2.嘘の発覚
修一がとっさにくたびれた寝間着姿で布団にくるまりながら仰向け気味に嘘をついたのは翌日早朝のことだった。
「今日は会社は休む。」
立彦がいつまでたっても起きてこない息子を心配にして、無理やり部屋に押し入ってきて聞いてみたら返ってきた答えがこの有様だった。
「会社行かないってどういうことだ?体調でも悪いのか?」
「うん・・・最近、不眠気味で体調が悪いんだ・・・」
「不眠って・・・昨日あれだけ酒で酔いつぶれてたからだろ・・・あれだけ飲んだらそりゃ寝つきも悪くなる。」
立彦は呆れて物も言えなかった。
「もう学生気分からいい加減抜け出しなさい。」
そういってもこのようにベッドに張り付いて起きてこない息子に自然といら立ってきて
「体調も悪くないのに酒飲み過ぎただけなんて通用しないぞ!いいから行きなさい!」
無理やり起こそうとしたが息子は微動だにしないので、いよいよ呆れて
「今日だけだからな・・・会社には電話しなさい。」
そう言って父立彦は出て行った。
「やっと行ってくれた・・・」
布団の中でそう一言呟いた。
思えば、修一はほとんど会社を休んだことはなかった。そもそも学校ですらほぼ休んだことはなく、小学生の時は皆勤賞すら取ったことがあるほどだった。それを同級生の不真面目な子たちは逆に面白がってからかってきたりもしたが、家族や祖父母や親戚らは修一のそんな真面目なところが自慢だったらしくしきりに褒めてくれた。そんな少なくとも家族の間ではずっと優等生で通ってきた自分が途端に風邪でもないのに休むと言い出したので父親としても何があったのか理解に苦しむのだろう。そして、そんな父の期待に応えられずに裏切ってしまった感すらあった。父親には会社には電話したことにしておいたが、嘘をまたつくには気がひけた。会社に連絡するにももう電話する勤め先などこの世に存在しないのだ・・・
父立彦はリビングで母の尚子と会話していた。
「あの子、休むんですって?」
「ああ・・・どうやらそうらしい。」
「珍しいはね・・・」
「まったく・・・まだ入社3年目で今が肝心な時だというのに・・・」
立彦がそういら立っていると
「でも・・・まあたまにはいいんじゃない?あの子、学校も会社もほとんど休んだことなんてなかったし・・・たまには一息つくことも必要よ。」
尚子がそうたしなめる様に言ってきたので
「そうだな・・・」
立彦はしぶしぶそううなずいた。
しかし、修一の休みは連日続いた。最初は体調が悪いということでうまくギリギリなところでごまかしていたが、そんな日々が1週間続いてくるといよいよそんな悠長な雰囲気ではなくなってきた。
「おい・・・どういうことだ!もう1週間だぞ。会社にはちゃんと連絡してるのか?」
立彦はまた寝室のドアを押し入るようにこじあけてきてそう怒鳴って来た。
「ああ・・・大丈夫だよ、さっき連絡したから・・・」
「連絡したって・・・会社の規定は一体どうなってるんだ?1週間以上とか続けて休んだら何らかの診断書が必要なんじゃないのか・・・?何かどこか具合でも悪いとか体調不良が長期に続かない限り認められないはずだ。」
診断書・・・確か会社の同期が・・・といってももうクビになったから元同期なのだが・・・そんなようなことを以前言っていたのを小耳にはさんだことがあった。長期的に連続で休む場合は病院にいって病状を証明する診断書を会社に提出する必要があると・・・
「どうなんだ?」
「あ・・・実は診断書が必要で・・・うつ病なんだ」
反射的にそう言ってしまった。
「うつ病だと・・・?そんなこと一度たりとも言ってなかったじゃないか。」
その通りだ・・・だってうつ病などではなく会社をクビになったのだから・・・
むしろそっちの方が言葉として発するのはよほど勇気が必要だった。
「本当にそうなのか・・・?」
「うん、最近金融業界はうつ病が多いんだ・・・過酷な労働環境と残響続きで・・・」
「ブラック企業の過労ってやつか・・・」
最近よくそんな事件のニュースが報道されるので巷で噂になっていたので、立彦もそれくらいは世間並には知っていた。
「うん・・・そんなとこ・・・」
「しかし、お前の企業はそんなブラック企業と言えるほどの環境ではないじゃないか。」
確かにそれは言えていた。残業こそはそこそこあったが過労死に当たるほど過酷な労働環境とは言えなかったし、パワハラ対策も昨今は進んでいて離職率も徐々に低下していた。
「でも・・・自分はそうなんだ・・・」
何もかもめんどくさくなって思わずそう言ってしまったため、修一は父の目をごまかすために精神科というものに初めて行くことにした。
初めての精神科の病棟は思ったよりもこぎれいなクリニックで、開業されて間もないらしく場所は都心から少し離れたところにあった。
「形見さん、2番の部屋へお入りください。」
1時間も順番を待たされるとは思っていなかったが、ようやく診察の時間になった。それだけうつ病の患者がこの世には溢れかえっているということなのか・・・?
「初めまして・・・当クリニックの宇月と申します。」
宇月クリニックとホームページに書いてあったので、院長の本名のようだった。
「うつ病など症状については先ほどの問診票を見させていただきました。」
問診票とは初診の患者の症状がどのようなものか分かるようにあらかじめ診察前に記入するものだ。
「これは・・・明らかにうつ病の症状ですが・・・今現在の体調はどのような感じですか?」
形見は会社をクビになってうつ症状がひどくなったことを言いたかったが、親に連絡されるとまずいと思ったのでそのことは触れずに今現在の体調についてだけ答えた。
「なるほど・・・不眠が続いて・・・ふむふむ。」
宇月医院長はデスクの横にあるパソコンに何やら入力しているようだった。
「なるほど・・・分かりました。それではうつの症状によく効くと言われる薬と睡眠導入剤を処方しておきますね。とりあえず2週間分出しておきますので様子を見ましょう。」
「ありがとうございます。」
お礼を言った後に、修一は診断書を書いてもらうように院長にお願いした。
「なるほど・・・そういうことでしたら次回お渡ししますね。」
修一が了解した旨を伝えて、椅子を立ち上がろうとすると
「次回の通院時にまた症状をお聞かせくださいね」
宇月はそういった。
とりあえず今のところ診断書は手に入ることになったので、修一は父からしばらくの間は免罪符を得る事には成功した。あるいは猶予期間とでもいうのだろうか?しかし、修一は会社をクビにはなったが、何らかの罪を犯したわけでもないので免罪符というのは少し大げさな話だ。この場合は、父を説得する材料と言った方がしっくりくる。
「分かった・・・3ヶ月だな・・・しかし、それ以上は限界があるぞ。」
「ありがとう・・・」
父立彦はどうやら事情を理解したようで以前の穏やかな話し方に少しだけ戻っていた。
「しかし、その間に何が何でも絶対に治すんだぞ。」
修一の引きこもり生活はしばらく続いていた。家で時間を潰したり通院する以外にやることはなかった。思えば学生時代から勉強一筋で会社に入社してからは仕事一筋で来た修一には趣味といえるようなものはほとんどなかった。高校時代に所属していたテニス部が関東大会に出場するほどであったので、そこそこテニスには熱中していたが、学校の勉強がおろそかになるので高3になる頃にはきっぱりやめていた。そして、今振り返るとそんなつまらない人生を送ってきた自分に何か他に特別なことなどあるのだろうか・・・?とさえ思えてきた。そんな平凡とも言える自分が急に仕事をクビになってまさか、あのような大事件を起こすことになるなんて人生は何があるのか分かったものじゃない・・・あれから怖くてニュースもろくに見てないので野間証券が今頃どうなっているのかすら事態を理解していなかった。そして、そのことをできれば忘れてしまいたいとさえ思っていた。しかし、そんな自分の妄想が現実に再び引き合わされるまではそう長くはかからなかった。
「何だ・・・これは?」
立彦が夕飯の食事の肉じゃがとコロッケを食べながら聞いていたニュースからとんでもないある事が発覚し出した。
「昨夜20時10分頃、野間証券による誤発注のミスが発覚しました。東証マザーズ上場の新規ベンチャーのジェノンテクノロジーの新規の売り注文で誤発注が起きたようです。担当者によりますと「1株47万円の売り」とするところを「1円で47万株の売り」と間違って入力してしまい、今現在のジュノンテクノロジーの株価は暴落していてストップ安では・・・」
立彦はびっくり仰天して食べかけていたわかめスープを口から吹き出しそうになった。
「何なんだこれは・・・こんなことは聞いてないぞ!」
それもそのはずだ・・・エコノミックスを筆頭とする経済誌やあるいは週刊誌こそはこぞってゴシップネタとして取り上げていたが、「世間がパニックになり株価が暴落する」とのことで、大手マスコミは金融庁からの命令ではっきりとしたことが判明するまで報道をあえて控えていたからだ。
「おい修一、誤発注ってどういうことなんだ?」
夕食を食べ終わりさっさとひとり部屋でごろんとしていた修一に向かって、父立彦は怒鳴り込んできた。
どうやらとうとう知られてしまったようだった・・・
いや、いずれこうなるだろうと分かっていたが、何もかも面倒くさくなっていたのでもはやどうでもよくなっていたのが事実だった。
「どういうことか説明しなさい。」
面倒だな・・・と修一は思った。説明するに越したことはないが、まさか自分がこの事件の真犯人だなんて口が裂けてもいいづらいことだった。
「まさか・・・お前この事件に関わっていたりしてないだろうな・・・?」
父立彦は変なところで勘がするどい・・・
「そうだよ・・・自分がミスしてこうなった」
もはや、知られてしまったのだから隠し通す必要もないだろうと開き直って反射的にそう口からこぼすかのように言ってしまった。
「それは・・・本当なのか?」
「うん・・・そうだよ・・・」
父立彦はあっけに取られていた。
「本当なんだな・・・」
父はため息をついた。
「どうするんだ・・・」
担当直入に聞いてきたので
「どうもこうも・・・クビになった。」
そう一言で返事してしまった。
「く・・・クビって・・・まさか・・・」
どうやら本人以上に驚いているようだった。自分はここ半月ほどひきこもり生活をして、こんな事件が起きたことは遥か昔のことのような気がして、幾分か忘れかけていたほどだった。いや、正確にはもはや感覚がマヒして何も感じなくなっていたのだった。だから、今更こんなことがさも世界のどこかで起きた戦争などのビッグニュース並みに驚いている父が滑稽にも見えた。
「まさか・・・お前は一体なにをやらかしたんだ・・・なんでこんな大事なことを今まで・・・話さなかった!」
修一は何も言えなかったのでその場でうつむいてしまった。説明すると言ってもいったいどう言えばよかったのだ?
「な・・・何てことだ・・・」
父立彦は部屋から体を引きずるようにして出て行ってしまった。
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