中秋の名月 作:奴

 近所の庭の草木はどれも弱って見えた。花はしおれ、花弁の色がすこし褪せているようだった。

 というのも、夏では異例な長雨のせいである。梅雨のころは曇りつづきであったのが、梅雨明けの宣言が新聞で出たあと、数週してから、かえってこちらが梅雨でないかというくらいに雨が降りつづけたのだった。通り雨も例年よりはなかったようである。梅雨を越して、爽快に晴れた空のしたに太陽の光を受けて育つはずの緑は、いっこうに育たず、あるいは水気にやられて腐るように枯れた。

 家の近隣を散歩するときに、私はその影響をすくなからず目にした。花に元気がないのである。太陽光線を日中に受けて、水は一日置きに一回やるくらいがちょうどいい種の草花は、長雨で長いあいだ湿った一隅にあったせいか、みな弱っていた。芯が通ったようにすくっと立っているはずが、花冠が土につくくらいに倒れ萎えている。どうしたことだろうと思って、自宅の庭に妻が植えたものを観察したが、日を経るほどくすんだ緑色だった葉が、末端から茶色に変わりだした。太陽に十分当てなければ育たない種類であるから、室内に避難させるのは効果がない。日照りを請うほかなかった。しかし雨は無遠慮に降りつづけた。私はそれを呪いすらした。手をこまねいているうちに花が枯れしぼんでいくのは痛ましかった。

 それも観賞用の草花に影響するだけならまだよい。私はその影響を、生活のなかにまで見なければならなかった。同じ理由でもって葉物野菜が高騰したのである。白菜などがふだんの二倍、三倍の値段で売られていたのに、私は驚かずにはいられなかった。青物売り場のまわりは、値札を見ながら悩みどおしの人がたくさんいた。

 野菜はむろん人間の食事にかならず出てくる。サラダというのでなしに、肉と炒めるのでもスープ入れて煮るのでも漬物にするのでも、野菜はいる。白菜やキャベツやレタスやそのほか旬の葉物は野菜のかかわる料理には主役ほどに登場する。それがみな雨にやられて育たなかったのだから、人間全体が困ることになる。農家は収入が減る、八百屋もそうである。買うほうはあまり高いので葉物は敬遠する。すると売るほうはなお困る。農業だけでない、花卉園芸業も結局は打撃を受ける。売るはずの花ができないのだから。

 妻自信にもその影響はすくなからず及んでいた。庭を眺めるたびに妻はため息をつき、どうにもなりませんねと言う。いっそすべて除いてしまって、秋になって天気が落ち着いてからあらためて植えようかと目算しているのだった。私は妻が不憫でならなかった。季節ごとに花を植え替え、きれいに咲くたびに笑顔で報告してくれた彼女は、今そこになかった。どことなくやつれている気もする。

 妻は庭の花をすべて摘んでしまった。長年庭にあった見知らぬ草も根腐れしていた。

 事態が好転したのは、九月のなかごろに台風が過ぎたあとである。半日ほど風が窓や屋根を揺らし、テレビは電波の入りが悪かった。小さな常緑樹が庭でしぶとく風を受け止めていた。妻はその木を見に何度も窓へ寄った。どうかそれだけはなくならないでほしいという最後の思いが彼女のうちにあるようで、私はいたたまれなかった。

 「きっと大丈夫」と彼女を慰めた。

 台風が過ぎると、雨雲をみな運んでいったのか、今度はしばらく晴れた。雲が多少かかっても、昼間はつねに日が差して、そこらの庭木の緑もすこしは豊かになったように見えた。さいわい、台風の被害はなかった。町がにぎわいを取り戻したようだった。

 台風で庭に吹きこんだ落ち葉や枝やごみを片づけながら、妻と何を植えようかと話した。私は季節の花をそれほど知らない。秋の花というとコスモスとオミナエシとハギくらいしか知識にないが、妻は横文字の名前をいくつか口にした。みな秋に花を咲かせるそうだ。鉢植えを買って花壇に移せば、すぐに色とりどりの花が楽しめるだろう。

 それで次の週末に買いに出ようと話していたところへ、中秋が来た。おりよく快晴という予報であったから、夜はぜひ月見をしようと妻と話した。台風一過の空を見上げたときもそうであったが、彼女はそれで顔を明るくした。二、三日前から、妻は雲のすくない空を見ては、今でもこんなにきれいで明るくてすてきですのにね、とはしゃぐように言った。その年は八年ぶりに満月で中秋を迎えるのだった。


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