生活の断片 作:奴

     印象に残っている日のこと


 冬だというのに寝苦しさを感じて目覚めた。全身が妙にけだるく、霜が降りたように汗が全身を濡らして不快だった。暖房をつけていない部屋だけは窓を閉めきっていてもしんと冷えている。布団を蹴り払って冷気に体を晒し、小さなナイト・テーブルに所狭く並んだポットとコップでもって白湯を飲んだ。口元に近づく熱水を恐れて、触れるか否かの瞬間、すこし顔を離したあと、もう一度コップに口をつけ、慎重に飲んだ。食道を通っていく熱の塊が彗星のように胃へ落ち、ふっ、と消えた。しかし彗星は燃え尽きてもこの熱は今もなお自分のなかにとどまっているのだ、そう思った。外は雨が降っていて、ベランダの手すりに降りかかっているはずだった。その跳ねるような響きも、窓を閉めると聞こえなくなって、鼓動の音や冷蔵庫のモーターの音ばかり耳についた。唾を飲めば嚥下の音がする。白湯を飲んでも同じことだ。コップにごく浅く湯を残し、汗が引いてから再び寝た。

 朝にはもう雨は降っていなかった。油絵みたいに何層にも塗られた濃い色の雲の間隙から白い日の光が差して、やんだばかりなのか、まだ水気を含むアスファルトは光を撥ねた。そのため曇っているはずなのに外はふだんよりきらめいて見えた。

 通勤の時間からずれていて人はまばらだった。日は正面にあって地を照らしている。その光がいたるところについた雫で複雑に反射するので、眼窩に刺す痛みがあった。駅に入れば蛍光灯の照明の柔らかい光になるからと辛抱して歩いた。

 駅のカフェに入って広岡を待った。午前の早いうちから彼に会わなければならなかった。私は歩いて駅まで来られるが、広岡は電車に乗って来る。でなければとてもこちらまでたどり着けないところに、広岡は住んでいた。私はカフェオレを飲みながら彼を待った。コーヒーが濃いようで苦かった。他の人は何を飲んでいるだろう、そう考えた。外を歩く人はこれから何をするのか。そんなことも考えた。

 広岡はいつまでも来なかった。ランチのメニュー表を見て、昼食のことを考えた。ここの食べ物はどれも量が多い。食べきる自信はそんなになかった。どうせなら広岡と分け合いたい。多分、彼ならこれとこれあたりを喜ばしげな顔で食べるだろう。食事中の彼の顔を思い描く。口にソースをつけたままかもしれないし、思いのほか多いね、なんて言って私に笑いかけるかもしれない。何でもよかった。でも来てほしかった。それだけは約束したことだから、守ってほしい。もう正午になるかというのに来なかった。本当なら十時にはこのカフェで会うはずが、どうしたのか、もう十一時を越えてしまっている。指を伸ばして眺めた。指先ばかり冷たくて、手を揉んだ。ハンド・クリームを手の甲から指まで延ばし指の腹から掌まで行き届かせた。それだけで手全体がほんのり温かくなったような気がした。

 クリームが手になじむ前に、広岡は来た。私の横に座って、ごめん遅れた、とだけ言って笑っていた。広岡は外気を運んできていて、何てことない身振りに冷気がまとっている。「寒かった?」と尋ねてみた。広岡はどれだけ寒かったかあれこれ言って説明してくれた。本題にはなかなか入らなかった。

 私の買ったばかりのスニーカーを褒めてから、ようやく不安げに頼んでいたそれを差し出してくれた。

 「合ってるよ」

 みかんだ。私はようやく手に入れたのだ。このみかんはとくべつ糖度が高く、そのため高価だった。私が以前から食べたいと願っていたら、広岡はそれを覚えていて、わざわざ買ってくれたのだ。桐の箱に入った、六つのみかん。

 「二人で食べよう」と私が言った。広岡は断ったけれど、そもそもこれを買う金すら肩代わりして、しかも私のところに来てくれているのだから、どうにかして恩を返さなければ気が済まない。昼食を広岡に奢ることで決着がついた。

 いちおうの一人前である大きなサンドイッチを分け合って食べた。



     帰郷


 野原の草は雨が降ろうと日を受けようと生長しなかった。それだけ空気が冷え、一切は萎縮していた。夜に落ち込んだ冷気が草の合間にまだ残っていた。早朝の弱い日光の下では地温が上がりきらず、歩くと足から冷えた。歩けど歩けど体は温まらず、手に息を吐いて藤川はしのいだ。

 広岡の住む住宅は荒れた田畑のなかにあった。それが霧中にそびえる孤城のように立っていた。その最上階、五階に住む広岡が、ベランダから藤川の姿を見ていた。手を振ると、振り返した。広岡は帰省するつもりであった。そのための荷造りをすると言うと、藤川は彼の顔が急に見たくなったから、電車で何駅も離れている彼の部屋を訪ねた。広岡は一度、実家に帰ってしまうと、大学の春期休業が明けるまで帰らなかった。ここを逃すともう一か月半も顔を合わせられなかった。

 広岡に断られたから、藤川は酒も何も買わないでいた。本当なら、ささやかな送別でもするつもりであったが、やはりそれは酒と豪華な料理を伴わなければもうひとつ足りなかった。

 牛小屋がどこかにある。牛糞の臭いが冷気に混じっていた。

 広岡はもうほとんど準備を終わらせていた。部屋を出るまでに使う用品を除いてはもう鞄に詰めるものはなかった。別に準備を手伝う気でもなかったけれど、藤川は早々と荷造りを終わらせているのが寂しく思われた。

 もう日が暮れるころであった。高いところから鳶の声がした。黒く点々と見える鳥の一群が、山の方角に飛んで行き、しだいに小さくなった。五階から見る景色といえ、ベランダから大したものは見えなかった。

 「集団生物学の成績もう出てるね」と広岡がベランダの藤川に声をかけた。

 「どうだった?」

 「優」

 「すごいじゃん」藤川は笑んだ。

 藤川の喫うたばこの煙がいつまでも中空に見えた。

 夕飯を買いに外に出た。太陽光線は何にも遮られずに地平に伸びるから山向こうに日が落ちても薄明るかった。しかるに懐中電灯で道を照らしながら店まで二人は歩いた。

 「本当にぎりぎりまで向こうにいるの?」

 「うん」

 「帰ってやることあるの?」

 「居心地いいから」広岡は言った。畦道で外灯などなかった。虫の音も聞こえないから寒々とした風がどこか寂しかった。

 藤川は長期休業でもこちらに留まっていた。故郷は北の遠方にあって、急行列車でもなかなか高額になるから帰らなかった。両親はそれでおおむね泰然としていたし、藤川も覚悟のうえであった。今では家族と疎遠であることより広岡に九十日も会えないのが心配になっていた。

 「もう少し早めに帰ってこれない?」

 広岡も自分の意思を貫徹したい人である。またその貫徹がはらんでいる障害をまったく意に介さない人でもあった。たとえ藤川から勧められても、自己の求めるところでなければ突き返しもした。このときもやはり最初に考えたとおりにやろうと考えていた。けれども藤川の心持も広岡はよく理解できた。彼女が部屋に来て始終落ち着かない顔をしているから、それがなお察知できた。広岡は藤川に済まない気がした。彼女のうちに芽生えている寂寥が自分のせいであると感じている。自分の意思がもっとも大事ではあった。だが一方で、藤川の気持ちも大事に考えたかった。広岡は舗装路に着いて店に向かうときもこのことを脳裡に浮かべていた。懐中電灯の作る明るみが揺れていた。

 「一週間くらい早めるよ」と言った。



     抱擁


 広岡の引っ越しが決まった。

 後期試験で入学して時機を逃すともう手ごろな部屋はなかった。大学のそばの住宅は皆早々に人が住みこんで埋まっていた。広岡は大学からひどく離れた辺境にようやく住まいを発見した。路線バスが一時間に一本あるだけであったから、すぐに乗り過ごした。あまり講義に行きそびれるのでは、親もやはり気がかりである。

 それで帰郷して間もない二月の末に、別な部屋を取った。大学に近い四畳半で、藤川の住宅からもそう離れていなかった。藤川は彼の屋移りに賛成した。

 引っ越しのときには広岡に彼の両親も連れ添ってあった。藤川はこのときはじめて彼の両親を見た。移った先での荷解きを三人がするところに、食事を届けただけで帰ったが、広岡から何か紹介があったかなかったか、広岡に迎えられて挨拶に入った藤川を、彼の両親は一瞬だけ意外の目で見た。すぐによそ向きな表情が現れたが、藤川はその顔をいろいろに推量した。広岡が藤川について説明するときに性別を明かさず、両親は勝手に同性の友人と解釈したのだろうか。藤川は身体上も自覚上も女である。広岡は逆にどちらにおいても男である。

 藤川は弁当を三つ置いていくとすぐに自宅へ帰った。彼の父母にどんな評価を下されているか考えた。どうやってもそれは主観を離脱できない微妙な空想を超えなかった。

 のちにそのことを尋ねても、広岡は最初何も言わなかった。ただ曖昧に返事した。言い渋る彼へいくら問い詰めても何の効果もないとは知っていたが、藤川はそのとき、広岡の親がいったい自分をどう見たかの謎が胸に居座っていたから、長らくそれに拘泥した。広岡はついに黙った。

 「悪いことは言われなかった」と最後に答えた。

 広岡と藤川と二人だけで彼の新居祝いをやった。もう歳であるから酒も飲んだ。彼の父母の家に鎮座したままの焼酎を一つもらってきたそうである。二人はそれをソーダ水で割りながら飲んだ。まったく辛さのない焼酎であった。

 「ようやく近くに住めたね」藤川が新たに買った弁当を食べていた。

 「うん」

 「これからは私が景の家に行ってもいい?」藤川は彼の名を呼んだ。

 「いつでも」

 「サークルの友だちとかいるでしょ?」

 「いるけど、家に呼ぶかは分からない」

 「葉子が来るならそれで」広岡も彼女の名を呼んだ。

 一升あった焼酎はソーダ水で割りながら飲んでもなくなってしまった。



 花


 三寒四温を繰り返しながらしだいに春めいた。その間に春雨が降って、イヌフグリの花が湿った。そのたびに暖まった。土のにおいが立ち、草木の香りが風に乗った。幾分か柔らかい風が人の髪を撫で頬をかすめた。昼にはむしろ熱っぽさすらあった。

 凪いだ海洋が日の光を撥ねてまぶしかった。船が白く光る海を抜けて、岸のそばの倉庫の作る影に入った。影の下では海は黒く見えた。

 潮の香りが、春雨のやんだあとに吹いた水気を含む風に乗って、藤川の部屋のベランダにあった。藤川は自分で喫うたばこの臭いのあいだに湿る香りを知った。もう夕であった。寝覚めは正午を過ぎていた。広岡と酒を酌み交わして夜を越え、知らず識らず眠っていた。脳裡にある夜の歪んだ景色が、夢を映したものか、泥酔した自分の目の映したものか、分からなかった。今もベッドに眠る広岡の顔を夢に見た気がする。彼はそこにいた。カーテンを開け、窓を開けた部屋に、山に落ちる日の光線が入った。ぬるい潮風が部屋に入り広岡の体に沁みた。肌着だけの藤川の白い肌に差す日光が、むしろ彼女の真白な体を際立たせた。腕の産毛が、金色に光っていた。藤川は肌着から伸びる自分の足があまりに青白いとわかって、自分がもうこの世のものではないように思った。表面に透けて見える血管が、死後の相に見えた。柔らかい肉の下に流れているはずの鮮血はとうに静止して、抱えきれないほどのたばこの煙が気管に残っている想像をした。私は生きていない、とひとりごち喫った。

広岡が起きるまで何本でも喫って待つ気でいた。

 五本目を喫いながら、半分毛布に埋まるように眠っている広岡の顔を見ていた。目の下のくまが青痣のように痛々しかった。寝落ちる前に飲んだ濃いハイボールのにおいが藤川の喉に昇り、今はそれが不快だった。その五本目を喫い終えると、藤川はもう一度、翳る日光に当たる広岡の正面に寝た。彼の汗のにおいが首から漂い、彼自身のにおいに溶けて妙な色気があった。窓は開け放していた。静穏な風が藤川の背中と首を撫でた。二人の胸のあたりに渦巻く空気が体温で蒸して暑かった。藤川も妙な汗をかき、自分がにおい立っている気がした。

 何かわからない花の香が風に混じっていた。

 広岡は、藤川が六本目を喫うか、広岡を胸に抱いてひと眠りするかと考えているときに目を覚ました。

 藤川は広岡に対面して寝る自分が恥ずかしくなって浴室に行った。自身の表面に浮き出るような感情を汗と一緒に落としたかった。

 石鹸で洗った全身が、藤川にはまだ強いにおいを発している気がした。藤川が出た後で、尋ねるでもなしにすぐに広岡が浴室に入りシャワーを浴びた。藤川は机に残ったビールやハイボールの空き缶を流し台に置いてから、夕方のニュースをつけた。音が欲しかった。花の香の混じった潮風を部屋に通しても抜けない胸のざわめきをどうにかしたかった。これがいったい何なのか藤川は知らなかった。気心知れる広岡を部屋に迎え、酒を飲み、横並びに眠るうちも、何か判然としない情動が胸で回転した。彼のにおいのせいでその心持はなおさら動揺した。

ニュース番組は側溝に湧いた大量の水生生物を報じていた。

 浴室から出てきた広岡からは水のにおいがした。彼自身のにおいは水の向こうにあった。彼はただ汗を落とし気分を変えただけだった。

 「石鹸、使った?」

 「使ってない」

 「使っていいよ、もう一回シャワー浴びたら?」

 広岡がまた浴室に引き返した。

 次に出てきた広岡の体からあの石鹸の香りがした。



     気配


 耐えがたい空腹で藤川は深夜に目覚めた。腹が燃えているように熱く全身から力が抜けていた。体内に残る甘味のある眠気が強まる食欲にかき消されて、まどろみもなく覚醒した。満月であるから外は時間に合わず妙に明るかった。ベランダに出て光のなかに立った。ぬるい夜気が流れていた。

 きめの細かい風が藤川の身体を抜ける。布団から出てすぐでは肌寒かった。腕に鳥肌が立っている感覚があった。潮の香りがあるような夜気が藤川には見える気がした。その煙のように靄のように漂う空気が自分の体を通って、そのまま広岡の住む住宅まで向かうと思った。寝るときには脱いでいた部屋着のジャージを取りに戻ると、折りたたみのテーブルにあるたばこが開け放した窓から入る月光と空気を受けてそれだけが光っているように見えた。一本だけ喫ってから出かけようと藤川は思った。

 ひどい空腹感があると、たばこの香りもいっそう濃く感じられた。香料の少ないそのたばこからふだんになく葉の青いにおいがした。流れがわかると錯覚させる風のなかを、その幻覚から引き離すように煙がたなびきにおいが立った。広岡は何をしているだろうと、藤川は考えた。

 同じ格好のまま部屋を出て牛丼屋まで歩いた。深夜でも営業しているのはそこくらいであった。

 街灯の橙色の明かりを満月の光が打ち消していた。藤川はベランダに立っているときよりもはっきりと風を実感した。風の含む水気が自分の髪に絡まり濡れる気がしていた。じきに梅雨入りであった。雲もない月ばかりの空の端にいくつか大きな星が染みのようにあった。古く背の低いビルが並んでいて時折り月はその陰に隠れた。けれども光と風はそこにあった。藤川はぬるい風が手先に当たる感触がもどかしかった。頬や首を撫で伝う空気だけは心地よかった。

 また喫いたくなった。喫煙所は店の手前にある公園にあった。そこでまた葉の青臭さがわかるようなたばこが喫いたくなり、その心持が食欲より強いと感じて苦笑した。その顔をだれかに見せるというようにわざとらしく笑った。この気持ちを広岡にでも話したかった。

 喫煙所といっても道路から離れたところに吸い殻スタンドとベンチがあるだけで、そのうち条例で取り払われるそうだった。いつ行っても人のいない公園の隅の喫煙所を藤川は好いていた。一人でいたかった。しかし広岡のそばにもいたかった。彼の前で喫い、青臭い葉の香りがするたばこを自分が喫っていると知ってほしかったし、あるときにそのたばこの香りを嗅いで自分を連想してほしかった。このたばこが藤川自身であると思ってほしかった。

 それでそこのベンチに広岡が座っていたから藤川は目を見張った。広岡もすぐに気がついて声をかけた。

 「眠れなかった」と広岡は笑んだ。

 「私も」藤川はすぐに火をつけて喫った。

 広岡もほとんど同じころに空腹を感じて目覚め、散歩してから店に行くつもりであると聞いた。藤川は彼の話を聞くうちに、高熱の感のある胃の上に現れた幸福を発見した。不意に見ることができた広岡の顔が愛おしかった。

 「今から食べたら体に悪いかな」広岡が言った。

 「朝ごはんってことでいいじゃん」

 藤川はこのまま食事をして広岡と別れるのが妙に名残惜しくもあった。一方で胸の満ち足りている感覚を考えると、あとは食欲さえ満たせばよいようにも考えた。二人はしばらく話さなかった。広岡はどこともない遠くを見ていた。藤川は残りわずかなその一本を嗜んでいた。香料のあいだにたしかに香る葉のにおい、細かい蒸気が混じっているような風、林の枝葉を抜け落ちる光。そこに広岡に向かう名状しがたい情動が溶けて風に乗り、彼の体を通り抜けるような夜気と一緒に広岡に知れてしまう。藤川は広岡を見た。

 「そろそろ行く?」広岡が尋ねた。

 「うん」

 車が一、二度通過しただけで通りは静かであった。低いビルと住宅ばかり並ぶ周辺は満月の光と街灯以外、なかった。風も不意に止み、夜気は湿った空気として場に静止した。すると暑く感じられた。出処の判然としない熱が身体に湧くのが藤川にわかった。それから熱のために胸にあった多幸感が霧散するのも藤川に理解された。

 眼前の広岡が離れて消えていく気がした。

 歩道に向かう広岡を藤川が後ろから抱いた。

 「ごめん」と言う藤川に何も言わず広岡は立っていた。広岡は彼女の腕のきつい感触を知り、肩に顔を埋める藤川の呼吸と熱を知った。彼女の体が呼吸で上下していた。ときおり鼻をすすっていた。

広岡は向き直って、あらためて藤川を抱いた。固い抱擁であった。



     おもかげ


 長雨が続く季節に入った。昼夜となく湿った風が流れ、つねに本降りのように激い雨が降った。舗装されていない近所の公園はすぐにぬかるみ、人が寄らなかった。海は雨を受けて黒く見えた。海洋に出る船もいくらか少なかった。

 広岡は大学に用があるから歩いていかなければならなかった。事務係に書類を出す用であったが、もうその締め切りも近いからぐずぐずしていられなかった。けれども引っ越して大学が近傍にあるのはよい仕合わせであった。バスに乗って駅まで行き、四駅離れた大学前の駅まで電車で行くのは金ばかり嵩張った。広岡は通学の間に田園を見た。田園を抜けると海が見えた。大学は海の近くにあった。構内も海の香りが漂っていた。

 大しけの海でひどいめまいのようにうねる高波の音が聞こえた。水を撥ねながら進む車の音もあった。平常は潮の香りが風の中に臭ったが、梅雨になってから重力の強くなっている感覚すら与える湿気と豪雨の中で幻のように嗅がれた。広岡は藤川の喫っているたばこの臭いを思い返した。彼自身の持つ大略的なたばこの臭いに、嗅ぎなれない妙な香りがあるのを知っていた。しかし広岡は尋ねられないでいた。喫煙するときの藤川の目のたたえるうら悲しさが、自分への軽蔑に思われて彼の口をつぐませたのだった。広岡は不意に藤川の視線に気づいた。まったく凪いでいながら湿り気のある目であった。あるいはその目を他に向けた。やはり悲しい目であった。けれども広岡が見るうちではもっとも純で澄んだ目でもあった。親に叱られた後の、心持を言葉で表せないでいる子どもの顔であった。それが冬の海のような荒涼を秘めながら、危うい美麗を抱えているのを広岡は感じずにはいられなかった。彼女に呼びかけると寂寞の顔は変面のごとく消え失せて、もとの優しい笑みのある藤川に戻ってしまった。そういうゆえんから、広岡は、藤川が喫っているときにはほとんど話しかけないように心決めていた。

 その藤川のことを、引っ越しのとき彼女と会った両親が、恋人だと思ったと聞いて、広岡は驚いたのだった。たしかに親密な仲ではあるけれど、二人は恋仲には至っていなかった。しかし指摘されれば、なぜ交際していないかを反論できないほどである。彼は自分の本意について考えた。もし自分と藤川のことを尋ねられて説明しても、納得してくれる人はないだろう。彼はすこしため息をついた。

 狭いなかに何棟も建ててある構内はそれでも人がいないと寂しかった。事務係のある棟はなかでももっとも遠かった。自動販売機ばかり光っているそばを通り抜けて城のように複雑な建物の群を抜けた。

 書類を渡すだけであるから用はすぐに済んだ。書類に不備のないことを職員に確認してもらって、彼は帰った。あとは事務係の仕事である。広岡の役目はこれで終わっていた。

 室内は静かであったが、その建物の入り口まで出てくるとまた激しい雨音がした。傘は少しも乾いていなかった。

 梅雨の水気のある空気の中に、広岡は一瞬ばかりたばこのにおいを感じた。藤川の喫っているものだと悟って、見回して彼女を探した。彼女がまたうら悲しい顔をして虚空を見ているかと思うと、片時も見逃せない気になった。けれどもそれは自分の服に沁みたにおいであった。



 騒音


裏道は風があっても近くの料理屋のダクトから流れる料理のにおいばかりした。日が落ちれば涼しくもなったが、それでも蒸して、薄い生地の毛布で寝ないと暑かった。遠くから聞こえる珍走のバイクのエンジンが轟音を響かせているのが蠅の羽音のように騒がしかった。彼らは運送業のトラックや出張帰りの車両が通る海沿いの大通りよりも内陸の山へ向かう大通りを好んで走った。その音が町中に響き、藤川と広岡がいる中華料理屋の前の小通りにもひどく大きな音で響いた。藤川は餃子を二人前も食べながら、中ジョッキに生ビールを四杯飲んだ。広岡は炒飯と中華麺を食べながらひたすら搾菜に箸を伸ばしていた。盛況な店内はテレビのスポーツ中継の音と人の声とでうるさかった。その間に、アルミサッシの入り口の向こうから珍走の走る音が耳鳴りのように聞こえた。店は換気がうまくいっておらず蒸し暑かった。汗をかいた藤川の白いシャツが彼女の背に張りついて黒い肌着がわずかに透けた。広岡は不意にそれを知って、気まずかった。

 「どこか行こう」

 藤川がジョッキの底に残ったビールを見ながら独りごとのように言った。注文した料理は全部食べきっていた。広岡はセルフ・サーヴィスの搾菜をまた小皿に盛り、食べた。

 「さんざん飲んだじゃん」

 「でも、どこか行きたい」

 「俺の家まで歩いて帰って、それで散歩代わりじゃだめなの?」

 藤川は「だめ」と残ったビールを飲み干してから言った。さすがに暑いのか据え置きのうちわで自分の顔に風を送っていた。広岡は、自分の家でも藤川の家でも構わないから帰りたかった。互いに水を一杯飲んで会計を済ませて店を出ると、珍走を追っているのか警察のサイレンが珍走のバイクの音よりずっとうるさかった。その音に頼って藤川は「どっか行こう」と叫んだ。店の中の客の何人かが外にいる二人を見た。

 「それか、もう一軒」

 「飲めないし、食えない」広岡が言う。

 「だったらドライバーやってよ。バイクがあるでしょ?」

 「あんな珍走の輩も目じゃないような」広岡の家の方角に藤川は歩きだした。

 「酔ってる人うしろに乗せられないよ」

 俺も飲んだし、と広岡が世迷言のように言う。

 「ちゃんと掴まってられるから」

 藤川は急に広岡の胸にすがった。自分より背の高いはずの藤川が子供に見えて広岡は笑った。広岡も男の中では十分な身長であったが、それに並ぶほど藤川は背の高い女であった。

 途中からわざと嘔吐するような声を出している藤川の手を引いて広岡は彼女の部屋まで送った。二人の部屋はそう離れていないから、どちらの部屋に行こうと変わりなかったし、寄り道してからでもそう遅い時間にはならなかった。藤川は家にもうないからと缶ビールを買いたがった。広岡は無視した。

 熱っぽい空気が充満していた。



     ブルー・モーメントに会う


朝方の曇空が幕を開けるように晴れてしまうと、それと同時に春は霧散してただ夏だけが残った。夜の湿っぽい空気のなごりが風のなかに打ち寄せるとき、そのうちに青い草木のにおいと土の香りが立っているのを感じずにはいられなかった。シオカラトンボなどはもうそこらにいた。

 海とは何だったろうか?

 これが藤川の内側に現れた、ほとんど天啓じみた疑問だった。それがどこから来たのか、何を伝えうるか、藤川にはまったくわからなかった。それで彼女は実際に考えてみた、海とは何であったか。

 「海は海だよ」と独りごちてみた。


   海:うみ。


 すくなくとも間違いではない。海は海である、というのは、トートロジーの成しうる隙のない真理だ。彼女は藤川葉子で、海が海であるのは、ことばのうえで考えれば、それと同じくらい自明な事柄である。藤川は海について別な事実を与えようとした。


   海:きわめて広大な水たまり。塩辛い。魚類などの水生生物がいる。


 しかし塩湖との区別はどうしよう? 藤川はベランダに出て、たばこに火をつけた。そうして喫った。香料がすくないから葉の青いにおいがわかる。煙が肺を冒していると藤川は思った。風のなかに生きるものの香りがある。それは同時にあらゆるものの熱源である。草の香、花の香、土の香、人の香、あるいはほかのさまざまなものの香が、藤川の体を昂らせる。彼女は凪いだ大洋を考えた。沖でときおり白波が立つばかりで、風もなく、船が蹴波を残しながら過ぎていく。細かいうねりが粒のような光を撥ねて眼窩が痛む。それが海だ。


   海:凪の日は、沖でときおり白波が立つばかりで、風もなく、船が蹴り波を残しながら過ぎていく。細かいうねりが粒のような光を撥ねて眼窩が痛む。


 これはいかにも映像描写の書き起こしで、定義というよりはある場面を書き出しているに過ぎない。藤川はその一本を喫うあいだ何も考えなかった。ただ思い悩む顔を作って正面にある空き地を見た。新緑の茂りはじめた地面に何があるのか雀がつついていた。離れた木にもその群れが止まっているのが声でわかった。小鳥の拍動はヒトのそれよりもはるかに速いにもかかわらず、その(比較的な)短命によって、結局の総計はほとんど等しい。この簡単な思いもたばこのにおいや煙のあいだにかすれていた。藤川が今考えていたのは、そのにおいである。はたして肺を病ませる煙をすすんで喫うのは、そこに避けがたき魅惑があるからにほかない。箱から次の一本を取るときに、藤川は箱を半分潰した。包装フィルムの滑らかな感触が今は不快だった。全身からヤニがにおい立っている気がした。手のひらにはとうに悪臭として染みつき二度と抜けきらないと思うと、掻きむしってでも拭い取りたかった。手にした二本目に火をつけたら、そこからまた青いにおいが昇る。そうすれば心惹かれながら、きっとみずからが汚穢に蝕まれる感触を食らう。海はもしかしたら、その穢れに対する禊かもしれなかった。


   海:我が身についた穢れを落とし清める場。


 しかし海はつねに茫漠で、それはある種の虚無性を帯びている。磯の香を生きているもの、死んでいるものの臭いの総体と思えば、いかにも無常の表れであり、空虚の念につながる。それゆえに海は虚であり、ただに禊や祓をするための場だけでない。海は広いあまりにほとんどすべてのものを受け入れてしまう。それがかえって虚無を生み、磯の香という強烈な証左をつねに残してある。


   海:つねに漠たる虚。


 空き地の雀がしきに高い声で鳴いていた。動物の鳴き声がわれわれには理解できないために、おおむね無意味に聞こえるだろうが、そこの雀らの鋭い声の交わし合いは、もっとはっきりした意味のある会話に聞こえた。危険信号か、強い威嚇かを表しているような激しい調子である。雲の少ないために自由な日射が、草のあいだの白っぽい土に跳ね返った。そのなかに雀は黒い点として絶えず動いている。海も似たように騒がしいかもしれないと藤川は思う。この雀の群れのごとくに、海の生物はわれわれの知りえない活潑な意思伝達をやり合っているだろう。海はきっとそういうものだ。


   海:ヒトの知覚できない言語がある。


 海をさらに実体験的に考えなければならないはずだった。というのは藤川の思考が空想のうちを巡っているから。彼女がいまだに安楽椅子探偵じみているから。潮の香を感じないままに空理をこねていると、知らず識らず果てのない想像が先行した。現実の海が遠く退けられて、以上のような空想が結論に立った。本物の海を見なければ何もわかりえない。

 いざ物事に意味を与えようと動いても、そこには不十分な説明よりほかに施せない。これは一般論かもしれない。藤川は広岡に電話で話しながら思った。我々は結局、何に対してであれうまく言い表せない。それはおそらく人間の怠慢または言語の欠陥のせいである。

 「でもすくなくとも海が何かなんて言えなくても困らない」藤川は言ってみた。

 「それはそうだ」と広岡。「でもそうしたら話が途切れるだろ、聞きたいことはそのことだったんじゃないの」

 「たしかにそうだけど、でもさ、景、こういう話を大真面目に語りだすと面倒かも」

 「葉子がいいなら僕はいいよ」

 「気にはなってる」と藤川は言った。

 「ならそれこそ、見に行けばいいんじゃないの、海を」

 「一緒に行こう」藤川はこだわりなく時計を見た。正午だった。

 「僕はかまわない」

 「夕方に行こう、借りた映画が今日までだから、それを見てから」

 「『ブルー・モーメント』」と広岡が言い当てた。

 藤川には、顔の周りに広岡の香がある気がした。


 海というのは藤川の家からも、あるいは広岡の家からも車でしばらくかかった。映画のディスクを片手に持ちながら、彼女は地図を読んだ。見晴らしのいいところを選ぶなら、片道で一時間半は必要だ。到着して何をどれだけするかなど予見もできないけれど、夕方に出るというのは悪くないかもしれない。ブルー・モーメントと藤川は声にした。夏の盛りなら、ちょうど海に着いたころは、力ある音すら聞こえそうな夕明かりの輝く橙色が喪われて、ふいに厚く静かな群青色に変わる。そのときこそが、ブルー・モーメントだった。

藤川の借りた映画は、そういう激しい情動と少しの動きもないどこか冷めた空気が一体にしみこんでいるようだった。内側でのべつ燃えている感情の上を、質感のある冷気が吹き続けていた。人はそのせめぎ合いのそばで嘘みたいに冷静な目をしている。物語はある日の明朝に始まって、数日後の暮れに終わった。二、三人が現れて暮れの粗い闇の中に半分だけ混ざり合った。冷気に水のにおいがある。藤川は思った。

 肌の表面に拭えないほど細かい汗の粒が噴き出ていた。全身が妙に粘る感触の不快感が離れなかった。それも腰を落ち着けて映画を見るうちは何ともなかったはずが、終幕を迎えたあとの、夕に入るころ、まさしく輝いている日の光線が部屋の奥深くまで照らすなかでは、いかにも蟻走感的に体にあった。藤川はにじむような暑さを払いたくてシャワーを浴びた。また潮風に当たって肌や髪がベタベタするかもしれない、と藤川はそのあとで丁寧に拭いた腕をさすりながら考えた。

 広岡からすぐに電話が来た。

 「何してる?」

 「今はね」と藤川は言った。「ニュース見てる」

 「どんなニュース?」

 「んん……北部の豪雨の話とか」

 「こっちは雨降らないよね?」

 「まあね」と藤川は言った。

 「もう迎えに行ける。いつ出よう?」

 「来ていいよ」

 「すぐ行く」

 広岡は本当にすぐに来た。

 今から海へ行けばちょうどまぶしいほどの輝きが失せるころだった。それは海自体がその一切を呑みこんでしまうようでもあったし、あるいは太陽が海の冷たさによってまったく蒸発してしまうようでもあった。太陽は結局、と藤川は思った、どこへ行くのだろう? どこへも行かないというのはすこし誤謬があるかもしれない。けれど太陽はそのまんなかにたたずんだままでいるはずなのだ。回っているのは我々の地球であり、火星であり、水星であり、云々。広岡は運転をしながら何か口ずさんでいた。それはヒッツの一曲で、しかし広岡がまじめな顔をしてそんな流行歌の鼻歌などするとは思わなかった。藤川はどこに根拠があるかもわからない期待が裏切られてなぜだか不服だった。

 車は藤川の家のそばの道を駅まで行くと、国道に入って下道を商業街へ向かった。そこに近づくほど、騒がしさや街灯とヘッド・ライトの光は増した。まだ涼しさすらある夏を帯びた大気のなかに鳥の群れが飛んで消えた。そこは町明かりも日光もない中空だった。鳥の声は窓を閉め切っていてもよく聞こえるうえ、開けると言うまでもなくうるさいさえずりが二人を揺さぶった。日は燃え尽きる寸前のもっとも強い光を撒いていた。それらがガラス張りのビルや車のミラーに反射してどこを向いてもまぶしかった。

 「松ヶ浜」と広岡が言った。

 「すぐそこでしょ?」

 「三十分はかかるかな」

 「道が混んでるから、まだかかるかもしれない」と広岡は苦笑した。

 ブルー・モーメントは今少しだけ先だった。まだ日光はその鮮烈な光を残していた。ラジオ番組を流すと、広岡の鼻歌にあったヒッツの途中が聞こえてきた。


 海辺に近づく路上には車が絶え、なかった。日の光が粉のようにまぶされた車内に熱が入った。海辺の道につながる道を走っているときからすでにきらめく海面が見えていた。それは藤川の見た『ブルー・モーメント』に出てきた海の風景と似ていたかもしれない。間に合ったことに二人は安堵した。

 駐車場から浜まで向かっていまだ力を残している日が海面に浮かんでいるのを彼らはじれったく感じた。そのうちもう一度車を出して近くの店でアイス・クリームを買い、車内で完全な日没を待った。しかしもうじき日は入るはずだった。

 「海とは何か」広岡が口を開いた。「だったよね、昼話してたこと」

 「だいたいあってる」

 「海は」と広岡は哲学者がある種の命題を話すときのように言った。「我々の推りえない自然物だ」

 「うん」

 「すくなくとも海の正体を、というよりは定義を簡単に語ることは僕らにはできない」

 「うん」

 「海には力がある、僕らを呑みこんでしまうほどの」

 「うん」

 しかし何かが足りないと藤川は思った。自分のスニーカーの太いラインを目で撫でた。

 「たとえばさ」と藤川はアイス・クリームの包装を片結びにしてグローヴ・ボックスに入れた。「海は単純に大きな水たまりとも言えるじゃん」

 「うん」

 「そういう感じでうまく表現できないかな」

 「辞書的な意味で考えたいの?」

 「そう」

 「難しいな」彼は伸びをした。

 広岡は車を駐車場から出してまた海辺に向かった。そのなかで彼は知っている海の名前を挙げた。太平洋、大西洋、紅海、黒海、死海。あるいは、日本海、有明海、博多湾、若狭湾、東京湾、陸奥湾、根室湾。

 日はとうに沈んでいた。雲間に橙色の光が淡い輝きを残しているばかりで、それもしだいに弱まった。そのときが来ようとしていた。ブルー・モーメントと藤川は口にした。失われた日の燃えるような色合いが跡形もなく消え去ると、海辺はまったく静かな青色へと変わった。恐ろしく濃い青色だった。離れた灯台の光がときどき二人に届くだけだった。浜のまんなかに座った二人の周囲に張り詰めた青が黙然と広がって、体を透くような気さえした。昼の熱のこもった空気に比べると今は明らかに冷たかった。そのなかに夏はもう来ていると知らせるような象徴的な潮のにおいと松林のなびく音と虫の声があった。

 そして眼前にある、空よりも深い青の凪いだ闇が、海だった。

 ブルー・モーメントと海はたった今、彼らの目の前にまさに現れた。



     与木浜


 中秋の浜は人がいなかった。遠洋にさざ波が立っては消えて泣哭する声のような音を出した。薄灰色の雲がかかり、日光が透けて海面に差していた。防風林が乾いた葉擦れの音をさせて藤川の胸に障った。音に妙なじれったさがあった。広岡が「寒いね」と言うのに微笑を返した。

 「ここらへんは禁煙だよ」と広岡はたばこを取り出した藤川に声をかけた。

 藤川が苦笑を作った。

 浜を端から端まで歩いた。海からは立つ波の音が、道路からは車の走る音が、二人には耳鳴りのように聞こえていた。黙ったまま浜の真砂に足が取られて引きずるように歩いた。広岡は足元の砂浜の感触を意識した。緩く足を掴み離す砂が靴に入り込んでいる。波の音が、砂浜の発する声に思われていた。

 じきに冬が来るのは肌を指す乾いた風でとうにわかっていた。それでなくとも時期が来れば秋も終わり冬が訪れるし、あとにはまた春になる。そのころも一緒にいるだろうかと二人はそれぞれ声に出さず思った。藤川は自分の部屋の自分のベッドで眠る広岡の顔を想像した。彼のにおいが急に香った気がした。

 浜の端に禿げた断崖があった。高いところにわずかばかりの褪せた草があるだけであった。二人はそのずっと下にある浜に座って、しばらく海洋を眺めながら話した。

 「夕飯どうする?」と藤川が言った。

 「どこかに食べに行こうか」

 「作りたい」

「二人で作ろう」と藤川は言い直した。

 「何にしよう?」

 「何が食べたい?」

 「餃子かな」広岡がすこし考えて言った。

 「好きだね」藤川が笑みを見せた。「いいよ、作ろうか」

 「ひだ、うまくできるかな」

ふたりは笑った。潮のにおいがあった。

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