オリジナル 1

@shouma-m

第1話 冬から春へ

   つい昨日まであった気持ち、いま残っている思い、何度も失い続けたもの。


3月のはじめ、風はしつこく寒く、うっすら涙目のわたしは昼過ぎの空を一瞥する。

さすがにそろそろ暖かくなってきてもいいのにね。

雑音と、雑音と、雑音、それから雑音

幹線道路を走る車の音、音響式信号機の音、喫茶店の鐘の音、歩く人のナイロンスーツの衣擦れ

複雑な音の重なりは静かにわたしを通り過ぎていく。

冬のあいだ散々舞い踊った粉雪のような気持ちに区切りをつけてひと月、ようやく雪はなだらかな丘になった。

風が吹けば簡単に舞い散ってしまいそうな思いをまだ抱えながら、少しずつ自分を取り戻していく。

これからきっと春が始まる、きっと暖かくなる。


 県営の貸会議室の受付業務をしているわたしはお昼の食事を職場近くの喫茶店で終え、自席に座り短い仮眠をとる。

古いエアコンの不快な暖かさが壁紙に染み付いた昔の煙草の脂を浮かし空気中に漂わせているような空間で意識を飛ばしているとじわりじわりと汚れた空気がまとわりつき、手のひらをべたつかせる気分になる。

定刻、ぬるりと業務を始める。といっても取り立てて予約を受け鍵の受け渡しをするだけのことに気負うものはなく、漫然と予約システムの画面を眺め、利用者記録のエクセルファイルを指示通り、かつ意味のない修正を重ねるのが仕事だ。

無意味な指示はわたしの背後、2m後ろに机を構える短髪白髪でこれでもかとお腹を丸く膨らませた成宮さんが出す。

そしてそのまた2m左側の場所に机を構える太く長い眉毛におでこの広がった男性、加藤さんがその修正内容に修正を重ねる指示をだす。

この不愉快なべとついた空気はエアコンの問題だけでなく、いつも不機嫌をまき散らしているこのふたりを起因としている、きっと。

『不機嫌なふたりと陰気で悲壮なひとり(わたし)』

韓国のはずれラブコメドラマのタイトルにもならない。とにかくこの部屋にいると鼻水が止まらない。外との寒暖差か、埃っぽい壁のアレルギーか、気持ちのせいなのか。

仮眠しても退屈は眠気に寄り添い、わたしはウトウトと誤字を打っては消し、消そうと思ってBSキーを押したつもりが延々と「¥¥¥¥¥¥¥……」と打ち、BSで消しという不毛な作業に取り掛かった。またおもむろに席を立っては煙草を吸い、席に戻ってまた打っては消し。まったくわたしというのは怠惰で能力も向上心もないのに他人に不満ばかり、自己の悲しみや喪失感にだけ敏感でどうしようもないな。そう思うとなんだか笑みが湧いた。しかしこの気持ち共有する人はもう居ないのだ。


 わたしが逃げたから。心になだらかに積もった粉雪は、いとも簡単に溶けて涙腺から溢れた。落ちた滴はデスクマットに落ち、黒鉛と消しゴムの跡の上で汚く散った。


 手元にティッシュが無く、手のひらで滴を伸ばして取っているとお客様がお見えだった。慌てて鼻についた涙(鼻水?)を手でぬぐう

「恐れ入ります、株式会社メープルシステムの塚口と申します」

挨拶が始まったが、わたしの容姿は大丈夫なのだろうか。焦りに支配されたままただ聞いていた。

「この度、こちらの会議室を連続で間お借りしたいのですが来月のどこかで空いているお部屋はありますか?」

10日間連続か、なかなか大口のお客だな。まあ県営だから大した金額にはならないのだが。

そんなことを考えながらシステムで空きを調べる。

「14日~28日まで空いている部屋が1室ありますね」

「では、土日を抜いて14日から10日間……27日までですかね。とりあえず抑えてもらえますか?」

「はい、かしこまりました。料金ですが、少々お待ちください……」

とやっていると加藤さんがやってきた。

「どういった使いかたします?」

「あ、失礼しました。私共の会社では大学や研究機関における計測データ収集にご協力いただける方を募集して日程調整等の事務作業を代行しておるのですが、この度名古屋の国立大学で実施される視覚障碍をお持ちの方を対象とした行動実験を計画しておりして、その実施スペースの確保をと思い、こちらの施設にうかがわせていただきました」

「ふーん」

加藤さんもわざわざ感じ悪く話に入ってきたわりには興味もなさそう。単純に人を嫌な気持ちにさせたい趣味があるのだろう。

「なんで名古屋の大学が神戸で実験するの?視覚障害者だって名古屋にもいるでしょ?これだけじゃなんにもわからないのでお答え出来ないですね」

彼はなぜ断りたいのだろうか?この青年が愛想良く清潔感があり、誠実そうで賢そうだからだろうか。そもそも会議室を借りるのに用途なんか規定に反していなければ問わないでしょうに。

成宮さんも首を突っ込みにきた。

「実験というと室内で大きな音や声を出しますか?」

「いえ、室内の床にマーキングをして指示通り歩行していただくという内容ですので大きな音は出ないと思います。歩くといっても目の見えない方がゆっくり歩くものなので。床のマーキングは期間中貼りっぱなしにはなりますので、そこをご了承いただければと思っております」

「マーキングはテープで?まあ構わないんじゃないですかね」

良かった笑、成宮さんは変なひねくれは無さそうだ。

加藤さんはまだ不満らしくしつこく口を挟む。

「契約者は私企業になりますよね?そうするとこちらの表示価格の五倍の料金になりますよ」

ああっ、そうだった。普段はNPO法人や特定非営利活動法人の団体が利用することがほとんどなので頭から抜けていたが、確かにそんな規定はある。話の流れを成宮さんに任せようと黙っていると成宮さんも腕を組み眉間に皺を寄せ目を瞑りながら天を仰いでいた。

「そうですね、確かにそういった規定があります。料金にご納得いただければ部屋は空いておりますので直ちに押さえます」

またわたしは黙ったまま青年塚口さんを見た。「なるほど」そう、呟いたまましばらく静止し

「分かりました、予算的には厳しいのですが他に当てが無いので一旦日程を押さえていただけますか?もし料金的に条件の良い施設が見つかったらキャンセルさせていただく可能性があることになるので恐縮ですが、ご理解いただければ助かります」

「それは大丈夫ですよ一週間前までならキャンセル料金は掛かりません。そういう規定ですので」成宮さんは淡々と話した。

「ありがとうございます。また確認等出てきましたら改めて連絡させていただきます。よろしくお願いいたします」塚口さんは深々とお辞儀をし颯爽と階段へ向かっていった。ここは6階、エレベーターを使ってはいかがでしょうか……

それにしても加藤さんは面倒な人だ。今もわざわざ舌打ちしてから自席の椅子で強いため息を吐いた。

成宮さんは無言でPCに何かを打ち込み、帳面に何かを記入した。きっと無意味なのだろう。ここはまたジトッ…とした温くベタつくこもった臭いの空間へと変わった。これがいつものこの部屋だ。

もう1時間もすれば今日の仕事も終わる。今必要なことは帰り道に食べるクレープの具について考えることだ。レアチーズにしようかベイクドチーズケーキにしようか、ソースはマーマレードかブルーベリーか、はたまた。

本日二度目の新鮮な空気を運ぶ鮮やかな影が訪れた。

「すみません」

あっ、さっきの青年塚口さん?だ

「先程の会議室の料金についてですが、契約主体が私の会社だと当然民間企業価格になるかとは思うのですが、契約者が国立大学法人だと五分の一の標準料金でお借りすることは可能なのでしょうか?」

「え、ああ。そ、う…少々お待ちください」

なるほど、それならいけそうだ。短時間でのどんでん返しに少し気持ちが浮いた。

「いやいや、実際使用されるのはあなた方…メープル…システムさんですよね?」加藤さんはやはり譲りたくないらしい。

「いえ、私どもは実験の実施に向けての調整や手配を代行しているだけで実際部屋を使用するのは大学の教授や職員さん、学生の方が実験の実施進行をされることになります」

「でもあなたも当日部屋を使うんですよね?」加藤さん、少し無理筋に思うが、食い下がるなー

「いやー、当日はお手伝い程度に付き添う可能性はありますが基本的には私は不在になる予定なんです。これは方便としてではなく実態として大学の方が使用されるということになるのではないかと思い本日二回目の相談に参らせていただきました。例えば料金の支払いを大学から支出してこちらの施設から出る請求書も大学宛にしていただければそれが可能なのではないか、これをなんとかご協力いただけないかというお願いでございます」塚口さんは頭を下げた。

「料金のお支払いは大学の先生が直接お支払いになるということですね…請求書も大学の先生に直接お渡ししますよ?」

「承知しております。まだ確認はしていませんがそのように調整させていただきます。ありがとうございます」塚口さんは再度頭を下げて迷わず階段を使って帰って行った。

 これで時間的にも本日の業務は終了だな。

帰り支度を始めるわたしをかすめて成宮さんはもう自席にてブリーフケースを片手にスリッパから革靴に履き替えようとしていた。

「宮本さん、今日はお疲れさま。お先に」

と言いながらわたしの椅子の背もたれに触れた。そしてわたしの机のペン立てから定規を取り出し靴ベラに使い、そのままペン立てに戻した。

 このときの気持ちを説明する言葉をわたしは持たないが、あえて単純化すると怒りと屈辱だろうか。頭皮に鳥肌が立ち、手足の爪の中までかゆくなった。ペン立てごと捨てて買い直したいが費用は自腹になるのでそんなことはできない。

このペン立て付近を触ってしまうと帰り道のクレープを手で受け取るなんてことはできそうにないので、せめて加藤さんよりは早くこの部屋を出て、施錠は押し付けよう。




↓メモ

整頓された焼菓子の詰合せ箱のような笑顔


適切な余白をもつデザートのお皿のような装い


ぼくは誰にでもさっさと裏も表も見せてしまうんだ。人の持つ裏表に書いていないけどたしかにあるもの、それこそがその人の本質って気がするんだよね



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