金魚屋
あべせい
金魚屋
「おやじ、ずいぶん久しぶりだな」
「すいません。長い間勝手をいたしまして」
「まァ、いいや。いつもの、入れてくれや」
「かしこまりました。お待ちください」
東京の外れ、隣県まで車で3分という小さな街の街道筋にある雑貨屋だ。雑貨といっても、陶磁器が主で、店先では金魚が泳ぐ水槽が幅をきかせている。
金魚と陶磁器は不釣り合いに思われるが、この店主、仕事にはあまり熱が入っていない。52才。どこにでもいる、地味な風貌だ。
20年以上昔は、近くに中小の工場があり、その従業員たちの行き来で通りは賑わっていた。しかし、その後、工場が移転し、跡地に、大型ショッピングモールができてからは、売上げがめっきり落ちた。
いまは近隣の住人や通りすがりのドライバーを相手に、細々と商いを続けている。
「ごめんください」
男性客が帰ってから、すぐだった。
見かけない女性が、店頭に立って、店先の金魚を眺めている。
水槽は全部で8基。しかし、水槽で泳いでいるのは、和金と琉金が中心で、あとは黒い出目金がほんの少しいるだけ。
「目の玉がふくらんでいる赤い金魚はありませんか?」
「水泡眼ですね。あいにく、売り切れて。ごめんなさい」
売り切れではない。元々仕入れていないのだ。この辺りの住人には人気がないのか。一度入れたことがあるが、20数匹全てを死なせてしまった。
「もしご希望でしたら、明日問屋に行く日ですので、ご用意できますが……」
これもウソだ。問屋には昨日行ってきたばかり。ほぼ10日に一度問屋に行くが、目的は仕入れよりも店員のミィちゃんの顔を見ることだ。
「そう……」
女性は、30代半ば。困った表情をした。
「水泡眼がお好きですか?」
「姪が飼っている金魚が死んでしまって。寂しそうにしているので、プレゼントしてあげたくて……」
「それでしたら、お安くさせていただきます」
康二は珍しく商売気を出した。といっても、この男の場合、客の女性に惚れたのだ。
視線をそらせたときの憂いを秘めた表情、形のいいバストライン……。康二の好みだった。
「お近くですか?」
女性が返事をしぶっているので、康二はたたみかけるように尋ねた。
「いいえ、仕事で近くまで来て、目に留まったものですから」
「この辺りで金魚を扱っている店はここだけです。お決めいただければ、お届けでも、発送でも承ります」
周辺で金魚を扱っている店はショッピングモール内にもある。それに、車を使えば5分で3ヵ所のホームセンターに行ける。そのどこでも、もっと多くの種類の金魚を展示即売している。
康二は、相手がよそ者と知り、言いたい放題を決め込んだ。
「では、その水泡眼というのをいただきます」
「ありがとうございます。ご予算は? 何匹にしますか? 水草はサービスさせていただきます」
女性は、小さいのを3匹と注文した。
「ご住所とお電話番号、お名前をお願いします」
女性の名前は「北原浩江」。康二は、好みの美女と接触出来たことを何よりも喜んだ。
金魚の問屋「江戸金」は、江戸川にある。この商売を始めてからだから、ほぼ10年、月に2、3度通っている。
陶磁器の商いは、康二の父が始めた。康二は最初会社勤めをしていたが、同僚とのつきあいが下手なのだろう、どこの職場も2、3年で辞め、5社を転々とした。
5社目で妻と出会い、結婚、その会社では5年勤続と最も長続きした。しかし、父が亡くなり、葬儀の手配などで会社を2週間休むと、会社に出るのが億劫になり、それまで父を手伝っていた妻と一緒に店番をするようになった。
陶磁器屋はリスクが少ない。商品はすべて買い取りだが、地震などで壊れない限り、廃棄しないですむ。売れるまで待っていればいい。第一、康二は商売に熱心ではない。
父が、家の100坪の敷地に5階建てのマンションを建ててくれたおかげで、その家賃収入で生活できた。マンションの1階が、店と康二の自宅になっている。
父も商売には消極的だった。マンションを建てたときのローンは残っているが、頭金を8割入れたおかげで、毎月4万円足らずの支払いですんでいる。家賃収入でローンを払っても、その残りで生活するには十分すぎる。
半年前、妻が亡くなった。すると、さらに商売に身が入らなくなった。親戚や近所から再婚を勧められ、見合いもしたが、康二の心を動かす女性は現れなかった。
康二の妻は出来た女性だった。よくぞ康二の家に嫁いできたと思われるほど。掃きだめに鶴、といえる存在だった。
康二に女性を見る眼があったわけではない。天の配剤としか考えられない。
妻が亡くなってからは、何をする気にもなれず、ぼんやりすごした。
働かなくてもマンションの家賃収入がある。
自宅の居間から店先と表通りが覗けるため、昼間はテレビをつけ、出前してもらったものを食べた。休業することも考えたが、近所からあれこれ取りざたされるのを嫌った。
再婚を考えないわけではない。妻も病床から、再婚して、と言った。しかし、これまで、心を動かされる女性が現れなかった。
商売をしているといろいろな女性が訪れる。康二好みの女性の場合もある。しかし、彼はつい亡妻と比較する。妻はそうしなかった。妻なら、きっとこうする、と。
康二は、北原浩江のマンションがある隣町に向け軽自動車を運転しながら、水泡眼を注文した彼女について考える。
どうして妻と比較しないのか。
浩江は、30代の頃の妻に似ている。似ているどころの話ではない。生き写し、そっくりだ。康二は、そう思っている。思い込んでいるだけかも知れないが。
しかし、このウキウキした気分は何年ぶりか。弾む心は、ウソ、偽りではない。妻も理解してくれるだろう。
北原浩江の住まいがある街の表示が見える。その交差点を通り越したときだった。
メールだ。彼女の携帯を知りたくて、康二は自分の携帯番号を教えていた。それに後悔はないのだが……。どうして、電話にしないのか。康二はふと、疑問に思った。
「ごめんなさい。急な用事で、いま家具屋さんにいます。住所を記しますから、こちらにお願いします」
康二の知っている大型家具店だが、彼女の街とは逆方向だ。彼女の住まいが見たかったのに、と愚痴が出る。
車をUターンさせ、国道に出る。
助手席には、水泡眼3匹を閉じ込め、酸素を封入して膨らませたポリ袋が、段ボール箱に入れて置いてある。5時間は十分にもつ。それともうひとつ……。
また、メールだ。
「ごめんなさい。何度も。いま家具屋さんから、隣の家電量販店に移動しました。よろしくお願いします」
康二は、妙な気分に陥った。
金魚を出先で受け取る必要はない。こちらが出直せばいいことだ。迷惑だが、なぜ、そうしないのか。
康二は、昨晩、メールで教えられた彼女の住所の近辺をネットで調べてみた。
彼女のマンションは、大型ホームセンターのすぐ近くだ。康二も行ったことがあり、金魚も扱っている。康二の小さな店で買う必要はない。
通りすがりに目に入ったといっても、わざわざ車で20分以上離れている街で金魚を買うだろうか。家に戻って、近くの店で買えばいい……。
いろいろと疑問が湧く。
康二は、思い切った行動に出た。
「急な仕事があって、そちらにうかがえません。お許し下さい。津軽康二」
と、浩江にメールした。
店に戻ると、水泡眼は、店の水槽とは別に、彼女にプレゼントするつもりだった水鉢に容れた。
北原浩江から返信はない。
その後、1週間がたったが、何の音沙汰もない。商売人なのだから、こちらから、ご機嫌伺いしてもよいが、その気になれない。
康二の生活リズムは、彼女が現れる以前に戻った。
3匹の水泡眼は、直径30センチほどの水鉢のなかをゆらゆらと泳いでいる。水鉢は、ガラス戸を挟んで店先が見える、6畳の板の間に置いてある。
椅子に腰かけ、テレビを見ているときも、1メートル先に水鉢の中が見える。
その日。
江戸川の金魚問屋「江戸金」に出かけた。
目的は、仕入れよりも、店員のミィちゃんの顔を見ることだった。
「康二さん、久しぶりよね。元気?」
ミィちゃんはバツイチだと聞いている。結婚わずか半年で別れた、とか。
彼女は「江戸金」社長の遠縁らしく、何かと勝手がきくのだろう、数年おきに入退社を繰り返しているらしい。
康二が、前の問屋から鞍替えして、2度目に行ったとき、彼女は入社して3日目だった。その割には、手慣れた仕事ぶりだったので、不思議に感じていたのだが。
「元気だけど。ミィちゃん、やめないでよ。やめるときは、言って。おれもこの店、見限るからね」
「康二さん、それ、好意と受け取っていいの?」
「だれもいないから言うけれど、おれ、これでも独身。愛妻を亡くしたロストシングルだよ」
「ロストシングルは知っているけれど、康二さんは、奥さん以外の女性は考えられない、っていつも言っているじゃない……」
「ミィちゃんとは、年の差がありすぎるから、相手にしてもらえない。そう考えてきたけれど、女房の次に大切なひとだよ」
康二は、腰の高さの巨大水槽を前に、ミィちゃんこと、未菜(みな)の目を強く見つめた。
「康二さん、いくつ?」
「もうすぐ、大台……」
大台とはずるい言い方だ。50の大台と受け取ってもらいたくてだが、実際は60の大台と受け取られかねない。
「そォ、もうすぐ40才なの……」
いくらなんでも、39才には見えない。未菜もどうかしている。しかし、康二は否定せず、
「ミィちゃんと10才は離れているよね」
「わたしも、いい歳よ」
「28くらいかな。でも、そんなこと、どうでもいい」
康二は未菜が、34才であることを確かめている。
康二が周りからは見えないように、体の脇にある未菜の手をそっと握りかけた。
「やめて……」
未菜は、声を低くして、大型水槽の前を離れた。
数分後。
康二は、たも網を使って金魚の仕分けをしている男性社員に近寄り、琉金、小金を各30匹と、カモンバ、アナカリス20束づつを注文した。
すると、
「津軽屋さん、ちょっとご相談があるのですが、お時間、ありますか?」
「あァ」
康二は、ふだん取引上の話しかしない、彼の「相談」に違和感を覚えたが、急ぐ用事もない、危険な相手でもないと考え承知した。
彼は、小織新司(こおりしんじ)。胸につけている名札だから、どこまでが本当かはわからない。
同僚の間では、「シンちゃん」で通っている新司の話は、共同経営の誘いだった。
新司は、「江戸金」に入社して7年。年齢は34才。仕事ぶりはまじめと聞いている。
「一応、江戸金の支店ということで立ち上げますが、ゆくゆくは改名します」
江戸金の向かいにあるファミレス店内。
康二は、遅い昼食、新司は30分の休憩があり、コーヒーを注文した。
新司の話は具体的だった。葛西に土地を借りる交渉が進んでいて、仕入れは江戸金のルートを使う。江戸金の社長も了承済み。江戸金が3割を出資してくれる。
しかし、康二の考えは決まっている。
「共同経営って話は、私には無理な相談だよ」
新司は予想していたのか、落胆しなかった。
「そうですか。残念だなァ。津軽屋さんとなら、いい仕事ができると思ったのに」
「こんな男より、もっといい人がいるでしょ……」
康二はそう言ってから、新司に誘われた理由を考えた。
新司にこれまで投資の話など、したことはない。金や資産についても、彼に打ち明けたことがない。
どんな情報をもとに、新司は声を掛けようと思ったのか。
考えられるのは、未菜だ。康二が江戸金で最も親しく口をきくのは、彼女だからだ。
と、
「ナニ、話しているの?」
未菜が現れ、康二の隣に腰かけた。
「ミィちゃん、仕事は?」
新司が尋ねる。
「わたし、きょうは早番。これから、デートだもの」
康二は、未菜の「デート」にショックを受けた。
未菜は、それに気づいたのか、チラッと康二を見て、
「わたしだって、デートくらいするわ。康二さん、わたしがモテないと思っているンでしょ」
「そんなこと……」
康二は懸命に否定するが、ことばにならない。
季節は初夏。未菜の半袖Tシャツから抜き出た二の腕が、康二の鼻孔をくすぐる。二人の間は、30センチと離れていない。
香水をつけている風でもないのに、香り立つのだ。仕事中は、ブルーの長袖ジャケットを着ているため、露出は少ない。未菜の肌は白く、やわらかく、むしゃぶりつきたくなる。
「津軽屋さん、どうかされましたか。顔色が悪い」
新司が、俯いている康二の顔を心配そうに覗き見る。
「いや、なんでもないよ」
「シンちゃん、いったい2人で何を話していたの?」
「津軽屋さんが、ミィちゃんと一度2人きりで話がしたい、っていうから相談にのっていた……」
「エッ」
康二は驚いて新司を見た。新司は心得た風に、目配せで応える。
「そうなの? 康二さん」
未菜はそう言って、ほんのわずか、数センチだが、康二のほうに体を寄せる。
「そ、それは……」
否定したくない。したくないが、事実ではない。新司は、康二の心中の図星を突いた。どうして、そんな芸当ができるのか。康二は、わからなくなった。
新司は、江戸金での康二の一挙手一投足を、逃さず観察しているのか。
「ミィちゃん、ダメだよ。津軽屋さんは堅いンだから、からかっちゃ……」
「そうよね」
「ミィちゃんは年上の男性は平気なのか?」
「わたし、早く父を亡くしたから。男性は還暦まで、ストライクゾーンよ」
ヘーエ。康二は、心の中で小躍りした。
「年の差、20くらいはいいってわけか」
新司は、何やら考える風で窓の外を見た。
「なら、津軽屋さんの肘鉄を食ったら、言って。いろいろ紹介できるから」
新司は半年前に結婚したばかりの新婚だ。
私がそんな失礼なことをするわけがない。康二はそうつぶやいたが、声にできなかった。
火曜の午後。
毎週火曜は「津軽屋」の定休日になっている。
ふだん康二は、仕入れと日常の買い物に当てているが、この日は違った。
北原浩江と遊園地で会うことになった。
デートと言えるのか。江戸金に行ってから10日余り。浩江の注文で水泡眼を届けに車を走らせてから、20日以上たっている。
浩江から、メールが来た。
「いろいろお詫びもあり、お会いしたいです」
謝られる理由はない。しかし、美女からの誘いを断るほど、康二は無粋ではない。第一、浩江は妻に酷似している、特別な女性だ。
20日も我慢していたと言える。
もっと早く会いたかった。しかし、康二には守るべきものがある。
妻との信頼、預貯金、自宅兼店舗がある賃貸マンション等の不動産……。恋をすれば、それらが危うくなる。康二はかつて、妻と恋した当時、親から譲り受けた資産を投げ捨ててもいいと思った。
幸い、妻は出来た女性だったが、北原浩江はわからない。深入りして、引き返せなくなったときの覚悟はまだ出来ていない。
康二は、用心して遊園地に出かけた。
都心にある小さな遊園地だが、狭い敷地にジェットコースターなどひととおりの遊具を備えている。
約束の時刻は午後2時。しかし、場所は決めていない。
通りすがりに見た記憶があり、さして広くないから中に入ればわかるだろう。康二はそう考えて、納得した。
ところが。それがいけなかった。
小さい、狭いといっても、テニスコート3面分はある。土曜日だから、親子連れが多く、繁華街の雑踏と変わりなく、人でごった返している。
それでも、康二は入り口から丁寧に左右を見て歩いた。
時計の針は、2時ちょうどを過ぎた。
彼女は来ているだろう。どこかで待っている。
「アレッ、康二さん、なにしているの?」
未菜だ。
康二は未菜のことばをそのまま返したい気持ちだ。
「わかった。デートをすっぽかされたンでしょ。決まりッ」
そうかも。
「ミィちゃんは?」
「わたしもおんなじ。男を見る眼がないから」
康二は誘われるまま、回転木馬に乗った。こどもの頃、乗ったことがあるが、上下しながら、ただ回るだけの木馬に興味はなかった。
ところが……。
康二は未菜のすぐ後ろの赤い木馬に乗ったのだが、未菜の前の黄色い木馬に乗っている女性が、北原浩江に似ていることに気が付いた。
後ろ姿だが、店にやってきた北原浩江にそっくりだ。しかし、次の瞬間、康二は、北原浩江には一度しか会っていないこと、彼女の後ろ姿はよく見ていないことに気が付いた。
未菜の前の女性は、北原浩江に似ているのではない。亡くなった妻に似ているのだ。妻なら、後ろ姿も全身くまなく、知っている。
「ミィちゃん、その前の女性と知り合いなの?」
康二は未菜にそう尋ねた。しかし、聞こえないのか、未菜は前を向いたまま、振り向こうともしない。いや、木馬が回転する機械音などで騒々しい。聞こえなくて当たり前だ。康二は声を張り上げて、同じことを言った。
しかし、未菜は全く気づかない。康二は、彼女の肩に手を触れようと、手を伸ばした。すると、同時に未菜も前に手を伸ばし、前の木馬に乗っている女性の背中に触れた。
アッ。
振り返った女性は、未菜に微笑んだあと、未菜の後ろにいる康二に気がつき、目配せした。北原浩江だ。
しかし、康二には目配せの意味がわからない。デートの約束だ。回転木馬で落ち合うことが、約束だったというのだろうか。
康二は浩江からのメールを思い出す。
「いろいろお詫びもあり、お会いしたいです。土曜日、午後二時。××遊園地。わたしの大好きなところで……」
回転木馬が浩江の大好きなところらしい。しかし、ここは、未菜が誘ったのだ。ということは……。
未菜と浩江は、つながっている。未菜は浩江に誘われてやってきた。2人はどういうつながりなのか。
康二は、浩江と未菜を比べてみた。二人の年齢はほぼ同じ。身長は未菜が10センチほど高い。
まもなく回転木馬が停止したため、康二は浩江と未菜の動きを見ながら、木馬を降りた。
未菜が浩江を促している。康二は、2人に従う考えしかない。
3人は、未菜が示す丸テーブルの椅子を腰かけた。そこは、園内で唯一の喫茶室で、デッキにテラス風のスペースがあり、テーブルが5卓並んでいる。
「浩江さん、隠していないで、全部話したほうがいいわ」
注文した飲み物がテーブルに揃ったところで、未菜が口を開いた。
「浩江さん、どういうことですか」
「わたしは少し前まで江戸金に勤めていました」
「エッ、」
康二は、江戸金で浩江をみたことがなかった。
「事務仕事で事務所から出ることはほとんどありません。でも、康二さんのお姿はときどき、お見かけしていました」
浩江は、淡々と話す。康二が亡妻に酷似していると感じたような、つやっぽい印象はない。
「あるときまで、津軽屋さんを特別に意識したことはなかったのですが、注文の金魚の種類が急に少なくなって、気になりました。それまでは、高価なランチュウをはじめ朱文金、コメットなど7、8種を均等に発注なさっていたのに、琉金と和金だけになって……」
半年前、妻が亡くなってからだ。康二は、妻が好きだった琉金を中心にした。本当は商売をやめようとも思ったが、妻が特にかわいがっていた琉金がいた。それが妻の死の翌日、水面に浮かんでいた。
「ミィちゃんに聞くと、奥さんが亡くなられたみたい、というので……」
未菜がことばをはさむ。
「康二さんから直接聞いたわけではなかったけれど、シンちゃんが言っていた」
元気がない、と新司から尋ねられ、康二は正直に答えたような記憶があった。
「わたしは離婚した直後だったから、余計に康二さんのことが気になって、津軽屋さんの店の前まで行きました。2度、3度……」
と、浩江。
康二にそうした記憶はない。お客は一日数えるほどしかないから、店の表が見える居間のガラス戸は閉め切っていて、外に注意を払うことも滅多にない。
浩江が続ける。
「でも、訪ねる勇気がなくて。結局、水泡眼をお願いするまで、2ヵ月かかりました」
そんな風には見えなかった。康二は、あのときの浩江のようすを思い浮かべる。
寂しそうだったが、元気がないだけで、不幸せには見えなかった。
「それで配達をお願いしました。でも、直前になって、自宅を知られるのが怖くなって、近くのお店まで来てくださいとお願いしました」
それでも、配達先は再度変更された。康二は、それで断念した。「出直します」とメールして。
「わたし、しばらく悔やんでいました。何も恐れる理由はないのに。失うものはないのに……」
康二は、妻を亡くしたとき、気力が失せ、しばらく何もできなかった。しかし、自宅の上階に設けた賃貸マンションのおかげで収入があり、生活には困らなかった。店を再び開けてからも、例えお客がゼロでもよかった。
知らないお客と話をして、一日がまぎれる。そうした商売で満足した。
「浩江ちゃんから、そういう話を聞いて、わたしがきょうのことをアドバイスした、ってわけ」
未菜が浩江に代わって言った
康二は、未菜にも心が傾いたことを思い出し、内心恥ずかしくなった。しかし、そんなことは言えない。未菜は気づいているだろうが。
「あなたたち、お似合いよ。浩江ちゃんは、康二さんの前の奥さんによく似ているし……」
未菜は、康二から、亡妻の写真を見せられたことがあった。
すると、浩江が、
「よろしくお願いします」
と言って、会釈した。
康二はつられたように会釈を返したが、突然、疑念が生じた。
わずかだが、資産がある。まがりなりにも、日銭の入る商売がある。滅多に帰ってこないが、20代半ばの娘もいる。資産はすべて娘に引き継がせるつもりでいる。
もし、このまま浩江と交際して、結婚ということになれば……。
康二は、恐れた。こんな形で女性と結びつくのは困る。妻とは、いっときも離れたくない気持ちがあって、一緒になった。いまは、そういう感情は起きていない。浩江から連絡がなくても、耐えられた。
妻の場合は、片時も離れたくなかった。年齢が違うといえばそれまでだが、こんな男女関係でいいのか。
もっと激しい、一瞬でも狂うような、情熱に駆られたい。
康二は、浩江の美しい顔を見つめた。おれのような男とつきあう女性ではない。
何かが違う。
そのとき、
「浩江さん、わたしには娘がいます。あなたとは、10才以上の年の差があります。必ず破綻します」
そう心のなかでことばをまとめたが、口から出せない。
出そうとするが、何かが止めている。それは、妻かもしれない。醜い保身かもしれない。
「康二さん。なんでしょうか。なんでもおっしゃってください」
浩江は、テーブルの上の手を伸ばし、康二の指に触れた。康二は、浩江のあたたかい手のぬくもりを感じたが、まだ迷っていた。
(了)
金魚屋 あべせい @abesei
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