靡な異臭を放ち汚れを増した。

 ボクは呆気に取られ、そして陶酔していた。無意識に性欲が膨らむのをカオルの両手は素早く察知し、間を置かず扉は忙しく開かれた。

 今日はお口で我慢してねと、引き摺り出した昂りは、まるで少年のそれのように既に極限を迎えていた。カオルが優しく上下に手を動かすと、ボクの小さな呻きと共に白濁の体液は力なく宙を舞った。

 ボクの唇を弄んだ甘く香るぬめりが、今度は精液塗れの亀頭表面を這い回る。物理的な快感と精神的な高揚感がいつまでも収束を許してくれなかった。


 その後も一日置きに呼び出しは続いた。

『独りでは寂しい』と釘を刺された。想定外だったとはいえ、結果的に孕ませてしまった。あの喜び様を見て今更中絶してとは言えないし、命を粗末にすることなんて一ミリも考えられない。それでは、何も考えずできちゃった結婚をした挙げ句に、虐待して我が子を殺す若い親たちと何ら変わりはしない。

 女性経験が少ない故、未経験の経験にぶつかれば考えは極端な方向に飛躍する。


 最早カオルは『都合のいい女』ではない。

 ボクの『最愛の女性(ひと)』にしなければならない。


 カオルが言うように、確かに妊娠するとhCG(ヒト絨毛性性線刺激ホルモン)というモノが分泌されるらしい。彼女の直感は信憑性が高いようだ。


 その後も一日置きに呼び出されたが、ボクは何も考えず、ただ自分を乞う彼女に応じた。今後様々な問題に直面するのは目に見えている。だがこうなってしまった以上、目の前に現れる壁を一つ一つクリアしていくしかない。とは言え、差し当たって早急に何かをしなければならないのかボクには分からなかったし、カオルも何も言わなかった。

 彼女を守らなければという使命感に囚われながらも、禁断の情事を楽しむようにボクはカオルに身を委ねていた。


 その理由はカオルの言葉だった。


「でもね、まだはっきりした訳じゃないから」


 それにまだ彼女の直感によるだけで、妊娠が確定した訳ではない。

 事実、市販の妊娠検査薬はhCGの濃度が十分に増加してからでないと陽性の反応が出ない。そして妊娠から一か月以上は経過しないと、病院の検査で胎児の心拍が確認されないらしい。


 改めてカオルの今置かれている状況を振り返った。 

 閉経後に妊娠した例を調べてみた。 

 確かに実例はある。

 閉経後でも卵巣には卵子になるはずだった原子卵胞というものが多く残っており、その細胞を活性化させることで再び卵子を作り、体外受精によって妊娠に至るというもの。

 ある医科大学病院で成功したとインターネットの記事に記載があった。しかしこれは人為的に行った結果。自然現象での確率は非常に低いはず。


 それと他にも気になるコトがある。


 カオルの健康状態だ。

 妊娠初期の女性は一般的に体調不良が付き物だと認識していた。調べてみると、先にも触れた妊娠状態を継続するために分泌されるhCGが急激に分泌され、眠気やつわり、だるさといった症状の他、男性ホルモンのバランスが低下して皮脂の分泌が抑制され、ニキビや吹き出物、シミの増加などの肌荒れが現れるという。

 だが妊娠を確信した後のカオルはというと、一年前に真一が鬼籍に入った当時に比べ、その変貌ぶりには大いに驚かされた。まるで終日日影に放置されたまま枯れかけたいた植物に、突然眩しい程の強い日差しと、栄養をたっぷり含んだ水分を、好きなだけ与えられたように、その細い身体が一気に潤い、張りを取り戻し、生きる活力を再び漲らせた。


 妊娠中の女性の健康状態がすこぶる快調なんて聞いたことがない。


 それに何と言っても彼女のような高齢出産には様々なリスクが伴う。

 卵子の老化で受精卵の染色体異常が増加するため、ダウン症などの発生率が高まり、流産や早産、死産も増加する。病気にかかりやすく、高血圧や尿タンパクなどの症状が見られ、「妊娠高血圧症候群(妊娠中毒症)」をはじめ、「前置胎盤」、「胎盤早期剥離」などの合併症の発生頻度が高くなる。高齢初産ではないので、難産の可能性は低いが、若い女性よりは体力が落ちており、産後の回復も遅くなる。

 更に母体の体調の悪化は胎児にも悪影響を及ぼす。

 カオルのようにやせすぎの母親から生まれてくる赤ちゃんは低体重児であることが多く、その場合、将来糖尿病や心臓病などの生活習慣病を発症する可能性が高いことが既に判明している。


 調べれば調べる程不安が募る妊娠なら、間違いであってほしいと願わずにはいられなかった。生まれてからの精神的負担は計り知れない。ネガティブ思考の自分にとっては人生最大のピンチかもしれない。


 だがカオルの直感は見事に的中した。

『最初の時』からちょうど二か月後、目の前に掲げる母子手帳とカオルの満面の笑みを見て、ボクの心は反比例するように、奈落の底に突き落とされた。


 ところが日を追うごとに心配が全く意味のないものだと気付かされた。ボクのネガティブ思考は想像しうる最大級の災難を考える場合がほとんどで、かつてその通りになった事例は一度もなかった。

 元々食が細いのと話していたカオルだが、全くつわりの兆候もなく、食欲は旺盛だった。体重は日に日に増加し、痩せすぎの体型は一見ではそれと感じられない程の適度な脂肪を蓄えるようになった。肌の張りも若々しく、ボクはカオルを改めて惚れ直した。

 それはまるで肌を重ねる前とは別人の彼女を見ているようで、いつでも心が騒いだ。

 カオルといつまでも暮らしていたいし、望むなら何人も子供を作りたいとさえ願うようになった。

 それでも現実問題、種の保存に対する単純な情熱だけでは日々の暮らしては成り立たない。戯れの時間に昂る感情を、生きる糧を十分得るためのモチベーションに変換しなければならないのだ。それが出来なければ二人(いや二人以上)の生活などあり得ない。全ては絵空事に成り下がる。


 カオルに渋々連れて来られた病院で、エコー検査に映る胎児の姿は、もはや事実として受け止める以外なかった。

 現実はアダルト映像にありがちな展開にはならない。責任を負わなければならない命の存在を目の当たりにして、ベッドの中とは違う消極的な感情が沸き上がる。

 ボクの未来には不安の二文字しか浮かばなかった。


『責任を負う』


 今まで考えたこともない重圧が心の中を覆うと、リンクするように生身の肉体が重さを増した。大きな砂袋を背負っているように、全く身動きが取れなくなった。


 だが、こうなったら突き進むしかない。

 先ずは叔父真一が残した三人の娘たちに会って経緯と結果と今後の身の振り方を報告しなければならない。

 その前段としてこれからの生活についてカオルと話し合った。

 生まれて来る子供の将来を優先するなら、当然入籍はしなければならない。そして身体の負担が大きくなるカオルとは、これも当然のごとく同居は必須項目だと考えていた。

 

「私、しばらくは独りで暮らしたいの」


 カオルの提案は意外だった。

 もちろんボクは反対した。

「だってカオルちゃんは普通の身体じゃないし・・・」

 彼女は優しく微笑み、顔の前でゆっくり手を振り否定した。


「ううん、身体はまだ独りでも大丈夫。たっくんがずっと赤ちゃんの傍にいたいって言うなら話は別だけど、そうじゃなかったら私、独りの生活を満喫したいの。たっくんはこの部屋に通ってくればいい。私が会いたくなったらすぐ呼ぶし、たっくんも会いたくなったらすぐに来て。私と関係を持ってあっという間に子持ちになって、たっくんだって気持ちが混乱して、心の準備がまだ出来てないと思うの。それに一日中顔を付き合わせていたら、たっくんも息が詰まっちゃうと思う。だからとりあえずまだ私と赤ちゃんは心配しないで、将来のコトゆっくり考えてほしいなって……」


 ボクはカオルの言葉をまっすぐに受け止め、彼女の思い遣りの心に素直に感動していた。

 そこまで言うカオルに逆らう理由はなかった。


 だから他の思惑なんて考えもしなかった。

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