第2話 冬の街、再会の夜

 ぼくは大学2年で、その年の一月に成人式を迎えたばかりだった。地元から出て、都内のマンションで一人暮らしをしていたけれど、両親が負担してくれたのは、学費と家賃、最低限の生活費だけだったから、生活は楽ではなかった。大学のサークルにも加入していたけれど、活動に必要な費用をまかなうために、割とハードにアルバイトをして過ごしていた。

 

 その日、ぼくは大学の友人数人と、都内の居酒屋で酒を飲んでいた。アルコールに強い方ではなかったけれど、その日は飲み過ぎてしまい、足取りの不安なぼくを心配して友人のひとりがタクシーを止めてくれた。ぼくは友人に別れを告げてタクシーに乗り込んだんだけど、車が出る直前になって、ひどい吐き気に襲われてタクシーから外へ出た。ひとしきり胃の中の物を吐き出すと、止まっていたはずのタクシーは消えていた。


 仕方なくぼくは、薄暗い路地を歩いて近くの駅に向かった。繁華街はんかがいのネオンの下を通り抜け、ラブホテルが乱立らんりつする薄暗い地域をふらつきながら歩いた。冷たい夜気の中を歩いているうちに、だんだんと酔いは冷め、昼間とは異なる夜の街を観察する余裕も生まれてきた。


 歩いていると、暗がりの中に立つ若い女性を見かけた。飲み屋で働くような派手な格好ではなく、割りと普通の格好をした若い女が、暗い路地を照らす街灯の下に、ぽつりぽつりと立っている。彼女たちは知り合いでも待っているような素振そぶりでスマホの画面を眺めているが、ほとんどその場所から動かない。目が合うと笑顔を見せてくれる子もいたが、大抵は感情のない瞳でこちらを見返してくるだけだ。


 友人のひとりに、性行為だけが世の中の全てだといわんばかりの男がいた。口から出る言葉の九割は女の事で、あとの一割は酒の話しかしない風変りな男で、ぼくはこの世界に存在するありとあらゆる裏風俗に関する薫陶くんとうをこの男から受けていた。


 だからぼくが入り込んだこの路地にたむろする彼女たちが、立ちんぼといわれる裏風俗を営む女性たちであることに気づいた。


 彼女たちがどういう理由でこの場にいるのかは、事情通の友達から聞いた話から、ある程度は推測がついた。


 彼女たちはアマチュアで、単純に手っ取り早く金を稼ぎたいからここに立っている。家出をしてきたとか、未成年であるとか、あるいは誰にも知られずに体を売って小遣い稼ぎをしたい者とか、既存きぞんの風俗店に勤めるわけにはいかない訳ありの女の子たちが、この界隈かいわいに立って男たちからの声掛けを待っている。金銭的な授与は当然発生するけれど、彼女たちから声を掛けるわけではなく、男たちから話を持ちかけられ、それに応じるとういう形だから、自由恋愛というていを作れる。 


 気をつけてみていると、この通りをぼくと同じように一人歩きしている男たちがいた。彼らは外灯の下に立っている女の子のまわりを品定しなさだめでもするようにうろついたあと、おずおずと彼女たちに話しかけては、腕を組んで夜の闇の中に消えていった。


 物珍ものめずらしさもあって、ぼくは速度をゆるめ、遠目に彼女たちを観察しながら暗いホテル街を歩いた。


 彼女たちは、見た目普通の女の子だった。服装も色々で、中には部屋着としか思いようのないスエット姿の子までいた。年齢はだいたい二十台前半で、中には未成年に見えるほど幼い容姿をした子もいる。


 今にも雪が降りだしそうな銀色の空の下で、彼女たちはぼんやりと路傍ろぼうに立ち、やってくる男たちに声を掛けられるのをただじっと待っていた。



 彼女を見つけたのは偶然だった。彼女は常夜灯じょうやとうの灯りから外れた、薄暗い路地の入口に立っていた。気づかず通り過ぎようとしたぼくのすぐ近くで、ライターの火が点った。驚いて暗がりに目を向けると、路地の闇にまぎれてタバコをかす彼女がいた。


 最初ぼくは、そこに立っているのが彼女だとは思わなかった。髪型こそ3年前と同じだったが、髪の色が違った。豊かな黒色の髪は、ブリーチで金髪に染め上げられていてた。

 

 黒くきりっとした印象があった眉の大半は剃り落とされ、みずみずしく張りのあった肌は厚めのファンデーションで塗り固められていた。現代的なメイクと言えば聞こえがいいが、それは彼女が本来持っていた美しさにフィルターをかけ、不自然なまでにデコレートした造花のような印象をぼくに与えた。


 ぼくと彼女は、束のつかのま無言で見つめあった。彼女が蒸かすタバコの煙が、ときどき強く吹き付ける北風にあおられてぼくの鼻孔を刺激した。タバコを吸わないぼくが軽く咳き込むと、彼女は口にくわえたタバコを地面に投げ捨て、履いていたブーツの先で踏み消した。


「なにしてんのあんた」


 3年ぶりに聞く彼女の声だった。久しぶりでもなく、どうしたのでもない。感動もなければ喜びもない、感情の欠落けつらくした平坦な声音。


「なにって、きみこそ」


 その先の言葉は出て来なかった。いつかどこかで、きっと彼女と再開できるとぼくは信じていた。だけどそれは、こんな場所でこんな形での再開であるはずがなかった。ここは、彼女が居る場所ではない。


 彼女の唇の片端がわずかに吊り上がった。それは、偶然の再開に呆れ果てた自嘲じちょうの笑みだった。


女漁おんなあさり?だったら安くていい子教えてやるよ。病気持ってっからゴムはいるけどね」


 彼女の言葉を理解するのに時間を要した。声は聞こえているけれど、まるで初めて聞く外国語のように意味をさない。彼女が何を言っているのか、ぼくには全く理解できなかった。


「おれのこと、おぼえてる?」


「何いってんの?わかるに決まってんじゃん。バカじゃね?」


 タバコと安酒の臭いと共に漂ってくるのは、紛れもない男の体液の臭いだった。難解な英単語を見事に発音していた彼女の小さな唇の奥から、耐えがたいその異臭は漂い流れてくる。


 ぼくの顔から視線を外すと、彼女は大量の唾を地面に吐き出した。ポケットからタバコを取り出すと、パチンコ屋のロゴの入った使い捨てライターで火を点ける。


「驚くのもわかるんだけどさ」


 タバコの煙を吐き出すと、薄ら笑いを浮かべながら彼女が言葉をつなぐ。


「感動の再会にならなくってごめんね。なんかちょっと気の毒だらからさ。でもまぁ、いろいろあんだよ。こっちもさ」


 彼女の手を握ろうと、ぼくは両手を差し出した。だけど彼女は、露骨ろこつ嫌悪けんおを顔に浮かべ後退あとずさった。


「ちょっと触んなよ」


「話がしたいんだ。ほんの少しでいい。きみと話がしたい。でもこんな所じゃダメだ。もっと別の場所、暖かいところに行こう」


 彼女が大きく舌打ちをした。彼女の視線はぼくの顔から外れ、背後の闇に向いていた。

 振り返ると、ぼくのすぐ後に自転車に乗った大柄な男が立っていた。


「どうしたミカ。トラブルか?」


 抑揚よくようのない声で男が彼女に声を掛ける。彼女の名前はミカじゃない。だけどおそらく、この界隈かいわいではミカと呼ばれているのだろう。


「ちげぇよ。昔の知り合い。すぐ追い返すから、手ぇ出さねぇでくれる?」


 男の目がぼくの全身をめ回す。あばただらけの顔は思いのほか幼いが、体からにじみ出る狂暴さは隠しようがない。


「ふ~ん。じゃあいいけどよ。あんまモタつくようなら言えよ」


 男は乗っていた自転車を漕いで、ふらふらと通りの先に進んでいった。おそらくこの界隈の女たちを取り仕切っている側の一人だろう。客とのトラブルを女ひとりで防げるわけはないから、こういう連中が女たちの背後に控え、手綱たづなを握っている。


「今いくら持ってる?」


 ぼくが財布を取り出すと、彼女はひったくるように財布を手にして中身を確認した。


「一万ぽっちじゃん。金もねぇのになんでこんなとこ来たのさ。まぁいいや。カードあるんならそれでホテル代は払えるから、行こっか」


 財布を投げて返すと、彼女はぼくの腕を掴んで歩き出した。3年前、ぼくらは互いの学校から離れたところにある国立公園まで出かけ、人混みで溢れかえる銀杏並木いちょうなみきの下を、初めて手を繋いで歩いた。知り合って互いの手を握り締めるまで2カ月近くかかったのに、再会して僅か5分で、彼女はぼくの腕を掴んで暗闇の中を歩いていく。


「ショートだとさ、さっきの奴に5千円払わなきゃならないんだよ。ホ代別でね。だから、一万貰うよ」


 そういうと彼女は、ぼくを薄汚れたラブホテルのエントランスに引き込んだ。慣れた様子で受付を済ませると、彼女とぼくはエレベーターに乗り込んだ。部屋は5階で、他に客はいなかった。


「寒いから助かった。今日みたいな日は、客もつかないからさ」


 着こんでいたベージュのコートのボタンを外しながら、彼女は上昇していくエレベーターの階数表示を見つめていた。ぼくは呆然と彼女を見つめていたけれど、彼女は一瞬たりともぼくと視線を合わせようとはしなかった。


 5階でエレベーターを降り、薄暗い廊下の突き当りにある部屋に入った。電灯を点けると、意外なほど部屋は広く、清潔だった。

 彼女は部屋の温度を上げ、コートを脱いで部屋の中央にあるダブルベッドの上に投げ捨てた。寒い寒いと呟きながらトイレに向かった彼女から目を逸らし、ぼくはホテルの窓から薄暗い路地を見下ろしていた。


「大学行ったの?」


 彼女に声を掛けられて振り返った。トイレのドアは開いていて、便器に腰を下ろした彼女の姿が見えた。


「大学。けっきょく受かったの?」


「うん」


 下着を降して便器に腰かけている彼女を呆然と見つめていたぼくは、慌てて目を逸らしてビニール張りのソファーに腰を下ろした。


「現役?」


「そう」


「すげぇじゃん。学部は?」


「商学部」


「ふ~ん、商社行きたいっていってたもんね。バッチリじゃん」


 小便が便器に当たる音が聞こえてきた。だいぶ我慢していたのか、音は激しく、いつまでも続いた。


「きみは?元気?」


 便器に座ったまま、彼女はタバコに火を点けた。


「見りゃあわかるじゃん。元気だよ」


「心配した。家まで行ったんだけど、誰も居なかった」


「へぇ~。家行ったんだ。まぁ、夜逃げだからね。そりゃあ誰もいないよ」


 トイレから戻ってくると、彼女はダブルベッドに腰を下ろして、ぼくの方に顔を向けた。


「ほんとは風呂入りたいんだけどさ、湯冷めしちゃうとこのあと外出てからきついから無理なんだ。あんたは?シャワー浴びてくる?」


「いや、いい」


「ええっ、浴びなよ。臭ぇと嫌だから。ま、慣れてるけどさ」


「いや、このままでいい。それより、何か飲む?」


「そうだね。お茶いいかな。お茶ならただだから。冷蔵庫のビールはやめときなよ。缶1本で千円取ってるからここ」


 ライティングデスクの上にある湯沸かしの電源を入れると、彼女は来ていた花柄のブラウスのボタンに手を掛けた。


「脱ぎなよ。時間ないからさ」


 彼女はブラウスを脱ぎ去り、スカートを下ろした。小ぶりな体に不釣り合いな赤い下着を身に着けていた。


「話がしたいだけなんだ。だから、服は脱がなくていい」


「話ならやりながらだってできるじゃん。なに照れてんの?童貞?」


「違うけど。でもできない。きみとはしたくない」


「言ってくれんじゃん。わたしじゃ嫌なんだ」


「そうじゃない。だからそうじゃないんだ」


「ねぇ、なんかあんた、ひょっとしてわたしに同情してる?」


 彼女の顔に薄笑うすわらいがへばりついていた。笑ってはいるが、彼女は多分ひどく腹を立てている。


「おれはただ知りたいんだ。今のきみのことを。何をしてるのかとか、どうやって暮らしてるのか」


「体売って生きてんだよ。みりゃあ判るだろ?くっさいおっさんに股開いて生きてます。これでいい?」


 言葉に詰まった。もうこれ以上、何も言うことはできなかった。


「なんかしらけたよ。ちったぁ喜ばしてやろうと思ったのに。前から思ってたけど、あんたちょっと人のことめすぎじゃない?」


 沸騰ふっとうしたお湯をカップに注いで、彼女はティーパックのお茶を作って口にした。


「なんかあんたさ、自分はもてるって思ってない?そんでそれをちょっと鼻にかけてるって感じ」


「前からそう思ってた?あの頃から」


「そうね。でもそういうとこがいいんだよね。ガキの頃はさ」


 口をつけたカップを、彼女はぼくに差し出した。カップの縁には真っ赤な口紅の跡がついていた。上掛けを剥ぐと、彼女はベッドの中に体を滑り込ませ、うっとりと目を閉じた。


「だったらちょっと寝るからさ。30分したら起こしてくれる?」


 ぼくは無言でうなづいた。彼女はベッドの中で猫のように丸くなった。

 何をしているんだろう?ぼくは自分に問いかけてみた。彼女の言うことは正しい。ぼくと彼女の間に、しなければならない話なんかひとつも無かった。3年前、ぼくと彼女を繋ぐ線は途切とぎれ、それ以来一度として繋がったことはない。そしてぼくは、今日までそれでいいと思って生きてきた。彼女がぼくを自分の人生から切り離したように、ぼくもまた彼女を切り離して生きてきたのだ。今更話し合うことなんか、あるわけがない。


 ぼくは黙って荷物を持ち、眠っている彼女を置いて部屋から出ていった。


 部屋に戻ると、彼女はまだベッドに横になっていた。上着を脱いでソファーに置くと、彼女はベッドの上で寝がえりを打ってぼくを見た。昔と変わらない鳶色とびいろの瞳が、ぼくを真っ直ぐに見つめてくる。


「なんで戻ってきたわけ?」


「コンビニでお金降ろしてきた。あと、食べる物も」


「気が利くじゃん。これからパーティでもしようってわけ?」


「お金、幾らあれば朝までいられるんだ?」


「そうね。3万かな。で、払うんだ。3万」


「出すよ。だからお風呂も入れる」


「一緒に入る?洗ったげるよ」


「おれはいい。ここで横になるから、朝まで好きに過ごしてくれ」


 生え際が黒くなった金髪の髪を掻きながら、彼女はベッドから上半身を起こした。


「ねえ、あんたがわたしに何を期待してたのか、だいたい想像はつくけどさ」


 下着姿の彼女の首筋には、黒いバラのつぼみを描いたタトゥーが入っていた。同じ絵柄で、バラの花が開いたタトゥーが左腿の内側にも入っている。


「それって、中坊がアイドルに抱く妄想みたいなもんなんだよ。高校のときにいい感じだったけど、結局一発もやらせてくれないでいなくなっちゃった女に、なんかあわい気持ち抱いちゃってるんろうけど、そんなの妄想だかんね。相手にとっちゃいい迷惑」


「そうか。そうなんだろうね、きっと。だけどおれは、今でもときどき、きみのことを思い出すんだ」


「ときどきだろ?普段は別のこと考えてんだろ?飯喰いてぇとか、あの女とやってみてぇとか。いいとこ就職しねぇと親がうるせぇとか。そんでときどき、多分賢者けんじゃタイムかなんかに、ああそういやぁ、あんな女いたな。みたいな感じで思い出すんだろ?」


 ベッドサイドのテーブルに手を伸ばして、彼女はまたタバコに火を点ける。


「お前さ、心配してたんなら徹底てっていして追っかけて来いよ。家まで来た位でなに偉そうにしてんだよ。れてたってんなら、どんなことしてでもわたしのこと捜せよ。ガキだったからとか言い訳するんじゃねぇ。あたしが辛かったときに、お前どこで何してたんだよ。金貰って初めて知らねぇおっさんに股開いたとき、お前どこで何してやがったんだよクソ野郎。心配してた?笑わせる。こっちはな、お前の心配なんかおよびもしねぇほど酷い目にあってきてんだよ」


 パンティを脱ぎ捨てると、彼女はぼくに向けて両足を広げて見せた。


「いくら持ってきたんだよ。金さえ払ってくれれば、なんでもやらせてやるし、なんでもしてやるよ。お前がさ、何年もわたしのこと捜してて、今日やっとここに辿たどり着いたっていうんなら涙のひとつくらいは流してやったかもしれない。けどそうじゃねぇんだろ?お前偶然、たまたまわたしを見かけて声かけてきたんだよな。わたしのことなんかすっかり忘れてたくせに、なに今になって白馬の王子様やってんだよ。とんだインチキ野郎だ。どんだけ偽善者ぎぜんしゃなんだよ、てめぇは」


 口調は激しいが、彼女の口元には笑みが浮かんでいた。泣きもしなければわめきもしない。人が本当に怒ると、案外そんなものなのかもしれない。


「わかったら金置いて消えなよ。ちょうどいい女なんかいくらでもいるんだろう?そういう奴とくっついてさ、幸せな家庭みたいなの作ればいいんじゃん?」


 返す言葉が無かった。彼女の言葉はひとつ残らず正しかった。彼女のことを案じているといいながら、ぼくは本当に、彼女の為に指一本動かしてはいなかった。きっと事情があるんだろうとか、大変な時期だろうから今はそっとしておこうとか、そういった適当な理由を見つけては、ぼくは彼女から距離を取った。自分の弱さや力の無さをたてにして、ぼくは面倒事から目を背けたい一心で彼女から逃げ出したのだ。


 ぼくは財布からコンビニで下ろしてきた金を抜いて、ライティングデスクの上に置いた。


 彼女は投げ捨てたパンティを履きながらライティングデスクに近づき、ぼくの置いた金から1万円札を3枚抜き取ってブラの隙間すきまに押し込んだ。


「3万貰うよ。あたしと一晩過ごしたら3万なんだ。やるやらないは関係なくね」


「全部持っていってくれないか?」


 家賃の支払いに充てるはずの金を全額下ろしてきたから、デスクの上にはあと数万円残っている。


「いらねぇよ。お前本当にわかってねぇな。ほどこしは受けねぇっていってんだよ」


 床に散らばった服を拾い上げ、彼女は手早く身に着けた。鏡に見て髪を整えると、本来彼女に似合うはずもない真っ赤な口紅を唇に塗りつけた。


「もう来るんじゃねぇぞ。次は相手しない。下にいるごつい男に殴られたくなきゃ、もうこの辺には姿見せんなよ」


 そういうと彼女は、ぼくを残してドアへ向かった。彼女との永遠の別れが近づいていた。ぼくは最後に、彼女に掛ける言葉を一生懸命探したけれど、そんな都合のいい言葉は見つからなかった。


「なぁ」


 ドアを開けようとしていた彼女の背中に、ぼくは声を掛けた。


「もし、もし宝くじで十億当たったら、なんに使う?」


 自分でも何を言ってるんだろうと思った。だけどその質問は、ぼくの意思をすり抜けて口から滑り出ていた。


 彼女はドアの前に立ち、しばらく動きを止めていた。


「そんなの決まってる」


 振り向いた彼女は笑っていた。その笑顔は、ぼくが知っている彼女の笑顔によく似ていた。


「あんたにあげる。前も言ったよね。全部、全部きみにあげるって」


 ぼくは引き寄せられるように彼女の前まで進み、その小さな体を見下ろした。


「なんで、なんでそんなこと言うんだよ」


 彼女の唇の先がわずかに上向いた。昔彼女が良く見せた、生意気そうな笑顔だった。


「わたしには必要ないからだよ。もうわたしね、終わってるんだ。だからそんな金、今更欲しくない」


「だからって、おれなんかに渡すなよ。おれにそんな資格なんかない。きみの為に何ひとつできなかったんだから。そんなふうに、おれに期待なんかしないでくれ。おれ、本当にダメな奴なんだよ。きみを捜さなくってごめん。何も知らなくてごめん。こんなに遅くなって、それなのにまた何もできなくってごめん。悪かった。本当にごめん」


 彼女の前にひざまづき、ぼくは泣いた。彼女に許してほしかった。許されるはずなどないのに、ぼくはただ情けなく彼女の前で涙を流し、喉の奥から溢れ出す謝罪の言葉だけを繰り返した。


 どれくらいの間、彼女の前で泣いていたのだろう。涙を拭い顔を上げると、今度は彼女がぼくを見下ろしていた。


「もういいよ。きみのせいじゃないことくらい解ってるから。だからもう泣かないで」


 彼女の指先がぼくの涙を拭う。彼女の手がぼくの髪に触れ、ゆっくりと髪の中を通り抜けていく。


「好きだったよ。いつだって、どんなときだってきみのことを考えてたよ。あれからのわたしは最低だったけど、それでもまだ生きていられるのは、きみのことが好きだったから。だからわたし、きみには感謝してるんだよ」


 彼女に導かれるまま、ぼくは薄暗い部屋の、飾り気のないドアの前に立ち上がった。


「だからキスして。最初で最後のキス。わたしの、わたしたちの最後の想い出になる、最高のキス」


 彼女が目を閉じると、ぼくらは唇を重ねた。柔らかく暖かい彼女の唇からは微かにタバコの香りがした。彼女の小さな顔を両手で包むと、彼女は微かに震えていた。


 ぼくらはどれくらい唇を重ねていたのだろう。おそらくは30秒にも満たない短い時間だったのだろうけど、ぼくの唇は今でも、そのときの感触を鮮明に記憶している。


「じゃあね」


 唇を離すと、彼女は微笑ほほえみながらドアノブに手を掛けた。


「本当に、今度こそもう二度と会わない。この先はもう他人だから。約束して。この次わたしを見かけても、知らないふりをしてくれるって」


 彼女のてのひらがぼくの頬に触れる。彼女の言葉に頷くことはひどく辛いことだった。だけどぼくは、ゆっくりと首を縦に振ってみせた。


「ありがとう。それとごめんね。わたしがこんな奴で。でもきみが思っているよりずっと、わたしは今幸せなんだよ。だからどうか、きみも幸せになって。今いる人と、これから出会う人たちと一緒に、こっちが恥ずかしくなるくらい幸せに生きて」


 ほんのわずかに隙間を開けて、彼女はそっとドアをすり抜けて行った。カチャリとラッチが閉まる音がした。そしてその後、二度とその扉は開かなかった。そんなふうに、彼女はぼくの人生から出て行った。


 その翌日、彼女は同じこのホテルで遺体となって発見された。


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