忘れ水に眠る鬼 ~番外編集~

かざき

『鬼と初日の出』 忘れ水に眠る鬼 番外編

「明けましておめでとうございます。今年もどうぞ、よろしくお願いします」

 にこりと笑って、悠音はるねは深々と日向に頭を下げる。

 普段よりも少し丁寧な口調だったのは、目の前にいる男がいつもの気さくな"日向おじさん"ではなく、由緒正しい藤城神社の宮司として、正式な斎服を着ているからだ。


 これから『歳旦祭』といわれる今年一年の幸せを祈る年始の祭祀が、この藤城神社のご本殿で行われる。

 普段はあまり入る機会のない御本殿に氏子たちが集まる年初めのこの会は、凛とした空気がどこか弓を引く前の心の鎮けさと似て、悠音はけっこう気に入っていた。

 多くの氏子は昨夜の『除夜祭』からそのまま引き続いての参加だが、逢沢おうさわ家は所用があった為に今年は明け方からの『歳旦祭』のみの参加だった。


「はい。おめでとうございます。今年もよろしくね、悠音ちゃん」

 柔らかな笑顔で宮司は返す。けれども多くの氏子からの挨拶を受けている為に、いつものように長く話すことは出来なかった。

 それも毎年のことなので、悠音は特に気にもせず、自分の席へと向かった。


「あれ?」

 けれどもふと、視界の端に紅い影が見えたような気がして、悠音は慌ててそちらを見やる。

 まだ朝日はのぼっておらず、外は暗い。神社の燈篭の灯だけが周囲を照らすあかりだった。

 それでも鮮やかに浮かび上がって見えるあの紅は、悠音のよく見知ったものだ。


「……やだ。こんなに人がいっぱい居るのに」

 境内は初詣の参拝客でいっぱいであり、この本殿には氏子たちが集まっている。いつものように静寂に包まれた場所ではないのだ。

 もしかすると自分がここに居るので、いつものように出て来てくれたのかもしれないけれど、鬼の姿が誰かに見付かりでもしたら大騒ぎになる。

 悠音は紅い髪の色が見えた方向へと急いで向かった。


実斐さねあやさんっ」

 本殿から出ると目に付いた小門をくぐり、木々の間を探すように視線を巡らせる。いつも居る拝殿とは景色も違うので、何だか不思議な感じだったが、すぐにその姿を見つけることが出来た。


「人間どもは騒がしいのう。まだ夜も明けておらぬというに」

 苦笑したように口端をあげて、実斐はふわりと紅い髪を風になびかせ、悠音のもとに舞い降りる。

「新年の祭りなのだろうが……一日が終わり次の一日が始まる。ただそれだけのことに、よくもまあ、こうも嬉しそうに集まるものよ」

 年が明けようが、普通の日の夜が明けようが、一日の始まりにはたいして変わりがないだろうにと、鬼の青年は軽く眉を上げ、不満そうに呟く。


 四季折々。自然と共に好きなように、やりたいように生きてきた実斐にとっては、人間たちが行う年行事や祭事というものは、知ってはいてもその心境はよく理解できなかった。

「だってやっぱりね、区切りっていうのは必要だと思うのよ。悪いことでも良いことでも、整理って大事だもん。一年が終わって、じゃあ新しい年はこうしよう……とか、そういうふうに気持ちの切り替えが出来るでしょ?」

 お正月の清廉でいて賑やかな空気が好きな悠音にとっては、今の実斐の無粋な発言は聞き逃せない。


「……ふん。そういうものか?」

「私はお正月って大好きだよ。気のせいかもしれないけど、空気がいつもよりも張りつめてて澄んでいる気がするし、ここの神社で日向おじさんの祝詞やお話を聞いたりするのも楽しいしね」

 にこにこにこと、悠音は笑った。その表情は心底楽しそうだ。


「……まあ、そうやって"楽しみ"をつくることは、我も嫌いではないがな」

 その日がなのだと思って臨めば、何もないと考えた一日よりも格段と楽しくなるような気がする。そういうことだろうと、実斐は理解した。

 人にとっては新年というのが、それにあたるのだろう。

 そう思って少女の姿を見てみると、特別な日だからなのか、いつもの格好とは違う華やかな晴れ着姿をしていた。

 柄の大人しい淡いグラデーションがかかった桜色の晴れ着は、小柄な彼女によく似合っている。


「ほお……」

 しげしげと燈篭の灯り越しにその姿を眺め、実斐は軽く目を細めて笑った。

 自分が以前に見知っていた娘たちが着ける衣装とは少し違うが、いつも彼女が着ている"制服"とやらよりも系統は似ているかもしれない。


「な、なによぉ」

 青年が自分の振袖姿をまじまじと見ているのに気が付いて、悠音はちょっぴり恥ずかしくなった。その照れを隠すように上目遣いに実斐を見据えてみせる。

「いや。初めて会うた時の袴姿も悪くはなかったが、そういう装束を着ておると、ちゃんとした娘に見えるものだな」

 くつくつと、実斐は可笑しそうに肩を揺らしながら笑った。


「ええっ!? じゃあ、いつもは何に見えてるのよっ!?」

 ぷうっと頬をふくらませて、悠音は思わず実斐の顔を睨みつけた。まったく褒め言葉になっていない。

「いつもか? そうよのう……」

 にやりと口許を吊り上げて、実斐は悠音を見やる。

 その真闇にも似た漆黒の眼差しがどこか悪戯っぽく煌いているのが見えて、悠音は頬を膨らませたまま大きく頭を振った。


「人間とか、獲物とか言うのはナシだからね」

「ふ……ん」

 ぽむっと青年の大きな手が、悠音の頭の上に乗せられた。

「そなたは"そなた"に見えておるだけよ」

「 ―― は? 意味わかんないよ?」

「そなたは不可思議するぎる娘だからのう。何か他の物とひと括りには出来ぬ。ゆえに、悠音は悠音にしか見えぬ。そういうことだ」

 ぽんぽんと、頭の上で手が弾む。その手の重みと感触が、何故だかとても心地よかった。


「うーん。褒められてるのか、からかわれてるのか分かんないけど……まあ、いいかなぁ」

 ゆるやかに靡くように揺れる長い紅髪に彩られた青年の、楽しげで艶やかな笑顔につられたように、思わず悠音も笑ってしまう。

 とりあえず、"人間"というひとまとまりの生物じゃなくて、逢沢悠音個人として認めてもらえているだけマシかと思った。


「あっ。陽が昇ってきたよ。初日の出って、やっぱり綺麗だねえ」

 実斐の顔に落ちかかっていた夜の闇がふと白んできたのを見て、悠音は東の空に向きなおるように笑む。

「ふむ……まあ確かに、いつもと違って見えるやもしれぬな、年明けの陽は」

 悠音と同じように東の空に視線を流し、実斐も目を細めた。

 東の空には眩いばかりの朱金の光が見え始め、天空を徐々に優しい光がおおっていくように広がっていた。

 その様は新しい年の始まりに相応しく本当に鮮やかな陽の色で、二人は顔を見合わせて少し笑った。


『 ―― 掛けまくもかしこ藤城神社のとうじょうのかみのやしろ大前に斎主 いわいぬし日向徹平、かしこみ恐みもうさく、新しき年の新しき月の新しき日の今日の朝日の豊栄登とよさかのぼり御賀みほぎ寿詞よごと仕へ奉らむと豊御食とよみけ豊御酒とよみきを始めて海川山野の種種さまざまの物を献奉りて拝み奉るさまを平らけく安らけく聞こしめし、此の年を良き年の美し年と守給ひ幸はへ給ひて……』


 ふと、眩い初日の出の輝きに和するように、普段の柔らかな声とは違う、よく通る朗々とした日向の祝詞をよむ声が本殿から聞こえてきた。

 どうやら悠音がこちらに来ている間に、歳旦祭が始まってしまったらしい。


「悠音、あの男の祝詞が始まっておるようだが、そなたは行かずともよいのか?」

 先ほどこれを楽しみにしていると言っていた少女の言葉を思いだし、実斐は軽く首を傾げた。

「うーん。怒られるかも。でもまあ……あとでちゃんとお参りすれば良いってことにしちゃおうかな」

 ぺろりと舌を出して、悠音は可笑しそうに笑った。

 今から行っても祝詞の邪魔になるだけだし、せっかくだからもう少し実斐と話もしていたかった。


 そうしてふと、何かに気が付いたように悠音はあっと小さく叫ぶ。

「そうだ。私、実斐さんに大事なこと言ってなかったじゃない!」

「 ―― うん?」

 いったい何を言うのだろうかと、実斐は漆黒の瞳をきょとんとまるくして、そんな少女の顔を見やった。


「あのね ―― 明けまして、おめでとう。今年もよろしくね。実斐さん」

 にっこりと明るい言葉で悠音は紅い鬼の青年に向かって笑い掛ける。

「……ああ。よろしく。悠音」

 わざわざ鬼にそんな挨拶をしてくる少女が堪らなく可笑しいというように目許を笑ませて、実斐は頷いた。

 この娘に出逢ってから数ヶ月。そして年が改まった今も、この少女への興味は尽きそうにない。


 とてもであはあるけれども。もうしばらくのあいだ、自分は彼女を喰らうことはないだろう ―― 。

 今更まだ、そんなことを心密かに考えている紅い鬼だった。

 

  ---おわり---



 謹賀新年。新春を迎え、皆様のご多幸をお祈り申し上げます。

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