16《ウランバートル》――JST08時25分

 モンゴルの正面玄関、チンギスハーン国際空港の正面入り口は、モンゴル軍の兵士数十名によって封鎖されていた。正面の駐車場に大型バス3台が乗りつければ、見逃すはずはなかった。

 その兵士たちを、さらに中国軍の私服幹部たちが背後から監視している。中国軍の要求は、バスの乗客の国外逃亡を阻止しろというものだった。

 彼らは乗客を〝人質〟と呼んでいる。

 モンゴルと中国の経済的な結び付きは、大きく深い。しかも2014年には習近平がモンゴルを訪れ、二国間の関係を『全面的戦略パートナーシップ』に引き上げる共同宣言を行った。経済、エネルギー、鉱業、金融といった分野で一段と協力を深めることで合意しているのだ。モンゴル政府は、資源の多くを買い取る〝お得様〟である中国に対してどんな不満を持っていようとも、その要求を撥ね付けることはできない状態にある。中国の景気が急減速して需要が激減している今でさえ、いや、だからこそ、最大の取引先の機嫌を損ねるわけにはいかなかった。

 当然、軍も例外ではない。独立国の軍隊としては不本意であっても、中国軍から空港の封鎖を〝要請〟されれば断ることはできなかった。空港を監視する兵士たちもまた、中国政府からの密かな〝相談〟を受けて動かざるを得なかったのだ。

 だが、目的のバスは一向にやってくる気配がない。ウランバートル市内から空港までは、ほんの数10キロしか離れていない。しかも街中で、中国軍人がそれらしい車両を目撃したと報告されていた。この空港に直行しているなら、15分は前に到着しているはずなのだ。

 モンゴル軍少尉が振り返って中国軍幹部に言った。肩からはいつでも射撃できる小銃を下げている。

「別の場所へ向かったのかもしれない。本当に脱出を阻止したいなら、軍を散らせて痕跡を追跡した方がいい」

 中国軍幹部は聞き入れなかった。

「貴様の意見など聞いてはいない。こちらは確かな情報の元に動いている。国内の要所には兵士も配置している。しかも、日本政府のチャーター機はすでに滑走路でスタンバイしている。彼らは、ここに来るしかない。このだだっ広いだけのモンゴルで、バスで行ける場所など限られている」そして、少尉の後ろをあごで示す。「ほら見ろ、到着したようだ」

 砂埃をあげながら、駐車場に3台のバスが向かってくる。そのバスを双眼鏡で確認した少尉が言った。

「なるほど、あれでしょうね……窓は全部カーテンを引いていて、乗客は見えませんが……」

 数歩後ろに控えていた階級不詳の中国軍人が、無言でうなずく。彼の上着の下には、ホルスターに吊られた拳銃が収まっている。必要とあらば、モンゴル軍の少尉を背後から射殺できる位置だ。

 少尉自身も、それを承知している。本心では中国軍の〝横暴〟に従うのは不本意だが、国を守るためにはやむを得ないとも諦めている。今は、彼らが満足できるように、人質が空港から逃亡することを阻止するしかない。

 人質が抵抗すれば、おそらく中国軍は何人かを撃って見せしめにするだろう。内モンゴル自治区ではそんな現実が日常化しているという。少尉自身も、中国軍人の傍若無人な振る舞いには辟易していた。人質たちの無事を確保するには、悲劇が起きる前に自分が捕らえるしかないのだ。

 モンゴル軍が日本のためにできることは、それで精一杯だった。

 バスが駐車場に入る。大型車用のスペースに止まると、少尉が先頭のバスに向かって走った。駐車場の周囲に身を潜めていた部下たちが姿を現し、バスを取り囲んでいく。

 一刻も早く乗客に事実を伝え、抵抗を阻止しなければならないのだ。中国軍人たちが不安を抱いて発砲を始めれば、犠牲者が出かねない。それだけは何としても防ぎたかった。

 先頭のバスが停車すると、ドアに小銃を向ける。

 銃を構えた少尉の姿を見た運転手が、慌てて両手をあげる。

「何ですか⁉」

 バスのドアが開き、少尉がバスのタラップに足をかける。

「乗客の身柄を拘束する」

 と、バスの奥から男が進み出た。英語で言う。

「乗客? 私のことか?」日本国外務省の小野田だった。「それ以外に考えられないな。他には誰もいないのだから」

 少尉は口をぽかんと半開きにして車内を見つめていた。50席を超えるシートには、誰も座っていなかった。乗客は本当に一人だけだったのだ。

 その意味に気づくと、唐突に少尉の口元に含み笑いが浮かぶ。

 背後に、中国軍人が乗ってくる気配があった。2台目に乗っていた大森を引き連れている。中国語の叫びが聞こえる。半狂乱だ。

「なぜ誰もいないんだ⁉」

 小野田は、少尉に言った。

「君はモンゴル軍人だろう? 指揮を取っているのは、君だな? なぜ銃など持ち出す? 私は日本の外務省の者だ。この国の人々に危害など加えない。君の政府の人間と話がしたい。君が話をつなげられる中で最も地位が高い人間を呼びたまえ」そして、厳しく睨みつける。「それとも、私から大統領に連絡しようか?」

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