それはたぶん、雨よりも透明な自分だった

きぬもめん

生まれた時から重たいものをもっていました

 奇病である。稀に見る奇病である。

「無理ですね」

「駄目です」

「どうしてこんなんになるまで放っておいたんですか!」

 匙投げのバーゲンセールのようだった。何度目かの病院を追い出されながら僕は顔色の悪くなった母に言う。

「もうあきらめようよ」

 母は言う。

「絶対に嫌」

 幾度と繰り返された問答に僕はいつもの相槌を打って消毒液臭い空気を潜り抜けて外に出た。目に痛い白さを抜け出ると、鼻孔にふわりと甘い匂い。湿り気を帯びた土と草、そして雨雲の匂い。

 脳をしっとりと濡らしていくような新鮮さに僕は胸を震わせる。それを思い切り吸い込もうとして

「馬鹿な真似をするのはやめて」

 それを止められる。母は防護服に袖を通しかけたところだった。

 制服に皺がつくほど食い込んだ指にああ、白いなと思った。


※※※


 余白の余った体育館に全校生徒が集められた。中央に固められたように生徒が寄せ集められ、壁に沿って教師が僕らを監視するかのように立つ。独特の匂いがする空間で、ぼうっと上を見上げていた。ネットや照明の間に挟まったバレーボールを数える。

「それをこれから言うんだろ。ああ、怠いなあ朝っぱらの集会なんてさ」

「一時間目潰れそうだからいいじゃん。なあ、それよりこの間のソシャゲでさ」

 ひい、ふう、みい。首が痛くなってきた。あの引っ掛かったボールたちはいつになったら回収されるのだろう。僕が入学した時からずっとあるような気がする。

 いつものようにボールの視点に立ってみる。そのものからしか見えない視点を想像すると魂が頭から抜けて、いなくなれる気がするから好きだった。

 気づけば僕はネットに引っかかり、ゆらりゆらりと天井からクラスメイト達を眺めている。広い体育館の中央にギュッと固まった生徒たちはできの悪い寒天みたいに不揃いででこぼこだった。黒の頭が判を押したようにいくつも並び、頭と服装が不自然に揃っている。

 今ここで声を出してもきっと彼らには届かないんだろうな。あの列に戻ることはきっと二度と叶わないんだろうな。

 緑のネットに体を預けながら、僕は思う。そして自分から遠くなったはるか下の景色にいつも寂しくなるのだ。


「え、えー。静かに。校長先生のお話しです」


 マイクの声が終了の合図だ。ふぉんと鳴った耳の痛くなる音に僕は自分の体に戻ってくる。怠くなり始めた足の片一方をフラミンゴみたいに上げながら、もったいぶった話の続きを待った。

「えー。今週はよく雨が続きますね。実のところ私も今朝は傘を忘れかけまして」

 頭に入ってこないうんたらかんたらに思う。校長先生の話には「時間です」のベルが必要じゃないだろうか。ちーん、時間です。のあれ。

 それで時間を三分とかにしてしまえばきっと導入の世間話もかっ飛ばせる。校長先生の話と言うのは校長先生以外得をしない。生徒も先生もどこかだるそうに話を聞いていた。

「それでですね、生徒の皆さんにはきちんと雨についてお話ししたいと思いまして」

「なら教室で放送でもよかったじゃん」

「な。なんでわざわざ集会なんてするんだか」

 僕も座ってる方がよかった。窓際の席は風がよく入ってくるし絶好の昼寝ポイントなのに。少し淀んだ空気の中、そよ風に前髪を揺らされる感触を感じながらの昼寝がいかに気持ちいいかを校長先生はきっと知らない。

「えー、雨の恐ろしさについては、えー、皆さんもご存じかと思います。えー。しかしですね、えー、先日残念なことに保護者の方から連絡がありました。えー、全く持って残念です」

 校長先生の「えー」を数えたら六回だった。

「本校の生徒がですね、傘を差さずに雨を浴びていたというんです。えー、悲しいことですが雨の恐ろしさを理解できなかった生徒が子の中にいたと言うことで、皆さんには今一度雨がどれほど危険なものか今一度お伝えしようと思います」

 先生という生き物は連帯責任が好きだ。生徒で囲む手作りの檻。全員の責任にすれば一人のミスを見逃さなくなる、眼球の監視カメラの完成。

「誰がやったんだよ」

 ぽつり、と監視カメラの起動音が聞こえたところで僕は手を上げる。もう足がだるいから、どうでもいいから座りたかった。


「僕がやりました。もういいですか」


 監視カメラが一斉にこちらを向いた。今日のお昼はコンビニで海苔巻きでも買ってこようか。


※※※


 食べて起きて寝て。それを何回も繰り返している最中に、この世界はバグってしまったらしかった。

 連日ニュースは同じ話題を取り上げつづけ、僕の好きなアニメの時間も侵食された。皆で同じ場所だけを見続けているような、不思議な強制力だった。

「薬物の混入した雨が世界各国で発見されています」

 悲鳴、混乱、騒動。混乱の回転ずしだった。知ってる国と知らない国が交互に並び、どれだけ驚いているのかを映し出す。皆口を揃えて「怖い」「困っている」を繰り返していた。


 テレビの向こうで戦争が起きて、テレビの向こうで戦争が終わった。どこぞの国と国どうしの小競り合いを僕らはポテチ片手に観戦していた。

 それがテレビから抜け出てきたのはほんの数か月前。ここでも「薬物の雨」を観測してからのこと。

 戦争が殺したのは人間動物植物住宅。それに雨が加えられた。どんなことをしたらそうなるのか、戦争の副産物として生まれた雨は危険な薬物を含んでいると朝から晩まで聞かされて。翌日のコンビニにビニール傘と雨合羽は残っていなかった。

 

※※※


 別に親が嫌いなわけでないし、学校も好きじゃないけど憎んではいない。もう慣れてしまった校長室で、頭を下げ続ける両親をぼんやり眺めていた。

「困るんですよ。毎回毎回、他の生徒が真似をしたら」

「申し訳ありません!」

「よく言って聞かせますので!」

 きっちりと巻かれた頭髪と、皺ひとつないスーツ。この二人のどの部分から僕は生まれてきたのだろう。四角にぴったりとはめ込まれた箱詰めのような両親は熨斗を巻いたお歳暮のようにきちりとしていた。

 ひとしきり謝って、「もうしません」を何度も言って。校長室から出る。本当に僕は両親も学校も嫌いではなかった。

 引かれる腕に食い込んだ爪がほんの少し痛かった。


「どうしてこんな子になっちゃったのかしら」

「なにか悩みでもあるんじゃないか」

「あんな雨の中で、私もう恥ずかしくて」

「もう子供じゃないんだ。いい加減しっかりしてもらわないと困る」

 言いにくいことはいつも扉越しに告げられる。もし聞かれてしまったらしょうがない、その体でラッピングされた不満がガラス戸の向こうに積みあがって行った。

 母さんは行ける全部の病院に行ったし父さんは相談できる人すべてに相談した。けれど誰もが顔を顰め匙をぶん投げる。二人ともすごく頑張ったのだ。だからどうか、僕のことは天災かなにかだと思ってほしい。

 じっと頭を下げて待っていればそのうち過ぎ去るものだから。どうかその時まで耐えてほしい。大丈夫。次の雨がくればいい。


 いらなくなったものを持て余していたら、痛くない捨て方を見つけたのだ。だから誰も悪くない。


※※※


「どうしてこんなこと」

「なんで相談してくれなかったんだ」

 一番初めに見つけたのは母だった。道路にほっぽり出された僕の制服を拾ってくれたのだ。ちゃんときれいなパンツを履いておいてよかった。


 家族のことも学校も別に嫌いではなかった。ただ、ここにいるべきは自分ではないなと感じていただけだった。

 多分僕は電柱の上にある電灯とか、ネットに引っかかったままのバレーボールになるはずだったものが何かの手違いで人間になってしまっただけなんだろう。

 致命的な手違いで僕はここまで生きてきた。その終わりどころ見つけられただけだから、別に誰も悪くない。

 肉体を溶かす雨は予想通り、僕を魂だけに剥いてくれた。波紋をつくる水たまりまみれのアスファルトをすべるように漂いながらどこに行こうかと考える。

 まっさきに浮かんだのはバレーボールを抱く緑のネットだった。

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