彼女のキスは甘く冷たい

氷川 瑠衣

第1話 記憶の残滓  

 もう何年も前の話で、ちょっと長い話になるんだけど、それでもいいかな?

 時間が無いのはわかっているけれど、やっぱりちゃんと、きちんとその辺の話はしておいたほうがいいんじゃないかって思ってね。


 ぼくは都心からそう離れっていない郊外の何もない街に生まれて、高校を卒業するまでそこで育ったんだ。駅前の商店街を抜けると、碁盤ごばんの目のように整えられた住宅街が立ち並び、その先には何を育てているのかすらわかない畑が続いている。生活するのに何ひとつ不自由はないけれど、人生の大半を過ごすにはあまりにも退屈な場所。そんな街だった。


 両親は医者だったんだ。今もあの街で開業医をしている。裕福だったのだろうけど、それはあまりぼくには関係がなかったな。両親は常識人でね、必要以上のお金は決して渡してくれなかった。駅前のファーストフード店で、友達と小一時間ヒマを潰せるくらいの小遣いこづかいしかもらってなかったから、服なんか全然持ってなくて、学校から帰ってもずっとジャージを着たままで過ごしていたな。


 頭は悪くなかった。これは控えめな表現で、学業に関していうなら、ぼくはとても優秀だった。高校は近郊でも有名な進学校で、成績はいつだって上から数えた方が早い位置をキープしていた。ちょっと嫌味かもしれないけれど、ぼくという人間を理解するうえで知っていて欲しいからあえて正直に話してるんだ。ぼくは家柄と頭が良くて、足が速く、ギターがけた。だから当然、女の子からも人気があった。


 ぼくの彼女は、同じ地域の女子高に通っていた。ぼくと同じで、勉強ができて素行のいい、だけどちょっと不思議な女の子だった。リスのように愛らしい顔をしていて、ぼくと並ぶと頭ひとつ分低かった。ぼくらは同じ大学を目指し、彼女は建築、ぼくは大手の商社で仕事をするのが夢だった。


 ぼくらの関係は、いたって健全なものだったな。彼女とぼくは、通学で利用する電車の中で知り合った。毎日、ぼくらは同じ電車の同じ車両で顔を合わせていた。彼女の持っていた英語の参考書が、ぼくの使っているものと同じだったことから話を交すようになって、やがて互いに英単語の問題を出し合うようになった。五問連続で相手が出した問題に答えられなかったら、負けた方は相手にドーナツをおごること。そんなルールを作って、互いに問題を出し合った。


 どちらかが負ければ、放課後デートができるのに、ぼくらは互いに意地を張り合い、絶対に負けようとはしなかった。彼女と向かい合わせのテーブルで仲良くドーナツを頬張ほおばる姿を、ぼくは毎晩夢に見た。それでもぼくは、絶対に彼女に負けたくはなかった。

 電車の中で会話をするようになって一カ月後、ぼくらはこの勝負を放棄した。英単語に関していえば、ぼくも彼女も五問連続で間違えることなど絶対にないということに気づいたからだ。

 だからこの勝負は中止。代わりにぼくは、放課後に駅前のドーナツショップで一緒にコーヒーを飲まないかと彼女に切り出してみた。気まずそうな表情で、彼女はふたつの条件を飲んでくれれば行っても構わないと答えた。

 ひとつは、互いの学校から離れた駅にある店に変えること。知り合いに会うのが恥ずかしいからだそうだ。もうひとつは、ぼくがコーヒーを奢る代わりに、彼女はぼくにドーナツを奢るとう条件だった。お小遣いが少ないから、百円のものをひとつだけだと彼女は言った。せめて百五十円までにしてくれと頼むと、彼女は少し考えたあと、税込みで百五十円までならいいよといって笑った。


 初めて一緒にコーヒーを飲んだとき、ぼくらの会話はぎこちなくて、彼女はスマホの画面を眺めて、このあと塾に行かなければならないから、あと15分位しかここにいられないと教えてくれた。

 会話ははずまず、しばらくすると彼女はまたスマホを取り出し、あと9分しかいられないとぼくに告げた。

 まるでシンデレラだねとぼくが皮肉ひにくると、彼女は目を丸くしたあと、わたしはカウントダウン機能付きのシンデレラなのよといって笑ってくれた。

 決して楽しいとはいえない時間を共有したあと、ぼくは塾に行くという彼女を駅まで送った。駅のホームで、電車を待つ彼女に楽しかったと伝えると、彼女は不機嫌そうな顔で嘘つきとつぶやいた。


「楽しいわけないよ。頼んだカフェオレは冷めてたし、緊張しててドーナツの味なんかちっともわからなかった。話なんか全然しなかったし、わたしはスマホばっかり見てたでしょ?どこに楽しい要素があったっていうの?」


「きみがまじめで、時間にうるさくて、なんでも正直に話してくれることがわかって、デートに不慣ふなれで、自分をリードしてくれないぼくに対して腹を立ててることがわかった。すっげぇ収穫だと思ってるんだけど、ダメかな?」


 顔を上げてぼくを見つめたあと、彼女は顔を真っ赤に染めてうつむいた。


「不慣れだなんて決めつけないでよ。デートだってしたことあるんだから。中学のときにね、一緒に図書館に行ったよ」


 図書館なんか行ったってデートじゃないだろうと突っ込みたいのを我慢して、ぼくは大袈裟おおげさに頷いてみせた。


「そうなんだ。なんかごめんね。もうちょっと話題とか考えてくればよかったよ」


「そう。話題は重要。この次までに何か考えておいて」


 そういうと彼女は、到着した電車に乗り込んでしまった。互いの情報も交換していなかったから、ぼくはあわてた。


「この次って?」


「この次っていったらこの次」


 そう言うと彼女は、その日初めて心の底から楽しそうに笑った。

 ドアが閉まり電車が動きだすと、彼女はぼくに手を振ってくれた。ぼくも手を振り返し、電車がホームから見えなくなるまでその場に佇んでいた。


 彼女との初デートは退屈だった。こんな退屈な時間を何週間も夢に見ていたなんてどうかしてる。そんなふうに思ったのを覚えてる。

 だけど帰り道、ぼくは彼女のことばかり考えていた。彼女がぼくに見せてくれた表情、かけてくれた言葉、居心地いごこち悪そうに冷めたカフェオレを飲む姿。その全てが、ぼくの頭の中を埋め尽くしていた。気づくのに時間はかかったけど、要するにぼくは彼女に恋をしていた。


 次の日の朝、彼女はいつもの電車に乗っていなかった。次の日もその次の日も、彼女は姿を見せなかった。ぼくの何が気に入らなかったのだろう。自分が彼女にしたこと、しなかったこと。話した内容をいちいち思い返してみては、そのたびに自己嫌悪におちいった。


 四日目の朝、彼女は現れた。いつもと同じように、唐突にさりげなく、当たり前のように現れた。心臓が飛び出しそうになるほど強く鼓動こどうしているのに、ぼくは何も無かったようなふりをして彼女の前に立って、おはようと声を掛けた。


 しばらく見なかったけれど、元気だった?と尋ねると、元気じゃないと返答された。息もできないほど混み合った満員電車の中、強く抱きしめ合うように体を密着させながら、彼女はぼくを見上げて口をとがらせた。


「で、話題は見つけてくれた?」


 正直にいって何も考えていなかった。自分の想いを素直に口にできたなら。ぼくはずっとそんなことばかり考えていて、肝心かんじんの彼女からの宿題をすっかり忘れていた。


「その様子じゃ考えてないみたい」


「いや、考えたよ。共通の知り合いとかいるのかなって。おれ、結構顔見知り多いから」


「それが話題?それってさ、高校入ってすぐに隣の席の子とするような話じゃない?」


「定番が悪いとは思わないけどな。仲良くなるっていうのは、共通の情報を増やしていくことだって思うし」


「共通の情報が多いと何がいいわけ?」


「話せる内容が増える。昨日のテレビ見た?見た見た。みたいな」


「テレビの話がしたいわけ?混み合った電車の中や、冷めたコーヒーを飲みながら」


 ぼくは言葉に詰まった。英単語の問題を出し合っていた頃から気づいていたけど、彼女はすごく負けず嫌いだった。


「わたしは考えてきたよ。一生懸命、三日三晩寝ずに考えてきた。全然寝なかったっていうのは嘘だけど、少なくとも起きて何もすることがないときは、ずっと考えてた」


 乗り換えの駅に電車が停車した。電車から降りると、ぼくらはホームのベンチに腰を下ろした。


「で、どんな話題なの?」


「昔ね、叔父さんが教えてくれた話題。これを聞けば、その人の基本的な考えが理解できるから、まず最初にいておけって」


すごそうだね。そんな魔法みたいな話があるのかな」


「聞きたい?」


 ぼくは黙ってうなづいた。彼女の通う高校より、ぼくの学校は電車で15分ほど遠い。彼女の話が長引けば遅刻は確定してしまうが、構うことはなかった。


「宝くじで十億円当たったら、何がしたい?」


「えっ?」


「だから、十億持ってたらどうするって訊いてるの。税金とか両親の承諾しょうだくとか、そんなのは考えないで、単純に十億円。好きに使えっていわれたら、どうする?」


「親に相談するかな」


「しなくていいの。親は死んじゃってる。そうじゃなきゃ、どこか遠い外国で幸せに暮らしてる。だから好きに使えるの」


「そうだなぁ」


 今の生活に不満があるわけじゃないから、ぼくはこの質問に答えあぐねた。欲しいものもやりたいこともあったけれど、それはどれも単純にお金があれば解決するという類のものじゃなかった。例えば、今目の前にいる小柄な女の子を、どうしたらもう一度デートに誘えるかなんて問題は、十億あっても解決しそうにない。


「ホール借りるかな。でかいホール借りて、世界中の有名なギタリスト集めて、最高の音響設備整えて一晩限りのコンサートを開く。ああでも、それ十億じゃ足りないかもしれない」


「そうなんだ」


 彼女がぼくを見る目が変わった。何かに興味を持つと、彼女の瞳は大きくなって、誰の目にもわかるくらいにキラキラと輝きだす。

 ぼくの答えは、なんとか及第点きゅうだいてんを取ったようだ。


「いいな、それ。合格だよ。絶対もっとつまらないこと言うと思ってた。全部貯金するとか、親の住宅ローンを肩代わりして楽させてあげるとか」


「それって悪いことじゃないと思うけどな。堅実けんじつだし、いい使い方だよ」


「だからつまらないんだよ。どうせ当たりっこない仮定の話なんだから、想像をふくらませて、バーンと派手に使うくらいじゃないとね」


 彼女の横顔を見つめながら、ぼくは在りもしない十億円の使い道について想像を膨らませてみる。


「きみならどうする?十億円、なんに使う?」


 小首をかしげ、彼女はしばらくの間考えこんでいた。こんな質問をするのだから、てっきり彼女は自分なりの使い道を持っているとばかり思っていた。


「う~ん。そうだなぁ。全部ね、全部きみにあげる」


 その答えはぼくの想像の埒外らちがいだった。


「えっ、全部くれるの?もったいなくない?」


「平気。もったいなくない」


「それは、うれしいけれど。いいのかな」


「いいに決まってる。全部きみに上げて、それをきみがどう使うか見てるの。ああ、こんな風に使うんだなぁとか、それはちょっと無駄じゃないとか。でもきっと、きみはわたしが納得する使い方をしてくれる。そう信じてる」


 ぼくは彼女の申し出にとまどっていた。それからすぐに、彼女にからかわれていることに気がついた。


「ずるいな。どうせ当たらないからって、適当てきとうにいってるよな」


 ベンチに座ったまま、彼女は足をばたつかせて嬉しそうに笑った。ぼくの反応がよほど気に入ったのだろう。


「ほんと、本当にあげるから。ぜったい。約束する」


「絶対だな。絶対にもらうからな。それでその金、全部貯金してやるからな」


 きゃーきゃーとお腹を抱えて笑う彼女の姿を見ているうちに、ぼくも笑いの発作ほっさ見舞みまわれた。ホームで笑いあうぼくたちを、通り過ぎていく乗客が不思議そうな顔でながめていた。


 その日からぼくらの距離は、急速にちぢまっていった。

 ぼくらは学校の帰り、ドーナツショップで一緒にコーヒーを飲んだり、公園を散歩したりして過ごすようになった。それは月曜から金曜までの放課後、彼女が塾へ行くまでのたった30分ほどに過ぎなかったけど、ぼくにとっては夢のようなひとときだった。


 彼女は頭の回転が良く、ユーモアがあって、ときに辛辣しんらつだった。ほんの些細ささいなことですぐに怒り出すけれど、数分もすると今度は子供のように笑いだす。彼女の薄茶色の瞳は、いつだって好奇心に満ちていて、くるくるとよく動いては、今までぼくが気づかなかったことや、見逃していた風景を見つけ出して教えてくれた。


 ぼくらは高校2年の初夏に出会い、秋を共に過ごし、冬を迎えた。17歳の恋の大半がそうあるように、世界はぼくら二人を中心に回っていて、さえぎるものなんかひとつもないと信じて疑わなかった。ぼくらには大学入試という共通の目的があったけれど、それは二人の関係にほんの僅かな影を差すこともなかった。ぼくらは理想的な友人でありライバルで、その関係は確実に恋人へと移行しつつあった。


 12月になり、彼女との連絡が取れなくなった。年明けに行われる全国共通模試の申し込みに一緒に行こうと約束していたのに、その日、彼女は姿を見せなかった。


 スマホで連絡を取ろうとしたけれど、何度着信をいれても彼女は応答せず、やがて電源が入っていないというメッセージだけが繰り返し流れるようになった。

 通学に利用していた電車にも乗らず、駅にすら姿を見せなかった。待ち合わせに使っていたドーナツショップでいくら待ってみても、彼女が姿を現すことはもう二度となかった。

 

 ぼくは混乱し、困惑し、なぜこうなったのかを考えてみた。いくら考えても、ぼくに思い当たる節は無かった。最後にあったとき、彼女はぼくに渡すクリスマスプレゼントの話をしてくれた。お互い2千円を限度に、なんのヒントもなしにプレゼントを選ぶんだよといって、彼女は嬉しそうに笑っていた。その思い出を最後に、彼女はぼくの前から姿を消してしまった。


 友達の伝手つてを頼って、彼女の同級生から情報を手に入れることができた。それによると、彼女は12月に入ってから一度も登校していなかった。無遅刻無欠席だった彼女が不意に登校しなくなれば、当然周囲も疑念を抱く。だけど彼女の担任は、家庭の事情で休んでいるとだけ伝え、それ以上は何も話さなかったらしい。

 

 冬休みに入った最初の日、ぼくは意を決して彼女の自宅を訪ねた。彼女の家は、ぼくの住む街からそれ程離れていない大きな街の駅前に建つマンションの七階にあった。行ってはみたけれど、エントランスはオートロックで、中に入ることはできなかった。ぼくは小一時間ほどエントランス前をうろつき、住人らしい小学生が自動ドアを開けた際にエントランスに侵入した。


 エレベーターで七階に向かったが、同じような玄関が十数件も並んでいて、どれが彼女の住む部屋なのかを知る方法は無かった。その頃になってようやく、誰かに見咎みとがめられ警察を呼ばれたらどうしようという恐怖が沸いてきた。冷静になって考えてみれば、ぼくがやっていることは、彼女に対するストーカー行為以外の何物でもない。どんな理由があれ、ぼくに連絡を取ってこないということは、彼女にとってぼくはもう必要のない人間なのだということに、今更ながら気がついた。


 エレベーターで1階のエントランスに戻り外へ出ようとしたとき、エントランスの郵便受けを見て違和感いわかんを抱いた。郵便があふれ、入りきらない封筒が何通か床に落ちているボックスを見つけ、近づいて床に落ちている封筒を拾い上げてみた。宛名に彼女の苗字と、父親であろう男の名前が記載されていた。


 郵便の大半は督促状とくそくじょうだった。何十枚とある封筒のほとんどに、至急開封とか重要書類在中という文字が印刷されていた。派手な赤色の封筒の大半には、宛名書きより大きな文字で警告と記されていた。それらが何を意味するのかは、十代のぼくにも十分に理解できた。郵便受けと同じ番号の部屋の前まで行って部屋の様子を伺ってみたけど、中に人がいる気配は感じられなかった。

 

 夜逃げという言葉は知っていたが、それが現実に行われることがあるなどと、ぼくはただの一度だって考えたこともなかった。だがそれは存在し、確実に実行されたいた。相手の注意を引くために派手にいろどられた封筒に刻印された、督促や警告の文字。不意に連絡が取れなくなるスマートフォン。十年近く無遅刻無欠席をつらぬいてきたのに、ある日突然、学校に来なくなる十七歳の少女。それら全てが、この世界のルールから逸脱いつだつしてしまった者とその家族に対する容赦のないペナルティの証だった。


 彼女とその家族は、おそらくもうこのマンションに住んではいない。彼女の家庭は、なんらかの理由で経済的に破綻はたんしていた。ぼくの前から姿を消すまで、彼女にそんな素振りは微塵みじんも感じられなかったから、それは唐突とうとつにこの家庭を襲い、一瞬にして壊滅的かいめつてきな被害をこの家族にもたらしたのだろう。  


 ぼくは自宅に戻り、自分の部屋でスマホの画面を眺めながら何時間も過ごした。幾ら待ったところで彼女からの連絡は来ない。すでに彼女のスマホは解約されているようで、電話もメールも繋がることはなかった。


 せめて一言でいいから、ぼくに伝えて欲しかった。何でもいい。たった一言でいいから、こうなる前に、ぼくに話してくれていれば・・・・・。

 ぼくは何度もそう考え、その度にその考えを打ち消した。多分彼女は、最良の選択をしたのだ。家族の苦境を、自分の現在と未来が足元からくずれていくのを、赤の他人でしかないぼくに相談なんかできるわけがない。ぼくはただの高校生で、彼女と分け合って食べたドーナツのひとつだって自分の金で買ったことはない。例え相談してくれたとしても、住む家を手放さなければならないほどの問題を抱えた彼女に対して、ぼくがどんな言葉を返せるのだろう?答えはおそらくひとつだけで、それは彼女も十分知っていたはずだ。だからこそ彼女は、何も告げずにぼくの前から姿を消した。 


 次の日から、ぼくは彼女のいない生活を始めた。

 ぼくは彼女に恋をしていた。恋をしていると思い込んでいた。17年という歳月の中の数カ月。その数カ月の中の、ほんのわずかな時間を共有しただけなのに、ぼくは彼女こそが、ぼくの運命の人だと信じて疑わなかった。だけどそれは、この世界の仕組みを何ひとつとして理解していない子供の幻想に過ぎなかった。


 ぼくは大きく息をき、いつもより歩幅を大きく取って歩き出した。彼女が消えた世界に適応てきおうするのは、すごく難しいことだった。

 だけど一度、いつもと変わりない日常に足を踏み出してみると、驚くほど早くぼくの生活は以前のリズムをとりもどしていった。

 数カ月もすると、ぼくは彼女のことを幻のように思い始めていた。毎日乗る電車の中や、待ち合わせに使っていたドーナツショップの前を通るとき、反射的に彼女の姿を捜してしまうことはあったけれど、それでも彼女の記憶は曖昧あいまいなものになり、胸をさいな激烈げきれつな痛みは和らぎ、時間の経過と共に消えつつあった。


 ぼくは模試で上位の成績を収め、ギターの腕も格段に上がっていた。友達と笑い合うこともできるようになったし、通い始めた学習塾で知り合った女の子と夜中まで電話で世間話をしたりできるようになった。


 そうしてぼくは、凍えるように寒い高校2年の冬を乗り切り、3年に進級した。高校生としての最後の一年は、ただひたすら机に向かって問題を解いていた記憶しかない。ただ、英単語だけはほとんど覚える必要が無かった。彼女と問題を出し合ったあの数カ月のおかげで、受験に必要な単語は全て完璧に覚えてしまっていたからだ。


 月日は容赦ようしゃなく記憶を奪い去り、一生忘れることはないと信じていた彼女の姿は、深い霧の中にいるように曖昧になっていった。信じられないことに、ぼくは彼女のき腕を覚えていなかった。左利きならきっと印象に残っていたはずだから、多分彼女は右利きだったはずだ。だけどそれを確かめる術は、おそらく永遠に失われてしまった。それにぼくは、本当にそんなことが知りたかったのだろうか?それはもう過去の話で、何の意味もない記憶の残滓ざんしでしかない。



 ぼくが彼女と再会したのは、彼女がぼくの前から消えて3年ほど経過した、冬の夜だった。

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