湯たぽん

「ばっかやろぃ!あぶねぇだろうが!」


すぐ横を轟音と共にトラックが走り去って行った。


しかし、罵声を浴びせられた当人は悠然とした歩をゆるめる事無く、大通りのど真ん中を散歩していた。


「誰かに轢かれて死んじまえぃ!」


遠くから再び聞こえた罵声に向けて、今度は振り返ると


『ならアンタが轢きに来なよ。人頼みはみっともないぜ』


と、運転手には分からない言葉で応えた。


言葉の主は、猫だった。


信仰心の篤いこの街の住民には極端に嫌われる黒猫。生まれながらの野良猫で親は無く、仲間もいない。ゆえに名前もなかった。

一人で生きていくための力も知恵も、自分でつけてきた。望んで孤独に生きてきた。誰かのために生きるなんてまっぴらごめんだった。


この世の中に必要なのは、自分一人。


そう宣言しているかのように、憎たらしいほどに立派な黒いかぎ尻尾をぴんと立てて、冬の近づく街を気分良く歩いていた。


そんな、夜だった。




「こんばんは、素敵なおチビさん」


不意に、黒猫は後ろから抱きあげられた。

あまりに突然の事だったので、驚く事も暴れる事もなく猫は正面を向けられ、男と対面した。


「綺麗な黒だね。僕ら、良く似ている」


『な・・・・何だ?』


不意をつかれて触れられた事よりも、突如自分の奥底から湧き出てきた不思議と温かい気持ちに、猫は動揺した。


『やめろ。調子に乗るんじゃない・・・・!』


突然、猫は暴れ出した。身体をひねり、噛みつき、引っ掻き。男の袖口をズタズタにして飛び降りた。


「・・・・はは、突然すぎて驚いたね。ごめんごめん」


腕中につけられた引っかき傷を、怒りもせず舐めながら男は猫を撫でようと近づいた。


『く、来るな!』


猫は牙を剥いて威嚇すると、路地の奥へと逃げ出した。


男が優しく抱き上げてくれた。そしてかけてくれた優しい言葉。どちらも猫にとっては生まれて初めての体験だった。同時に、自らに湧いてきた未知の、暖かい感情が。猫には理解できなかった。


しかし、無視も出来なかった。


「ごめん、謝るよ。戻っておいでー」


男はまだ追いかけてきていた。猫の足なら撒く事などたやすかった。それでも、自分のこの感情が気になって撒く事が出来なかった。逃げては立ち止まり、男が抱き上げようとするとまた逃げ出し。


2人の変わり者の奇妙な追いかけっこは、明け方まで続いた。




「ホーリーナイト。ほら、コタツだよ」


黒猫は、結局男と暮らすことになった。みすぼらしい服をまとっていた男は、見た目通り貧しい画家だった。


コタツは机に布団をかけただけ、食事も満足に手に入れられない生活の中で、しかし黒猫は彼に『Holy Night』、”聖なる夜”という名前を貰い、これまでにない幸福を感じていた。


『ほら、今日のお土産』


「ガ・・・・ッ!?ほ・・・・ホーリーナイト、ネズミを獲ってくれるのは嬉しいけれど、見せに来なくてもいいよ。ほんと。」


『ぉ、今回の絵はいいな。よし、落款(らっかん)を押してやろう』 


「おぉ、分かってくれる?ホーリーナイト。肉珠スタンプならここに頼むよ」




だが、その暮らしはあっという間に終わりを迎えた。




画家が倒れたのだ。




「ガハッ・・・・ゴホ・・・・ゴホ・・・・ホーリー・・・・ホーリーナイト?頼みが・・・・あるんだ」


死の床についてから、男は長い手紙を書いた。


「前に・・・・話したことがあったね。僕の・・・・ふるさと。そこに、僕の・・・・恋人がいるんだ。絵で成功して戻ると言って出てきて。・・・・最初で最後の手紙がこれさ。届けて・・・・くれるね?」


身近な存在の死というものを体験した事のなかった猫には、急速に弱っていく親友を直視できずにいた。かといって離れる事も出来ず、絵具だらけの部屋をいったりきたりしていた。


そんなうちに、ふと、猫は気付く事があった。




『この部屋・・・・真っ黒だ』




画家の書く絵は、すべて黒猫を描いたものだった。

鮮やかな流行を追い、黒猫を嫌う街の人間にこんな絵が売れるはずがない。貧しさで倒れるのも当然の成り行きだった。


それでも。


『俺なんかを・・・・描きつづけていたのか』


咳きこむごとに顔色が白くなっていき、力も抜けていく男の手。それでも、手紙を離さず黒猫へ頼み込むように差し出してくる。

もはや声も出せないほどに弱った画家の最後の頼みを、黒猫はようやく承諾した。手紙をしっかりと咥え、見えているかどうかも分からないような眼をしっかりと見返すと、一声鳴いて部屋を後にした。


『確かに、受け取ったよ』




町を一歩外へ出ると、視界は完全に白一色となった。

ふぶいてこそいなかったが、空を覆った分厚い雲が、大きなぼた雪を降らせていた。


『フフ、そういえばアイツも何かしらタイミングの悪いヤツだったっけな』


一人、部屋に残してきた親友の事を思い出して、猫はちょっとだけ後ろの町を振り返った。


『約束は、守るよ』


一声鳴くと、託された手紙をしっかり咥え直した猫は疾走を開始した。海に面した町からの道。大雪で視界も体温も奪われ、しかもすぐ横は崖。そんな中を、猫はまったく速度を落とすことなくしなやかな身体をくねらせ一直線に駆けていった。




休憩も取らずに走り続け、ようやく雪も止み気温も上がってきたところで通った小さな町では、吹雪よりも困難な事態が猫を待ち受けていた。


「惜しい!もうちょっとで頭に一発だったのになぁ!」


「ば~か、封筒を狙うんだろ封筒を。当てるなら口だよ口」


前方の空き地から大量の雪玉が投げつけられてきたのだ。町の子供たちだった。雪が止んで久しぶりに外で遊べるという日に、格好の獲物が見つかったというわけだ。たちの悪いことに、雪玉の中には石が入っている。


「絶対あの封筒の中魔方陣か呪文書だぜ。捕まえて火あぶりだ」


『どこの町でも同じだなぁ。・・・・いやあの町よりもっと悪いか』


黒猫はどこでも嫌われ者だった。石を投げつける事にも、生き物を火にくべる事にも全く抵抗なくさせるのは、今も昔も宗教の悪所だ。しかし、猫はさらに封筒を咥える口に力を込めた。


「うお、なんだアイツ。こっちに向かってくるぜ」


真正面に立ち邪魔をする子供たちに時間をかけてはいられない。いったん、空き地の入り口横に積み上げられていた薪を駆け上り大きく跳躍すると、猫は約束の方角へ、まっすぐ。子供たちの陣取るほうへ猫は疾走を再開した。 


「やべぇ、こりゃいよいよ悪魔の使者だぞ!逃がすなよ」


もはや雪玉のクッションは無かった。石だの薪だの、果ては鎌までもが投げつけられた。


『なんだろうな、アイツの腕以外に捕まる気がしねぇや』


余裕の表情を浮かべ、猫は悪魔の顔をした子供たちのほうへ突貫した。


しかし


「こいつ・・・っ!」


なんとか最後の薪での一撃をかわした次の瞬間

振り向きざまに一番体の大きな子供が身体ごとのしかかってきた。


『ぐぁっ!!』


後ろ足を挟まれ、猫は大の字につんのめった。


「逃がすな、やっつけろ!火あぶりだぞ」


頭、足、背中。小さな身体を余すところなく、無邪気な暴力が叩きつけられた。


「よこせ、離せよ・・・っ!この悪魔め!」


咥えた手紙だけはけして離さず、猫はただ身体を丸めていた。


『なんとでも言えよ!オレは悪魔じゃない。ホーリーナイトだ!この程度で音をあげるものか!』




子供たちが飽きて、手紙を諦める頃には太陽はずいぶん低くなってきていた。


『・・・・へ、この程度か。今日はこのへんで勘弁してやる・・・・か?』


捨て台詞を吐いて一歩踏み出そうとして。猫はその場へ再び倒れこんだ。後ろを振り返ると、猫の後ろ足は片方、奇妙な形をしていた。


『へ・・・・へへ。オレの足こんな折れ曲がってたっけ・・・・?』


ぐ・・・・となんとか立ち上がると、身体を反らし空を見上げた。


『そろそろ、夜だな』


さっきまで夕焼け色に染まっていた空だが、あっという間に雪雲が出てきていた。早晩吹雪になるだろう。しかしそれでも、猫の意志は、彼との約束は、萎えなかった。


『聖なる夜。オレの時間じゃあないか。ここで約束を守らなきゃあ、嘘だろう?』


再び一声鳴くと、左足が折れているのをまったく無視して、猫は走り出した。


ホーリーナイト。なんでそんな名前が付けられたのか思い出せなかったが、猫にとってはその名こそが自分のすべてだった。画家と過ごした時間の全てが、この名前を口にしただけで思い出された。優しさ、温もり、絆。ごくごく短かった時間の、大した事のない貧しい日常は、それまで猫が全く体験したことのなかったそれらで満ち溢れていた。


『産まれた事に意味なんて無いと思っていた。命なんてなにより安いものだと思っていた』


『でも、今のオレはホーリーナイト。今ここで約束を果たすためにオレはこの名を貰ったんだッ』


血のにじむ口元をさらに強く食いしばると、吹雪の中猫はさらに速度を上げた。

いつの間にか夜は明け、猫は親友の故郷へと足を踏み入れていた。画家の恋人は、この町の中央付近に住んでいた。

昨日の朝、町を発ってから何も口にしていなかった。一睡も、休憩さえも取らなかった。身体は冷え切り、折れた足には氷が付いていた。


ふと、猫の脚が足元の氷に滑り転んだ瞬間。


ガンッ!


またも投げつけられてきた石を避ける力は、猫にはもうなかった。


「見ろ、一発で当てたぞ!」


「悪魔退治せいこーう!」




次に猫が目を覚ました時には、前足も片方折れていた。

よっぽど強く咥えていたのか、今度も手紙を奪われることはなかったが、走ることはもう出来ず、這いずるようにして猫は恋人の家へと向かった。




『ここ・・・・だ・・・・』


ついに見つけた。猫は画家の恋人の家の扉の前まで来ると、そのまま扉へダイブした。


ゴン


『開けて・・・・なんて・・・・くれないやな・・・・』


まる一日ぶりに手紙を口から離すと、猫はそのままズルズルと、地面へと沈んでいった。


ガチャリ


その時、画家とは違いなんともいいタイミングで扉が開いた。


「どなた・・・・?」


少しだけ開いた扉の中から、長い黒髪の細身の女性が顔を覗かせた。


『あのヤロウ・・・・なかなか見る目・・・・あるじゃないか・・・・こんな美人か・・・・よ』


「キャッ・・・・」


小さな悲鳴を聞いたのを最後に、猫は意識を失った。


 


 


 


『・・・・!?生き・・・・てる・・・・か』


猫はもう一度、目を覚ます事を許された。




恋人は手紙より猫の手当てを優先したのだ。黒猫を忌み嫌う町の中で、唯一憩う事が許される場所が、猫の目的地と同じだった。


「・・・・起きた?わね。ごめんね、あなたを救いきることはできそうにない」


手紙を読むと、恋人は包帯だらけの黒猫を毛布にくるんでしっかりと抱き、急行列車に乗ったのだった。黒猫が、画家と一緒に住んでいた町は。猫が命を懸けて走ってきたその道のりは。恋人の家から急行列車で2時間とかからない場所だった。


恋人は、画家のなきがらを確認すると、ひとしずくの涙を流した後ふらりとその場から姿を消した。

猫を抱いて向かった先は、町の外れ、海の見える崖だった。猫の体中にまかれた包帯からは、いまだに新しい血が沁みだしてきていた。


『帰ってきた・・・・のか・・・・?』


意識がもうろうとする中生まれ育った町の空気を吸い、猫は帰還を察知した。


「”青い海が描きたい”。あの人はそう言ってこの町を目指したの」


あたかも自分の子供に言い聞かせるように、画家の恋人は毛布の猫を優しくゆすりながら話し始めた。


「それなのに、どうやらあの人の青は町に塗りつぶされてしまったみたい、ね・・・」


ひとすじ、ふたすじ。恋人の頬を涙がつたっていった。


「でも、あの部屋で見た黒。あんな綺麗な黒は私、見た事ない」


毛布の中で息絶えようとしている猫を覗き込み、恋人は誇らしげに言った。


「あなたのおかげだったみたいね。ありがとう・・・・お手紙、読んだ。あなたの事も書いてあった」


恋人は、猫が海を見えるように高く抱え上げた。


「あの人は、私のおうち・・・・あの山の中の町で眠ってもらうことにする。あなたは・・・・彼の代わりにこの海を見ながら眠ってもらいたいの。彼の、青を・・・・」


言葉が終わり、恋人が胸に戻した猫を見やると。


ホーリーナイトは静かに息を引き取っていた。




恋人は崖の近く、海が見える一番日当たりのいい場所に、猫のお墓を丁寧に丁寧に作った。


墓標には、画家が名付けた名前に、アルファベット一文字付け足されたものが刻まれた。




「・・・・おやすみなさい、”Holy Knight(聖なる騎士)”・・・・」




おしまい

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湯たぽん @nadare3

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