あの子と私

N通-

あの子と私

 ガサガサガサ……。

 

 今日も、あの子が私の部屋で元気に動いている。とはいっても、それは檻の中の話し。あの子には自由なんてない、この、狭い一人暮らし用のアパートの隅に置かれた檻の中からは……たまには出してあげるけど、外に連れて行くことはない。あの子は繊細だ。硝子のような脆い体をしている。

 

 私があの子と出会ったのは、譲渡会だった。

 いい加減都会に出てきて、一人暮らしの寂しさに慣れることがないと気がついた私が、以前から気になっていた譲渡会に参加してみたのだ。

 

 スタッフさんは皆親切で優しく、でもしっかりと私の事を見定めていた。何匹もの子達に囲まれながらも、私はどの子と自分の相性がいいのかとても悩んでいた。

 

 そう、私は猫の譲渡会に来ていたのだ。

 

 猫カフェに通うという選択肢もあったが、出迎えてくれる家族が欲しかった。でも恋愛関係に疎い私には、他人と一緒に住むという事が考えられない。それでも、寂しさが消えなかったが故の今の状況だ。

 

 「……なーご」

 

 ふと、私の耳にとても弱々しい鳴き声が届いた気がした。私は、その鳴き声に釣られるようにその向こう側にあるスペース、スタッフさん曰く、重度の障害を抱えているという子たちがいる方のスペースへと足を向けた。

 

 スタッフさんが、やんわりと言う。

 

「あの、正直に言って申し上げにくいのですが、ここにいる子達は初心者の方がお迎えするには難易度が高いと思いますよ?」


 そうですか、と気のない返事をしていたかもしれない。私はそんなことにはお構いなしに、声の聞こえたケージの前に立った。中を覗き込むと、体を丸めて穏やかに呼吸しながら、物憂げに瞬きをしつつ、しかししっかりと私を認識している子がいた。茶トラ模様の、まだ幼い子だった。

 

 「この子。いくつですか?」

 

 「あー、こちらの子は推定で2,3ヶ月くらいですよ。どうも、悪いものを食べてしまったみたいで、内臓器に障害があるんです。とても長くは……」

 

 スタッフさんはそこで言葉をつまらせた。本当に心優しい方なのだろう。多少潤んだ瞳で、私を見つめる。

 

「この子をオススメすることは、個人的にはできません。私達でしっかりと最期までを看取ってあげたいという気持ちがあります」


 スタッフさんのはっきりとした拒絶の意思を受けて、私はもう一度檻の中の子に目を向ける。キレイな瞳だった。まるでガラス玉のようで、とても障害があるようには見えない。スタッフさんたちのケアや普段のお世話がとても上手だからなのだろう。

 

 ……私を呼んだのは、あなた?

 

 心のなかで問いかける。当然返事など期待してのものではなかった。しかし、それはあっさりと裏切られる。

 

「なーお」


 なんと、私の問に答えるように返事を返してくれたのだ!

 

「えっ!? 滅多に鳴かないのに、この子……」


 困惑しているスタッフさんを尻目に、私はもう少し無言のコミュニケーションを試みた。

 

 私の所に、来たい?


「にゃー……」


 消え入るような声。また鳴いた事に、いよいよスタッフさんは口を手で覆う仕草をして目を丸くしている。

 

「決めました」


「え? あの……はい?」


 困惑していたスタッフさんは即座には私の言葉の意図を読み取れなかったようだが、やがてその意味を理解してみるみる真剣な表情を作る。

 

「先程も申し上げましたが、この子は長くないと言われています。私達スタッフ一同も、可愛がっているんです。私達の想いと、この子の命を背負う覚悟が、貴女には本当にありますか?」


 真っ直ぐな眼差し、いっそ刺すようなその視線に、私は迷いもせずにうなずいた。

 

「この子が……呼んでくれた気がするんです。私を」


「確かに、滅多に鳴かないこの子がニ回も鳴くなんて驚きましたが……」



 それから、多少の押し問答のようなものを繰り広げて、私はあと三日、冷静に考えるように説得されてしまった。それまでにかかる諸費用、さらには今後かかるであろう決して安くはないであろう治療費等を言われても、私は動じることなく、それらをきちんと確認して計算する。

 

 それからの三日、私はあの茶トラの子の事ばかり考えてしまっていた。まだ、決まってもいない段階から、既に部屋を片付け、思い切って断捨離をし、あの子を迎え入れるスペースを作る。

 

 三日後。私は約束通りあの子を迎えにやってきた。

 

 スタッフさん達の最後の抵抗もものの見事に説得して見せ、ようやく、あの子を抱かせてもらえる許可が出た。

 

 これからこの子がうちの子になる! そう考えると震える手を、なんとか抑えながら、まずはスタッフさんが慣れた手付きで子猫を抱く。それから、慎重に私へと手渡してくれた。

 

 小さい。

 

 それが最初の感想。檻の中で見た状態よりも、もっとずっと小さく感じてしまう。この子はちょっと毛が長いのかしら? そう思いながら、スタッフさんに注意されたように。優しくなでる。

 

「にゃん。ぐるるるるるる」


「嘘!? こんなに、初対面で甘えるなんて……」


 茶トラの子は、喉をゴロゴロと鳴らしながら、私にもっと頭をかいてほしいと言わんばかりに自ら乗り出して差し出す。

 

 希望通りにしてあげると、この子は更に知らない人が聞けば威嚇してるのかと思うぐらいの鳴らし具合で喉をゴロゴロ言わせた。

 

 決まりだ。決定的。私は、スタッフさん達には、否、もう誰の手にもこの子を渡すつもりはなかった。

 

 私と、この子の間にある不思議な縁を感じ取ってもらえたのか、その後は改めての生物を飼うという責任の重さ、そして、諸手続きについて詳しく説明してもらった。幸いにして、この子が通っている病院は私の近所だったこともあり、スタッフさん達はそれなら安心とばかりにほっと一息ついていた。

 

 それから、茶トラの子――「ようかん」と名付けたあの子を迎えるために必要なものを買い足し、そして迎え入れ、今に至る。

 

 迎え入れた当初は、過酷だった外の景色を見てすっかり怯えてしまい、私ですら近づいても甘えてくることはなかった。ただ、暴れることも、威嚇することもなく、ケージの隅でじっとしている。

 

 療養食もちゃんと食べてくれてはいた。それから、徐々に環境に、部屋と私に慣れてくれたのか、私がケージの近くにいないとか弱く鳴いて呼び続け、ケージに近寄るとガシャガシャとそれを揺らして私に甘えたがるようになった。私が視界にいる時は、ケージの中でぴょんとジャンプしてみせて、どうだ、私もまだ元気だぞとアピールしているように得意げな顔をしてみせるのが、可愛かった。

 

 もちろん、辛いこともある。

 

 病院で診察を受け、その経過を聞く度に、私はようかんが余命幾ばくもないことを思い知らされるのだ。

 

 しかし私は幸せだった。幸いにもリモートワークの在宅仕事だったこともあり、常にようかんのそばに居られる。ちょっとした外出をすることももちろんあったが、なるべくようかんに寂しい思いをさせないように、精一杯の愛情を注いでいたのだ。

 

 時はめぐり、季節がニ回程変わった頃。ようかんの容態が急激に悪化した。そして、ついに虹の橋をわたってしまった。猫は自分の死に様を見せない。あれは嘘だったと、今なら言える。寒く、雪がちらつくある日。ようかんは私の腕の中で眠るように息を引き取った。

 

 たったの何ヶ月か。それでも私は確かに幸せだった。スタッフさんたちにも連絡を入れ、空の檻を見つめる。

 

 次の日、いつものくせでついつい用意していたようかんのご飯がキレイになくなっていることに気付いた。

 

 帰ってきた! 私の心はそのことだけに支配され、何もかも気にならなくなっていた。

 

 そう、それからもようかんはずっとケージの中に居続ける。決して私が抱ける事もなくなってしまったけど、今でも元気に、ご飯を食べて私に向けてガシャガシャと檻を揺らしてアピールするのだ――。

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