ジュ・トゥ・ヴ
森宇 悠
第1話 おめでとおうございます!
最初の、きらり、という音を聞くだけでもう駄目だった。
着信音はサティの『ジュ・トゥ・ヴ』だったが、為男にとってその曲は苦手を通り越して恐怖になりつつあった。
きらりと星の流れる音が響いて、ポップにアレンジされた『ジュ・トゥ・ヴ』は流れ始める。
この頃では星が流れる度に為男の体はすくむようになっていた。
ローテーブルの上で小さく鳴動しながら三拍子を吐き出すスマートフォンにおそるおそる近寄る。
手はまだ、洗い物の途中で濡れていた。泡のついた食器はシンクの中に重なっていたし、温水は出しっぱなしになっていた。それでも確認しないわけにはいかなかった。確認なんてしたくなかった。それでも、しないわけにはいかなかった。
画面には「喜多瀬川章世」の表示。
足が震え始める。胃がせり上がるのを感じる。それでも、電話に出ないわけにはいかなかった。
「もしもし」
どうしてこんな風に内心とは裏腹の冷静な声が出せるのだろう、と為男は不思議に思った。
電話という機械がそうさせるのだ。昔からそうだった。電話に出るときはどんな時も冷静を装ってしまう。怯えて、震えて、緊張している自分を素直に声にしてもいいはずなのに。
しばらく相手は無言だった。いつものことだった。
その無言のうちに為男は心の準備をするのだが、その準備が役立ったことはいままでない。いつもいつも喜多瀬川の電話には準備など間に合わない。
濡れた手から滴がぽたりぽたりと垂れ、為男の耳と首を湿らせていき、不快だった。この上なく不快だった。不快でも、それでも為男は耳にスマートフォンを当てたままだった。
――亜梅さんですか・・・・・・?
喜多瀬川の声。わかりきっているはずなのに、電話をかけてきているくせに彼女はいつも名前を尋ねる。
「はい、お世話になっています」
冷静さで覆った声色を喜んでいるかのような喜多瀬川の呼吸が、はっきりと聞こえた。
――おめでとおうございます!
やや間があって心から嬉しそうな声が為男を叩きのめした。
為男は心のなかで呻く。今日も準備はうまくいかなかった。
――奥さまはアドロミスクスに生まれ変わりましたよ!
為男はリビングの床に膝をつき、そのまま前傾してソファに頭を突っ込んだ。
今度ははっきりと、ああ、という呻き声を発した。
それでもスマートフォンは握りしめたままだった。
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