2021年度・九州大学文藝部・初冬号
九大文芸部
凍る前 作:日立無紗
凍る前
最悪とは言いたくない、最低とは言いたくない
時間に沈み眠るなかで濁っていく
きらめくものが顔に降りかかって眩しさを感じては世に憚り
眼窩に刺さる光線の一筋ひとすじが私を殺してるんだよ
知らないはずないよね?
居るべき場所なんてないよって居直れたらいいのに
面白くもない話に笑えたらいいのに
そうやって新しい私になれたらいいのに
何も変えられないなら凍るしかないんだよ
それが無理なら自分を削って合わせないと
何も変わらない、心移りのない半透明の私が
ようやくあなたの話に笑う
過去を振り返って
過去なんてないのに?
目を覚ましごらん
そこには何もないのに?
君には生きてほしい、なんて言う、その声、まなざしの妙
味のない私、抜け落ちた私、欠落した私は苦しくなってあなたの前からいなくなる
視線の鋭利が半睡の膜を貫通して耐えがたい苦しみで体を起こす
体の脱落した感覚が治らない
もう凍りついているのに
きれいなものも見過ごしていたいのに
陰鬱な森にさまよう私は木漏れ日のせいで生きている
川端にはすすきが揺らめいて
山のさざめく音が聞こえる
虫の音の細かく煩わしいなかにあなたの声がする
私はそこに向かって歩いている
蹴落とす
間違いを重ねて 掲げて 笑ってごまかして
流れていかない過去に捕まったまま 知らないことばかり
見過ごして 聞こえて 手の届かないところへ
完璧の夜空が濡れそぼり しおれた枯れた小さきものたちは
世界をいろどる濃やかな海のなかへ逃げ隠れてまみれながら
消えない幻の連鎖をそこに残している
私の作るとぎれとぎれの連鎖を見下ろすままに
嘘みたいに汚れたきれいな輝きで私を照らして隅に追いやっている
あすも同じことばかりだから
私はここで梅雨とともに
成しかねたすえに残されたものを食べきれないまま
日が傾いても 宵に溶けても
私と 私と 私が ここで ここで ここで
悲哀を重ねて 掲げて 蔑んでごまかして
翳りのない未来を前に しがらみに引っかかったまま 余計なものばかり
憶測で話して 気おされた鋭敏で分かち合って
回想を重ねて 掲げて 笑ってごまかして
避けられない反動に捕らわれたまま いらないものばかり
欲しがって 話して でも叶わないままで
偕に塵埃
皆いつしか塵になりぬべし
たとえば石になった私
風に摩されて身をすり減らす
ただ今ある苦しみだけがどうにもならないのである
たとえば草になった私
風に従い身を倒し、ついには萎れ枯れ落ちる
ただ今ある苦しみだけがどうにもならないのである
ただ今ある苦しみだけが、どうにもならないのである。
波や空
上にあるか下にあるかもわからずに
ただ遠くにあることだけ、そのほの明るい流体にたゆたっていることがわかる
手は届かず、暮れなずむ生命・消えざる意識のうちに、
私の基底となる原初の魂が、離れたところで輝く光の煌々たるを求め体を揺さぶる
手は届かぬ
生の幕間の希死念慮や仮死は、そんな安いものではないはず
狂言のような自傷劇を一度、二度、繰り返しては増えてゆく鮮紅の二筋、三筋
生きかけと死にかけを繰り返し 苦を、昔を振り返ってしまう
あのころのまま? あのころのほうが?
体を持ち上げても向かうところはなく、次の身を横たえるべきところまでさまよい
私はいつまでもあのころのままの葦
考えもしない忘れもしない独りの葦
風に身を従えては吹き飛ばされる
行く先は知らぬ
贄
身勝手な愛の連鎖に生み出された錆のような者たちが
悲嘆に沈み、塵界に身を縮こませ、草の葉の陰にも潜めず
仕掛けがない饗宴に差し出された肴のような者たちが
汚い膿を手に浮かべ、深海に身をゆだね、無駄の仮想だけに拘泥する
そこだけを切り取って、共感の目を潤ませ、新しい体になれたらな、と思う
どこまでお人よし?
好感の顔をして同じ星を仰いで 気がつけば
情けないって嘲って見下した
その蔑視を最初から向けてくれていたらよかったのに
私の拙い連鎖を継ぎ留めさせ
嘘みたいにきれいな花で飾っては泥を塗る日々を作ったのはあなた
芥のようなあなた、無自覚なあなた、誠実な愛のもとのあなた、
私の濁りと希望を絶やそうとしなかったあなた
何もなくなるとき
息を止めるのに夢中になって 自分の傷にも気づかなかった
そこから漏れ出していく私の大切なものも感じずに
私は息を止め、脳を麻痺させて、今ここに自分を閉ざそうとしていた
傷口から溢れていったものはなんだろう
今の私が失ってしまった大切なものはなんだろう
それもわからないみたいで、私はまた水を飲む
肺に入った水 私は溺れているようで
息を止めることも続けることも忘れて去年のことを考える
未熟な目で見ていた景色たちも、腐りかかった目ではその光の反射すら!
私の見たかったものはみな嘘みたいな世界で輝いて
その光まで私の網膜を焼くだけになった
知らないこと、知りたくないことばかりだと
耳を塞ぐのに夢中になって 気がつけば
知りたかったこともわからない 聞きたい話も聞けない泥人形になって
悲哀とか憐愍とかのたぐいを生み出す鎖のひとつにもなれない
私はもう何でもない粘土になってしまったようで
海の底に溶けてなくなれたらいいのに
目に耳に流れこんで口から出すはずのものたちは 私の前を通り過ぎ
水に溺れるばかりの私は何も知りやしない
朝焼けのきれいさ、昼の緩慢な空気、夜の静かで美しいことも
草の柔らかさ、虫の小さな生命、花の落ちる虚しさも
漉いてもなおか黒い海に沈みこんでしまって
水の冷たいことだけ、今もこの先も無性に苦しいことだけを
鈍麻で敏感の神経の先に感じている
知らないことばかりの海の底で
このまま、ここで
祈りながら手に刃を当てる
明日はいい日になるように、明日こそは、幸せであるように
見たことのない笑顔と尊敬が私を殺そうとする
私の知らない恍惚の笑みで私が殺される
暗いところに沈没して抑鬱状態の底の底に落ち窪んで過去のことばかり考えようとする
ねじれた腕の千切れた先が帰ってこない
私の肉はあとからあとからこぼれ落ちて
かき集めたそばからまた散らしてしまう
目に映る景色の光の海に流されるだけ流されて漂いつづけたら
どこにいるかもわからないんだから
もうだめになりそうだ
どうしたらいいのって訊いてもいい?
最終手段は使い果たして、今は私もう、もう!
回想のなかに閉じ込まれていたいのに
踏切前 夏 電車が過ぎるまでの景色と
過ぎもしなかった、来もしなかった時間たち
入道雲 淡い青空 坂を下る学生と
失いもしなかった得もしなかったものたち
生を補い合う人もない、苦く淀んだ世界をふたりで歩いて行こうって笑い合う人もない
ただ上昇も下降もできない私、その私の輪郭だけでも
みんなから許してほしくて
私はまた祈りながら手に刃を当てる
どうかこのまま、ここで!
最初の朝
最終電車、人がみんな息を吐く泥の塊になった箱のなかで目をつむると、とてつもない速度に押し潰されて塊にもなれずに消えてしまいそうで、目を開いてしまう。
だれかのそばにいるとき、ありもしない正しさと歩み方の違いを感じ取って、私だけ、と比べてしまう。
朝、目覚めたその瞬間から感じる重力と、結局自分はもとの自分のまま、醜い虫にすらなれずにベッドから這い出ることを思うと、涙が出てくる。
冬の底、どれほど消え入りたいと腕に祈りを刻んでも、あたたかいものを手にしたとき、その瞬間のかすかな喜びから、まだ生きたいのだということが分かってしまって、なおさら自分が嫌になる。
美しい波の寄せては引いていくさまを、招き入れようとしているんだと思うようになって、鮮やかだったはずの世界は汚れて見えだした。
長袖しか着なくなったとき、その安心感に奇妙な快楽を覚えてしまってから、私はもう自分の素肌が、裸体の剥き出しの感触が、まるで受け付けられなくなった。
何回目か、残り何回かも分からない胃の満足のための煩いの時間、相手の表情を見ておもしろくもない話に笑みを塗りつける時間、ふとした充足の直後またふいに訪れ無際限に続行する体の空いた時間、私は背に床の温度をたしかめながら、祈りの線をなぞり痺れる痛みが私の性の半分なのだろうと感じる。
でも、こんなにも生きたいということを言葉にしたいんだよね?
涙を流して、手に残った祈りの痕も薄くなりだして、朝にすこしの希望が持てるようになると、今度こそきれいになったかなって期待する。
そうしたらまた君に会いたくなんかなって、私はもうすこしだけ持続する。それがまた最初の朝になる。
溶ける赤
感傷的な塗り潰しから逃げ切れないうちに生き過ぎてしまった
衝動的な線引きを繰り返すうちに育ち過ぎてしまった
その私を陽だまりに押し出す盲目博愛主義のあなたと、あなたと、あなたしかいない白に
どうやったら居続けられるんだろう?
無色透明に腕をつけてその流体に意味を付している快楽の往路をひとりで歩いていくうち
焦りばかりのひどい復路の行き止まりにあなたの手が差し伸べられる
いつも取りすがってしまうそのきれいな手をいつの日か恋しく思って涙が出るんだろう
最初から私の心臓、あげておけばよかった
そうしたらいつでも握りつぶせるのにね
でも痛いのは嫌だから
雲みたいに霞みたいにいなくなれたらいいけれど
静止も持続も簡単にはいかない世界の冗談みたいなつまらなさに
笑いかけてみるしかなかった
その静かな愛想と愛嬌との地表では、本当を話す必要もないらしい
観照的なまなざしから逃げ切れないうちに生き違えてしまった
聖道的な生命を遠ざけるうちに履き違えてしまった
生死も世俗もどうでもいい私の真っ白だったはずの部分に
あなたの血が流れていればよかった
そうしたらたぶん、分かり合えたのにね
あなたと同じなら、私を半分にしなくて済んだのに
ありあまる涙が、何よりも濃い汚れた赤色にならなくて済んだのに
腕に残り目につく染みなどなかったはずなのに
私はまた再燃する
無意味な拍動に焼きごてを当てて、
すべて断ち切るほどの激しい燃焼に耐えられない感情から消えていく
痛覚のないはずの肉体から上がる叫びのひどく煩わしい音は
ソファのうえに横たわる私のすさぶる魂の底から響く
私は耳を閉ざす
閉ざす
手紙
助けてほしくて泣いてるんじゃない
私を私のなかで正すために、どうにか新しくなるために
苦しいとか悲しいとか恨めしいとか全部蒸発させているだけ
寂しくて煙を吐き煙(けむ)に巻かれてるんじゃない
清潔に戻ってはまた汚れていく私を隠すために
本心まで秘めてしまったらだれにも理解されなくなっただけ
誠実ごかしのきみにはわからないかもしれないけど
きみの心をくり抜いて私の体にはめ込んでみたい
私の欲しがったものがきみのなかにあるみたいだから
そんなにいいものじゃないけど
私の心をえぐり出してきみの体に埋め込んでみたい
きみの感じたこともない水浸しの感覚もようやくわかるよ
それでいいなら
ふたりいっしょに新しくなるために
ふざけないでとか殺してやるとか死ねばいいのにとか全部蓄えておくから
きみももっとあからさまに私を憎んでみて
羨ましいとか妬んでるとかどうしてお前ばかりとか
私を憎んでみて
おまえの作った
できなくなってしまった できないことも忘れてしまった
体が溶ける前に心を潰して 潰して
耐えることも面倒になったころに、古い青い筋もようやく消えるころに、
夜をふかしたあとの青ざめた空の病的なきれいさ、
つまらないと聞き流していたあなたの話の何気なさを!
体が溶ける前に眠って 心だけになる前に眠って
過去の嫌なこと、受けた罰も全部なかったことにできるはず
自然な気持ちでそのくそつまらない話に笑えるようになるから
体が溶ける前に眠っていたかった
きみのその話が痛かった
わかりあえないことをあなたのせいにしていたい、してみたい
いま どうしようもない私に翼をください、って言いたい
どうせ変わらない
お前の作ったわだかまりなんて
私から謝れたらいいんだろうけど
自信持って言えるくらいのひどい自尊心をどけられなくて
だから、正しい私に対置される、ぐしゃぐしゃにしたいおまえ
おまえだけが間違いなんだ
みんな みんな 報われなくなれ
ごめんね
今はどうしようもなく眠たい
最悪の春
抱えたものがなんなのかもわからないけど
頭の上を通り過ぎていくものから身を隠して
いつも呑むものすること思うこと 祈りは瞬間的な救いで
そのあとでならすこしは素直でいられる
「あたしとおんなじ」?
いっしょにしないでよ
たとえば 私はあなたを殺したい、殺したい、殺したい、から
でも あなたは私のこと知らないでしょ?
自分が何をするためのものなのかもわからないけど
どうにもならないみたい、と笑い合ってみる
いつも苦しい悲しい恨めしい 守られすぎた体の重み
動けるようになるまであともうすこし
「でも気持ちはわかる」?
いっしょにしないでよ
いつか あの子に生まれ変わりたい 変わりたい 変わりたい から
でも あなたは「汚いあたし」「醜いあたし」が好きでしょ?
胡乱な再放送
概して嘘になってしまう愛憎の絶頂さえ
火を継ぎ足してつなぎとめてる
ささいないらだちが消してもよかった火を生かしてしまう
大事に隠し持っていた犯行の計画さえ
記憶にならないと愚痴をこぼしてる
また傲岸が消えないはずの意思を逃してしまう
ぎこちなくも気取ったような偽善ぶりで
意味がなくとも背負った異様な因縁つきで
花が咲くか羽が舞うかまた祈る
惨憺たる居眠り ささやかれる陰口に
一生濁った胡乱な両眼で
死に惑い
正午を過ぎても動かない体
どこかへ行きたくなるほどどこへも行けない
何を考えるときも連れ添うそれを潰しても、潰しても、そう
いいんです、もう、って笑う余裕はまだ残ってるみたい
どうでもいいときに泣けるくせに今は泣けないんだから
私たちどうしようもないね
笑みといっしょに消えてしまうから捕まえられないし
危ぶむころには全部取り返しつかないんだから
ずるいよ、私はことばより早く届くものに震えて
切り離した自分を潰して、潰して、でもなくならないのに
だめになりたい気持ちもないなんて!
夕方、血を落として笑う
何もできないけど助けてほしいから
やりたくもない迷路のなかで切り崩して、切り崩して、もう
大丈夫だよ、って笑う余裕はまだ残ってるみたい
自分ひとりが苦しんでるみたいな顔するんだから
悪い夢かもしれないね
ことばに間を作って遊ぶからもうわからなくなるし
もがいたころにはにおいまで変わってるんだから
知らないよ、傷だらけの指人形で終わらせて
ほつれた感情に視線を突き立てて、でもまだ間歇的な愛
何も覚えていないなんて!
許せないよ、目に光る秘密、嘘だらけの口の皮を剥いで
いらないものなら抉って、抉って、でも合わせられないのに
合わせたい気持ちもないなんて!
自己投与ガール
切り詰めるほど圧するほどに血が絞られていくなら
意識は境界の虚ろのなかに溶けこむ
私はあなたではまずありえないし、
それどころか私はもう私ですらなくなった
生きることの間に、人の間に落としこまれた意識はあらぬほうへと逸れ落ちて
ひっくり返った虫と同じ、空転して無駄死にする
机から落ちて潰れたのは私の心臓です
何を日記にすればいいんだろう?
答えはもう私のなかにはないらしい
もし今私を私に重ねようとして笑ってるんなら
意識してそれってやばいよ!
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