4輪め
秋になると紫色のセージの花が城内の隅々に咲いた。修練場のかたわらにも鮮やかな花が咲き、さわやかな香りが空気に混じった。レイケイオンが取り計らってくれた王城勤務の返事もその頃で、アキレウスが15歳になればすぐ登城してよいという。戦場ではないが武器を持って勤められることにアキレウスは喜んだ。
さっそく鍛錬に熱が入り、朝から晩までパンクラッチオンのことが頭を占めていた。だからといってミアのことを忘れたわけではない。しかし王城に勤務するようになれば話す機会もあるだろうと思い、アキレウスはあえてそれを意識の外に置いた。
だが心の中は晴れなかった。パトロクロスは軍事訓練が本格的になってから修練場に来ない。親友はもうすぐ遠い戦場で勇名を馳せるのだろう。アキレウスが修練に打ち込めば打ち込むほど、行き場のない鬱屈とした思いが生まれた。ついに組試合をしてくれる相手がいなくなり、アキレウスは無言で水を飲みに行った。
井戸から汲み上げた水で喉を潤した後、アキレウスは木陰に腰を下ろした。力を出し切れず修練にも没頭できなくなっていた。心を落ち着けるためにセージを摘んで口元に持っていく。すがすがしい香りが鼻をくすぐり幾分さっぱりしたが、胸の奥はまだくすぶったままだった。
と、背後にひとが立っていた。アキレウスがすばやく立ち上がり、一二歩下がると、陽のもとに老人が出てきた。この修練場の主人をつとめるパトロクルだった。
「精が出るな、アキレウス」
「はい先生」
アキレウスは頭を下げた。この御仁は戦場から離れて久しいが、いまだに衰えない闘志と荘厳さを持っていた。直接師事したことはなく、言葉を交わすのも初めてである。
「なに、緊張せずとも良い。おまえを見ていて思ったことがあるのだ」
「はい」
パトロクルの口調は軽かったが動きには一分の隙もなかった。白髪で小柄な体は背筋がまっすぐ伸び、鋼のような筋肉が全身を覆っている。目はしっかりとアキレウスをとらえていた。
「おまえは修練場の誰よりも強い。パンクラッチオンを心から好いておるのが分かる」
パトロクルは静かな声で言った。「だがな、ペーレウスの息子アキレウスよ。わしにはお前が退屈しているように見える」
「………」
「おまえはここで得られるものはないと思っているのだ。実際、この島でおまえより強い者はいない。おまえに強さを教えられる者もない。だが母君の制約によって島から出ることはできないのだろう」
アキレウスは小さく頷いた。このところ組試合で勝っても嬉しくなかった。勝ち方を研究しても虚しく思えてくる。いったい、自分は何のために力を得たのか。修練することに何の意味があるのか。
──王城勤務といっても所詮は島のなかだ。
母の制約に縛られた自分には未来がないように思われた。その思いは暗い塊となってアキレウスの心を蝕んでいた。
老人は言葉を続けた。
「おまえは強い。勝つだけなら敵はいないが、満たされもしない」
「………」
「勝つことだけに執着すれば、神聖な競技も弱者への暴力となる。過ぎたる力はおのれの身を滅ぼすだろう。狂気に囚われ、友や自分の子供を殺してしまったヘラクレスのように」
狂気。じわじわと心を蝕む塊にはっきりと名前を与えられた。ヘラクレスはアキレウスと同じ半神半人で、賢者ケイローンに師事した兄弟子だ。彼は自らの子供を殺め、償いの最中にあった。
そう言われてもアキレウスは心をもっていく先がなかった。外への憧れと力はどんどん強くなっていく。でも制約をまもらなければ母を不幸にしてしまう。アキレウスはうろたえた。
「先生。わたしは狂気にとらわれるしかないのでしょうか」
「救いはある。アキレウス、〝強さ〟とは武力だけではないと分かるな?」
パトロクルは問いかけた。
「はい。武力だけでなく、知恵や審美眼、人との付き合いの中にもそれぞれ異なる強さが存在します」
「よかろう。では、異なる〝強さ〟に共通することはなんだと考える」
アキレウスは答えた。
「強さとは、相手に勝つことだと考えます。負けている人が『自分は強い』と主張するのは矛盾しますから」
「なるほど。たしかに強ければ相手に勝つことができるだろう。だがもし卑劣な方法で相手に勝ったものがいたら、それは〝強さ〟だろうか?」
「いいえ。正々堂々と勝つことが強さだと思います」
「ならば、おまえの考える〝強さ〟は勝つだけでなく〝正しさ〟が内包されなければならないことになる」
「おっしゃる通りです」
「では〝正しさ〟とはなんだろうか。ただ勝つことだけが正しくないとするならば」
老人は青年の言葉を肯定しつつ鋭い指摘をした。アキレウスは少し考えてから答えた。
「正当な目的か信念が必要だと思います」
「そうか。では、その目的や信念というのはどうやって生まれるものだろう。他人から教えられるものか? それとも自分が作り出すものか?」
アキレウスは老人の目を見つめて答えを探ろうとした。だが正解を期待するのではなく、問いかけ自体を楽しんでいる輝きが御仁の目にはあった。そこで、アキレウスはもう一段階深く考えてから答えた。
「……どちらとも言えません。〝正しさ〟とは誰が定めたかではなく、多くの知識や状況から判断されるものだからです。正しいかどうかは人によって違いますから」
「ではアキレウスよ。今のおまえはどうやって〝正しさ〟を判断しているのだ」
「わかりません」
青年の正直な言葉に老人は微笑んだ。御仁はこの言葉を待っていたのか、とアキレウスは眉をしかめた。
「そろそろ若者をからかうのはおやめください。先生が考える〝強さ〟や〝正しさ〟とはなんですか。教えてください」
「それがな、アキレウス。わしも知らぬのだ」
老人の返答は拍子抜けするものだった。が、表情は真剣そのものだった。「しかし、おのれが〝強さ〟も〝正しさ〟も知らぬことを理解している。だから教えることはできない。しかし、答えを知らずとも追求することはできる。追求すればするほど〝正しさ〟に近づき、〝強さ〟を手にするのだ。
初めの問いに戻ろう、アキレウス。この島にはおまえより強い者も、強さを教えてくれる者もいない。だから退屈している。だがおまえが強くなりたいなら、ここで学ぶものはまだあるのではないかね」
黙りこんだアキレウスをパトロクルは「まだ早かったか」と笑った。そして言いたいことだけ言うと、老人は現れた時と同じように木立の中へ消えて行った。
<参考資料>
『メノン』『ソクラテスの弁明』プラトン
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