9輪め


 アキレウスは剣を男から受け取ると、上空から鷲が急降下するように走り出た。ライオンとミアの間に躍り出る。

 恐ろしい猛獣と向き合ったとき、アキレウスは自分に問いかけた。

 ──ライオンと戦ったことはない。だが、どうしてここで引くことができようか。

 背後にはミアがいて恐怖で動けなくなっている。猛りくるう獣のするどい鉤爪と頑丈な体をとめられる人間などいない。だが、神と人間のあいだに生まれたアキレウスならどうだろう。英雄ならどう立ち向かうだろう。

 心の中で唱えた言葉で、アキレウスの脚は前へとすすんだ。ライオンは新しい獲物に気付いて咆哮し、床が割れんばかりの力でアキレウスめがけて猛進する。アキレウスは目をいっぱいにひらいて臆せずみずから首元を晒した。ライオンは一目に首元を狙って飛びかかる。

 瞬間、彼はすかさず左腕を突き出した。猛獣の熱い息が顔にかかり牙は左腕に深く食い込む。これが狙いだった。痛みをこらえ腕に力をいれて猛獣の牙を捕らえた。そして、全力を込めて猛獣の鼻面を打撃する。

 ライオンは泣くような細い声をあげた。そこにアキレウスが剣で喉を掻き切り、ライオンはどうと倒れてうごかなくなった。濃い血の匂いがした。

 ──母上にはもう、アキレウスが隠れて身を守る男ではないことを分かっていただくしかないな。

 アキレウスは猛獣の血で濡れた手をふく。辺りは彼に注目して静まりかえっていた。

 ──英雄の力は、立ち向かうことを欲しているのだから。

 倒れたライオンを前にもう正体を隠すことはできなかった。しかしアキレウスには、自分の名を明かすより前にすることがあった。

 猛獣のかたわらに無傷のミアがいた。アキレウスの胸に安堵がこみあげる。抱き寄せたい気持ちを抑え、アキレウスは手をさしだした。

 ──ミアがこの手をとらなければ……。

 命をまもったのだ。それだけでいいと思うつもりだった。しかしミアは迷うことなくアキレウスのさしだした手をとった。

「アキレウスさま……」

 沈黙に耐えかねたように、ミアがアキレウスの名前を呼んだ。か細くふるえる声に、彼はミアがいま何を訴えようとしているか分かった気がした。ミアはたぶん、これまで自分の身にあった出来事を聞いて貰いたがっているのだ。

「ミア……」

 ミアはアキレウスに抱き寄せられると、ほとんどしなだれかかるように身を寄せた。骨細で柔らかい。ミアの身体の香が、アキレウスの鼻にとどいた。

 しかし王の側にあがるミアと抱き合うことを許されるはずがない。ふるえがとまり、冷静になったミアは体を固くしてゆっくりとアキレウスの胸から離れようとした。だがアキレウスはミアを強い力で抱き寄せた。

「このままで」

 いとおしい幼なじみの少女を抱きしめながら、アキレウスの中ではっきりしたことがあった。

『答えを知らずとも追求することはできる。追求すればするほど〝正しさ〟に近づき、〝強さ〟を手にするのだ』

 ──答えは知らない。だが自分の力をただしく使うということは、今こういうときなのだ。

 覚悟を決めたアキレウスはミアを抱きしめたまま、まだ猛獣の血がついている剣を高くかかげた。

「我が名はアキレウス。ペーレウス王と女神テティスの息子である。スパルタの使節団よ、探していた英雄アキレウスはここだ」

 アキレウスの宣言に、スパルタの使節団、スキュロスの人々からもざわめきが起こった。とくにスキュロスからが大きかった。皆、母テティスが課した制約を守るためにアキレウスが隠れていたことを知っているのだ。

 ──その制約も、ここまでだ。

 アキレウスはざわめきを静かに受け流し、リュコメデス王に向き直る。

「リュコメデス王。私は英雄として戦争に参加し、スキュロス島に栄光をもたらすことを約束します」

「それは……」

 リュコメデス王は神妙な面持ちでアキレウスを見た。女神テティスの制約を彼がやぶることに戸惑っているようだった。

「アキレウスどのは客人だ。私には許しが出せない」

「では父ペーレウスの代わりに、私が戦に出ることを許していただけないでしょうか」

 アキレウスは大博打に出た。腕の中にいるミアを抱きしめ、はっきりと宣言する。「あなたの娘を妻とし、リュコメデス王の息子として戦に参加したいのです」

「我が娘とはどの姫のことだ?」

 リュコメデス王はアキレウスに視線をそそいだ。彼が抱きしめているのは王の側にあがるミアだ。まさかと王がつぶやくと、アキレウスは満足げにうなずいた。

「はい。私が所望するのは幼いときから共に育ったミアです。彼女を王の養女にし、私の妻にください」

 腕の中でミアが息をのんだ。そんなことが叶うわけがないと、アキレウスを見上げる。アキレウスはぎゅっとミアの肩を抱きしめた。

「けっして王にご迷惑をおかけすることはありません。多くの栄光をスキュロス島に持ち帰りましょう」

「………」

 リュコメデス王は沈黙した。うつくしいミアを惜しいと思うか、アキレウスを娘婿として受け入るほうがいいか。

 彼の中で合点がいったようだった。彼は静かにうなずいた。

「よろしい。ミアを我が娘とし、アキレウスどのに嫁がせよう」

 王の言葉に、緊張して静まりかえっていた人々は歓声を上げた。スキュロス島に栄光がもたらされることを想像して。

「しかし証人を立てねばな……」

 と言って、リュコメデス王はあたりを見渡した。英雄と王族の結婚だ。ふさわしい身分の証人がのぞましい。

「ならば、私が証人になりましょう」

 思わぬところから声が聞こえた。どこから声が聞こえたのかと人々が見渡していると、行商人の男が立ち上がった。

「私はイタケの王オデュッセウス。アキレウスさまの参戦とミア姫とのご結婚をお祝い申し上げます」


 しばらく呆然としていたミアは、アキレウスの願いが聞き入れられたことを理解すると腕の中でふたたび震えはじめた。

 ミアはこの申し出が嫌だったのではないかとアキレウスは今更になって心配になった。しかし震えていたのは涙のせいで、ミアはすがるようにアキレウスの背を掻き抱いた。

 アキレウスはようやく安堵して息をついた。

「ミアはおれの腕の中でふるえてばかりだな」

 喜びで震えるミアに額を寄せた。

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