第二章 まけてくやしい

2—1


「うわああああああああああああああああああ!!」


 男は叫んだ。

 自分の上に乗ったアレを押しのけて、裸足のまま外へ出た。

 アパートの階段を必死に駆け下りて、アレから逃れるために、走り続けた。


「助けて!! 助けてくれ!!!」


 男は叫んだ。

 だが、運悪く降り始めた大雨に、その声はかき消される。

 恐怖に怯えながら、必死に、必死に、雨に打たれて冷えた体を引きずって、砂利で傷ついた足から血が流れていようと、迫り来る死への恐怖に比べれば痛みなんて気にならない。


 とにかく逃げなければ。

 アレから離れなければ。


 住職に言われた通り、耐えていたのに…………

 迫り来るアレがあまりに恐ろしくて、何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も繰り返されるアレの声に耐えられなくなって……


 こんなことなら、何も知らぬまま逝きたかったとすら思えてくる。

 アレがどんなに危険なものか、わかっていなかった。

 わかっていない方が、幸せだったのかもしれない。


「あっ……あああっ!」


 歩道の縁石につまずいて、男は道路に腹から倒れた。


 もう限界だった。

 これ以上、男は走れない。


 雨に打たれ、冷え切った体よりも冷たいアレが、男の体を転がして無理やり上を向かせる。

 男の瞳を濡らすのは、涙か雨か————


「どうして逃げるの? あなたを買ったのは私よ」


 アレは男の上にまたがると、笑いながらそう言った。

 アレの長い髪が、とこの顔にかかる。


「銀一匁でね——……」

「あ……あぁぁっ」


 その時、通りがかかった一台の車が、男の頭を轢いた。

 車は蛇行しながら、男の頭を轢いたことに気づかず、遠くへ離れて行く。


「あら、死んじゃった。もう少しだったのに……もったいない」


 アレはそう呟くと、どこかへ消えて行った。




 △ △ △




「それじゃぁ、その絵が原因だっていうの?」


 蝶子が尋ねると、友野は頷いた。


「元の状態を見ていないので、確実にそうだとは言えないんですが————この中にいた何かの仕業だと思います。中に何がいたのか、店主の小宮さんを探して、聞きださないと……」


 友野が見つけたその絵の裏側には、『花太夫』と書かれている。

 だが、絵の中には畳と西洋風の椅子しか描かれていない。

 この中に描かれているはずの花太夫がいないのだ。


「封印されていたということは、それだけ危険なものということだよ。封印が解かれてしまっている状態なのに、まだこんなに禍々しいものが残っているんだ。本体はきっと、とても恐ろしいものだと思う……」


 友野の目には、禍々しい黒い空気が見える。

 蝶子も見えはしないものの、なんだか嫌な感じがしているようで、顔をしかめていた。

 そして、渚だけがキラキラとした目で、絵を見つめている。


「幽霊? それとも、妖怪ですかね?」

「さぁ、それはわからないけど…………とにかく、ママ、小宮さんの家は知ってるんですよね?」

「ええ、知ってるわ。でも、アパートにもずっと帰って来てないみたいだって、隣の住人が言ってたけど……」



 行っても小宮には会えないだろうと、蝶子は思った。

 だが、友野は剥がれ落ちてただの紙切れになってしまった封印の札を握りしめて言う。


「本人が生きているという可能性は、ないと思います。むしろ、その方が生きているより探しやすいかもしれないです」


 普通の人間には見えないだけで、小宮はまだ、そこにいるかもしれない。

 何か手がかりが残っているかもしれない。

 そして何より、その得体の知れない、封じられていた何かが原因で、不幸なことが起きているというのなら、止めなければ……


 蝶子は開店時間のため店に戻り、友野と渚は小宮が住んでいるアパートへ行くことにした。

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