第四話 「出立」 ①

「グワン、グワーン」

 力一杯に打たれた銅鑼どらが、つんざくように大きく鳴り響いた。出立である。


「各船は、警戒をおこたるな、船影が見つかれば、すぐ知らせるのじゃ。」

 王濬おうしゅんらは、楼船から下流方向である北を眺めている。


 太陽もすっかり登って、右手からの日差しは突き刺さんばかりである。風も殆どなく、巨大船の連舫は、長江の流れに乗ってゆったりと北へと進んでいる。


「イー、アル、サン!イー、アル、サン!」


 威勢よい水夫たちの掛声かけごえが響き渡る。小気味よい律動は、力んだところもなく、如何にも軽快である。進撃を意味する銅鑼の音は、余韻よいんが途切れてはまた打たれ、一点の間隔を守っており、長江の流れに乗っただけのようなゆったりとした船速を維持するべきを伝えている。


 馮紞ふうたん張牧ちょうぼくも今日ばかりは王濬らの旗艦にある本営に同乗して、ひたすらに楼上から下流方向を凝視ぎょうししていた。

 

「天候にも恵まれ、これは予定通りに秣稜まつりょうまで着きそうですな。」


 張牧は、馮紞に話しかけた。馮紞は一瞬、目線をこちらに合わせたが、何も言わずにすぐにまた下流の方向に向き直した。その表情は少しばかり硬いようである。そうして、四刻(約一時間)も過ぎた頃だろうか。進行方向の左手に晋軍の軍旗が見える。おそらくは揚州軍が臨時で設営した基地だろう。更には、下流方向に無数の船影が見えてきた。


 物見が大きく声を上げる。


「前方に船影あり!!その数およそ三十、距離は、、、およそ三十里!!!」


 おそらく呉の軍船であろう。各船の詳細まではよく見えないが、それなりの規模の船団で、白旗を掲げるわけでもなく、こちらへ向かっており、襲撃を企図していることは、明らかであった。王濬が声を張り上げる。


「構わぬ、我らは順流におる。このまま進撃せよ! 流れに逆らう愚か者は、蹴散らすまでよ。銅鑼を続けよ。」 


 (うんむ、この調子でいけば、もう二、三刻もすれば、会敵か。これは戦闘も避けられぬか!)


 張牧がそう独言どくげんした刹那せつなである。


「バタン!!」


 不意に作戦室の戸が開き、今度は思わぬ急報が入ってきた。


「王将軍!江左に陣する安東将軍よりのげきであります!急ぎ陣営に参内し、後事を共に論じるべしとのこと!!」 


 その途端、王濬の目の色が、変わった。


 この当時、軍令の伝達などに用いられたげきとは、(通常の文書が封を施され、受け取った宛先の人物以外に見られないように工夫されて発信されることとは対照的に、)封を施さずに木簡そのものを誰にでも読める様にして発信された文書のことである。つまり、檄とは、公開を目的に作られた文書であり、それを使って伝令する場合、伝達の間にもその意図することを広めることができるのである。それ故に伝令を伝える檄には目立つように鳩羽にて飾られており、飾られた檄は「羽檄うげき」とも熟する。


「檄を使ってまで、吾が参陣を求めるとは、安東将軍の方も必死であることよ!」


 個人宛の文書での伝令であれば、王濬ら幕僚間にて握り潰すことも可能であるが、公開することに機能的な目的を持つ「檄」という形で伝令された以上、王濬としては、その応答を全軍にハッキリと示さなければならない。そして、王濬としては要請に対して否定的に対応する目算である以上、一軍を率いる将帥としては、一時たりとも逡巡しゅんじゅんの色を周囲に見せる訳にはいかなかった。


「風は、吾らに利あり。泊まるわけには行かぬ。構わぬ。このまま進軍せよ!」


 江北の揚州軍は無視して進軍する。これは既に昨日の軍議で決まったことである。消極的な姿勢を再び呼び起こさぬよう、王濬は、力強く指示を出した。


「王将軍、他にも揚州刺史の周浚どのより、こちらの信書が来ております。」


「よい、こちらに」


 王濬は、周浚の信書を手に取り、開封してしばらく黙読すると、唐突に「はっ、はっ、はっ、」と大笑した。


「なになに、『私の知るところでは、孫皓は、宝財をばら撒いて将士に配ったので、府庫は既に空である。』だと、聞いて笑わせるわ。吾が目先の財貨に目がくらんで、秣陵の陥落を急いでいるとでも言いたいのか。財貨に目が眩んでいるのは、一体どちらの方だ。大いに笑わせてくれよるわ。」


 そう言って、王濬は、周浚の信書を穏やかな手付きでクシャクシャと丸めて、これ見よがしにポイっと捨ててしまった。


「諸君、我々が目指すのは、偽帝・孫皓そんこうの首でも、ましてや秣陵宮城に溜め込んだ宝財などでもない。我々が目指すものは、三国太平の世である! 旭日きょくじつのごとく正々堂々と、高らかに銅鑼を打ち鳴らし、前方の賊どもを殲滅せんめつせよ!!」


 そう言って、王濬は伝令し、進撃の銅鑼をより強く、より短い間隔で打ち鳴らさせた。


(これでは火に油ではないか。こうなっては、誰も龍驤りゅうじょう将軍をもう止めることはできないな。)


 張牧がそう思っていると、王濬の左右に侍る何攀かはん李毅りきも、心なしか似たように苦笑いを浮かべている様であった。船外に目をやると、左手に見えていた揚州軍の陣営は、見る間に後方へと過ぎていった。対岸の王渾と周浚は、さぞご立腹のことだろう。もう後戻りは出来ない。


 そうこうしている間に、今度は、前方、下流側の船影に目を凝らすと、おそらくは二百人乗りの巨大戦艦・楼船が、二十隻はあろうか、全て白旗を挙げていた。それを見た何攀は、事もなげに言った。


「降伏にございますな。東呉主力の船団と言っても、全く敢ないものですな。」


 張牧がそれに続けた。


「我が軍団が、強大すぎるのでござろう。これでは敵方も戦意を喪失して当然といえましょう。」


「直ちに拿捕だほして、その将を連れてくるように!」


 王濬は、それがごく当然の帰結であると言わんばかりに、強い口調にて指示を出した。


 敗軍の将は、遊撃将軍の張象といい、史書によると牛渚から下流の三山さんざんの地で王濬に降伏したという。三山は、現在の南京市の南方に「三山営」の名が残り、市中心部まであと七十里(約30キロ)というところである。孫呉最後の軍事的抵抗は、こうして何事もなく降伏という形で終わった。


 こうして、遂に大船団が視界の右手前方に石頭城を捉えた。この時、太陽は丁度、南中の位置を占めようとしていた。


「王将軍、孫呉から降伏の使者が参りました。光禄勲こうろくくん薛瑩せつえい、及び無難督ぶなんとくの周処の両名とのこと。」


 再び、伝令が旗艦の作戦室に入りそう告げると、直ぐ様、馮紞が反応した。


「はて、光禄勲といえば、宮城の警備を司る大官にございますな、無難督とは聞かぬ名じゃが。」


「まぁ宜しい、通しなさい。昨日来た偽太常の張夔ちょうきも一緒に参内させよ。」


 王濬が手短かに守衛らに指示した。しばらくすると、太常の張夔、光禄勲の薛瑩、そして無難督の周処の三名が兵士に囲まれて物々しく作戦室に入ってきた。


「将軍殿、お初お目にかかる。大呉の光禄勲、薛瑩にございます。」


 そう言うと薛瑩は、恭しく拝礼を行なった。


「ようこられましたの。して?」


「は、皇帝は、天命が大晋にあるところ知り、帰順したく存じております」


「なるほどの、昨日の張夔殿の降伏文書は、真意であったと言うことか。それにしても先程の大船団はなぜじゃ? 戦いもせず白旗をあげておったが?」


「あれは、武辺のもの、彼我の大きさも、天命の帰するところも、分からぬものが、先走ってしまったのでございましょう。ただ、我らが首府を守ろうとの思いからなしたことにございまする。何卒、ご寛恕かんじょを。」


「お互いに損害があった訳でもないことであるし、武人たるもの祖国防衛にたける気持ちがあるのも当然じゃ。まぁその件は宜しかろう。ところで、薛瑩殿。お連れの将軍は何者じゃ?無難督とは聞かぬ官号じゃが?」


「これは、大変失礼仕りました。このものは、無難督の周処にございます。無難営の督軍にございます。無難営というのは、宮城の近衛兵、漢制にいうところの羽林うりん虎賁こほんの士でありまして、それらを統括しておりまする。」


「なるほど、宮城には災難があっても困る。故に無難か、なかなかに孫呉でも雅に号するものだな。」


「は、お褒めには及びませぬ。周処よ、例のものを」


 薛瑩がそう促すと、周処は、沢山の印章・節符を懐から取り出して、王濬らの机の上に広げて見せた。(バラバラと沢山の印綬いんじゅや節符が机上に広げられたが、一辺四寸四方とも言われる玉璽ぎょくじは、そこにはなかった。)


「これらは、すべて宮城近衛兵の印章と節符にございます。孫皓らは、石頭城にて肉袒にくたん面縛めんばくして将軍の御到着をお待ちしております。」


 肉袒面縛にくたんめんばくとは、自らを罪人と認めて、上半身を裸に自ら縄を縛って降伏を求める伝統的な降伏時の儀礼である。


「なるほど、江辺に依って割拠したとはいえ、流石に一時は荊揚広交の四州をまとめた大国は礼を心得ておるな。こちらも大晋の礼節に恥じぬように石頭城まで向かうと致そう。ところで、昨日の張夔殿もそうであるが、貴殿らも玉璽は持参しておらぬのか?」


「玉璽のことは、内殿(後宮)にてのことでございます。我ら一般の官吏が関知できるものはござらん。誠に申し訳ござらぬ。」


「まぁよい。御三方とも、石頭城には一緒に着いて来てもらうぞ。下がってよい。」


 王濬がそういうと、警備の兵卒に連れられて三名は下がっていった。


「これで、いよいよじゃ。我が軍はこれより、秣陵とその出城である石頭城の占拠行動に移行する。すべて昨日の次第どおりに粛々と進めよ。くれぐれも欲得に大義を見失うことのなきよう!」


 王濬は、くどい程に念押しした。


「それから、安東将軍にもご案内差し上げねば。允剛いんごう(李毅の字)よ、秣陵降伏につき、これより巴蜀・豫州、諸軍合同軍は、上陸し占拠行動に入る旨、揚州軍に伝えよ。昨日の降伏文書の写しも送ってやれい。」


「は! 将軍の仰せのままに!」

 

 ***


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