第3話

 寝る前に、あんなものを見たのがいけなかった。

 社は一人、布団の上で身もだえた。


 想定外の人物と出会えたのも相まって、珍しく社は張り切ってしまったのだ。わざわざ自分の仕事を手放してまで来た幼馴染に、少しはいいところを見せたかったのかもしれない。


 彼女が用意した不吉な資料――その昔トンネルの先で起こった不可解な出来事だの、何人も行方不明になってるだの、最近でも犬にかみ殺されたような遺体が見つかっただの――を一通り検分し、そのあとなんだか妙に強気な気分で亀井らと食事をとって、意気揚々と布団に転がり込んだ。

 隣の部屋には華。すぐそばに彼女がいると思うだけでドキドキした。もういい年(いやまだ三十手前だ)だというのにこんな、と思ったところでふと我に返ってしまったのもいけなかった。


 いやに部屋が寒かった。

 季節は暑さもようやくすぎた早秋。カラリと空が晴れ渡る、一番気持ちがいい季節。JRの駅近くとはいえ、ほとんど周りには何もなく、聞こえてくるのは虫の鳴き声くらいのものだった。


 秋風が気持ちよかったから、窓を少し開けたのを覚えている。夜の匂いが微かに流れてきていたはずだった。それがどうだ、急に部屋は寒くなり、なんとなくあたりが鉄臭いような気がする。

 こういう場合、ろくな目に遭わないことを社は知っていた。


 社は辺りをゆっくりと見回した。おかしい。あまりに暗すぎる。

 普通闇に慣れた人間の目は、わずかな光でもあたりを見ることが可能なはずだ。それがどうだ、目を開けているのに瞑っているかのような真っ暗さ。

 あるいは、夢でも見ているのだろうか。けれど社はその経験上、これが夢でないこともわかっていた。なぜなら。


 上げたはずの声は響かなかった。何かに口を塞がれたみたいに、息が苦しい。何も見えない暗闇のはずなのに、それだけがくっきりと見えた。


 額が割れ、てらてらと血を流す女の姿。

 長い髪がべったりと血で染まっていて、手足はだらりと垂れさがっている。そいつが、横たわる社の身体の上に張り付いていた。


 あの時の幽霊だ!

 社は思い出す。こいつのせいでとんだ悪夢を見させられ、気絶したところを警察に連れて行かれ、散々な目に遭った。

 だというのにこいつ、まだ飽き足らずに僕に付いてきたっていうのか!?


「お、お前……なんで……」

 必死に声を振り絞る。はっきり言って幽霊の相手などしたくなかった。いっそ気絶した方が気が楽だった。けれど、社はぎりぎりのふちで意識を保とうとする。


 普通、霊と言うのは多少なりとも制限があるものだ。生きている人間とはわけが違う。その怨みや恐怖が、例えば事故現場や殺害場所にこびりついて、そこに意識だけが残ったような存在だ。そう社は思っている。だから一般的に、その特定の場所にしか現れないはずだ。


 だというのに、こいつは社に付いてきた。よほど現世に怨みでもあるのか。確かにうっかり落石に当たって死んだら、社だって死ぬに死ねないかもしれない。

 けれど、たまたまその遺体を発見した人間についてきたりなどするものだろうか。だとしたら、よほど伝えたいことがあるか、あるいは。


 憑りつかれでもしたらたまったもんじゃない!

 社は心の中で叫ぶ。今日の朝だって危なかった。何しろ、霊の記憶をまざまざと見せつけられて。それは、霊が社の中に入って来たということで。


 つまり、身体を乗っ取られてしまう可能性だってあるのだ。そうなったらどうなる?幸い以前、社の身体を奪った霊は悪い奴じゃなかったけれど、全部の霊がいい奴だなんて到底社には信じられなかった。

 社は必死に抵抗する。けれど抗おうにも、手足は布団に縫い付けられたかのように動こうとしない。


 誰か!助けを求める声は声にならなかった。すぐ隣の部屋には華がいるというのに、まるで何も音が聞こえない。ちきしょう、唯一のお祓いアイテムの玉串を、クローゼットにしまうなんてしなければよかった。


 あるいは、亀井が頼んだ助っ人とやらは?結局その後期待の新人に出会えていないが、明日から現場入りの予定だ。いくら何でももう来てるんじゃないかとか、淡い期待を思い浮かべる。

 けれどそうしている間にも血まみれの女の顔が、社の顔へと近づいてくる。

 真っ赤に流れる血が、女の唇を彩る。それが、社の唇に触れるほど近づいたところで、霊が口を開いた。


『……犬を……探してほしいの……』 

 犬?確かにそう聞こえた、気がする。

 社は暗闇の中、必死に目を瞬かせる。どういうことだ?


『犬を……探して。私、死んじゃったみたい……』

 次に響いた声は、少し悲しそうだった。思っていたよりも若い声。

 なんだ、この子はまさか、飼い犬を探しに来て落石に巻き込まれたっていうのか?


『かわいい犬なの、大切な……』

 血に濡れてべったりとしていた髪が、さらさらと流れだす。恐らく生前の姿なのだろう、長く伸びる髪は、思ったより色が明るい。顔から不吉な影が消え、きらりと瞳が輝いた。


『ねえお兄さん』

 そう呼びかけられて、社は少し気分が良くなってきた。お兄さん!そうだ僕はまだおじさんなんかじゃないぞ。それによく見るとこの子、意外にかわいいかもしれない……。


 まだあどけさの残る顔だった。高校生?いや、もう少し上。大学生くらいだろうか。大きな瞳と、優しげな眉。どこか想い人を彷彿させる顔立ちだった。

 ぼんやりと赤く染まっていた身体は、ゆっくりと輪郭を取り戻している。今の時期だとちょっと寒そうな格好だ。ノースリーブからはしなやかな腕が伸びていて、スタイルの良さを強調している。そんな娘にお兄さんと言われて、もちろん悪い気などしなかった。

 だがその気の緩みが、いけなかったのだ。


『私のことが視えるんでしょう?あの子を、探してきてほしいの……』 

 そう呟いて、再び唇が近づいてくる。鮮やかな赤。柔らかそうにさえ見えるそれが近づいて……。


『見つけてくれないと、みんな死んじゃうの』

 そう、ニヤリと笑った。唇がみるみる裂け、顔いっぱいに広がる。ポタリ、と生ぬるいものを社は頬に感じた。気づけば動けるようになっていた腕を伸ばし、社はそれに触れる。


 血。いつの間にか、生臭い液体が社の身体を覆っている。真っ白だったはずのシーツは、もはや白いところが見つからないほどに染まっていて。


『ねえ、約束よ。じゃないと、みんな死ぬんだから』

 その言葉を最後に、社の視界は暗転した。

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