16.ローデンでの過去 ファマルの決断

 僅か一夜にしてローデンより西に広がる平野の勢力図を一変させたカナギシュ族の族長ファマルは計画に確かな綻びが生まれた事を自覚していた。


 仇敵ボレダン族を飲み込み、セヌトラ川周辺の平野を手中に収めたカナギシュ族を、西方諸国は今までと違った目で見ることは確実。


 ゾス帝国と言う大きな壁に発展を阻まれていると信じている西方諸国は、ゾスの支配に風穴を開けるかもしれないと言う希望と、いつ自分たちが牙を向けられるかもしれないと言う恐怖を抱く事になる。


 そうなれば、今まで油断させるためにボレダンに貢いできたぜいたく品や金銭よりも、グレッグに渡していた賄賂分も上回る財が永続的に転がり込んでくる。


 ローデン領に限って言えば、国境警備隊のグレッグと組み一進一退を演じることで、西方諸国から金銭を幾らでも巻き上げられる。


 金さえあれば武具も飼葉も幾らでも揃えることが出来る。


 そうして勢力を拡大し続けて帝国を脅かせるようになれば、更に財が転がり込む。


 だが、その甘い夢は一人の来訪者の登場により綻びが生じた……いや、霧散したと考えた方が良いだろう。


 来訪者の名はベルシス。ゾス帝国八大将軍の一人、ベルシス・ロガ。


 グレッグが賄賂を受け取っている事がバレることを恐れ、ベルシスの処遇について急ぎ打診してきたその時から嫌な予感はしていた。


 帝国が辺境と呼ぶ北西部の警備隊長の中では扱いやすそうなグレッグは、有事に際しては取り繕う事も出来ず、一人で行動を決めることが出来ないと露呈したからだ。


「今少し自分で動けるかと思っていたが」


 賄賂で転ぶ奴はこの程度かと肩を竦めながらも、数日中にはどうにかしたいと言うグレッグの要望を聞き入れて、ボレダン族襲撃の日に人質として引き渡せばどうだと持ち掛けた。


 ファマルの言葉は通りにグレッグは動き、ベルシスがボレダン族に渡された所までは良かった。


「結局、親父殿もゾスの将軍を甘く見ていたと言う事だ」


 まだ年若い息子のウォランは手厳しい事を言い、全くだとファマルは蓄えた顎髭を撫でやりながら苦く笑うしかなかった。


 なんと、かの将軍はボレダン族を指揮してカナギシュの包囲陣を突破して見事に逃げおおせた。


 そればかりか、ボレダン族の生き残りが命を賭して追撃を阻んできたのだ。


「大帝国ゾスの将軍……小僧ゆえ血筋ばかりと侮っておったが、ボレダン族が命を捨ててまで守ろうとするとは……」


 その報告を聞いた時、ファマルは何かとんでもない存在の産声を聞いたような落ち着かない心地になった。


 ボレダン族の必死の抵抗を下して、漸く野営地で馬を休ませている時にゾスの進軍の報が届き、ようやく訪れた勝利に浮かれかけていたカナギシュ族の頭を殴りつけた。


 ボレダンの捕虜は、ゾスの将軍ベルシスはファマルの策を読み切り、ボレダン族を激励し自身で指揮を執った笑いながら語った、そこには彼らの矜持が見えた。


 堕落していたボレダンの誇りを取り戻させた将軍が無事にローデンに戻れば、必ずや反撃に転じるだろうとはファマルも考えていた。


 だが、それは他の地域の警備隊を集めてから行うと踏んでいた。


 何故なら、ローデンの警備隊はグレッグが鼻薬を嗅がせて腑抜けにしていると言う話であったし、ファマルも戦の喧騒が領主に届かぬように館を取り囲み待遇の改善を叫ばせろと指示していたからだ。


 だが、ここでもベルシスはファマルの策を見破ったのか、警備隊を取りまとめて攻めてきたと言う。


「数は!」

「良く分かりませんが、おそらく警備隊全軍ではないかと……。ローデンは既に領兵であふれてりましたから」

「領兵まで参集してはそうだろうな。何という手際の良さ……だが、その数は我らより下回る筈」


 そこでファマルは迷った。


 数多の策を見破ったベルシスが、数的に劣勢な状況で攻めてくるだろうか?


 自分ならばそのような愚は犯さない。


 カナギシュ騎兵数千を相手取るのならば、少なくとも千の騎兵と数千の歩兵や弓兵が必要だ。


 戦も知らない蛮族であれば、怒りに駆られて攻めてくるかもしれないが、相手はゾス帝国の将軍、果たしてそんな勝算のない戦いをするか?


 疑心暗鬼に囚われたファマルが戦闘を避ける方向で心を決めたのは更なる物見の報告のせいだ。


「ゾス軍は騎兵のみ二百ほどが突出してきます!」

「……手を出すな」

「たった二百ほどの騎兵です! 打って出ねばカナギシュの沽券に関わりますぞ!」

「命令だ、交戦するな」


 ファマルの言葉にカナギシュの男たちが怒るが、彼の息子ウォランは静かに頷いて父の言葉に賛同した。


「明らかに罠だ。夜陰に紛れて歩兵で迫るのならばまだ分かるが、我ら相手に騎兵で挑むとは裏がある」

「いや、夜に馬を走らせる程度にはゾス騎兵も鍛えてあるから、驕りがあるに違いないっ!」


 確かに馬と共に生活しているカナギシュ族でも夜半に馬を走らせる行為は危険が伴う。


 夜に馬を駆る行為は乗り手に負担がかかりすぎる事はカナギシュ族ならな誰でも知っている事だ。


 馬より夜目が効かない人間にとって、障害物があっても分からない夜は危険なのだ。


 だから、ボレダン族に奇襲をかける際も日中に行った。


 ファマルは部族の有力者たちの言葉を吟味する。


 十中八九、罠であろう。


(だが、二百の騎兵で……まさか、牝馬ひんばでもかき集めて来たか?)


 ファマルは最悪を想定し、小さく呻く。


 春先の今の時期は確かに馬は発情期であり、取り扱いに注意が必要だ。


 戦闘で使う馬は牡馬おうまと去勢した馬だけで固めているのも、発情期に備えての物だ。


 馬は賢く良きパートナーだが発情期に牝馬ひんばを前にした牡馬おうまは違う。


 繁殖に使わない馬は去勢して気性を落ち着けてあるとはいえ……もし二百の牝馬が放たれればどうなる?


 数千の馬が言う事を聞かなくなる恐れもある。


(まさか、そこまで馬に熟知しているはずが……。しかし、小僧とは言えわしの策を見破っている、そうでは無いという保証があるのか?)


 ファマルは考える、下手に逃げればファマルは惰弱とせっかく纏めた部族内が割れる。


 ボレダンを破ってすぐに、窮地に立たされるとは、世の中は上手くできていると言うべきかと苦笑を一つ浮かべて、三柱神の一柱である戦装束の淑女に仕える腰の曲がりかけた老いた神官を見やる。


 戦神、馬と乗り手の守護者たる戦装束の淑女はどの様な託宣を与えるのかと。


「族長、考えの通りに動けと神は遂せです。決して侮るなと」


 神官の言葉にファマルは初めて背筋が冷たくなるのを感じた。


 ボレダン族が命を賭して突撃しベルシスを守ろうとしたときに感じた得体の知れない不安が鎌首をもたげる。


 それもその筈で基本的にカナギシュの神官は迂遠な物言いをする、どうとでも族長が解釈できるように。


 しかし、今は違った。


 常にはない自信に満ち溢れ、もう曲がりかけている腰をしゃんと伸ばして言い切ったのである。


「退くぞ。連中の馬が牝馬であれば、この平野は一夜にしてゾスの物に変わる」


 ファマルが決断を下せば、カナギシュ族は野営地をそのままに各々の馬に跨り、その場を離れだす。


「親父殿、ホラウ殿が手勢を連れてゾスに向かったぞ」

「帝国の将軍が無策であれば、わしは族長の座から引きずり降ろされるな。だが、そうでなければ、奴は殿として敵に向かったのだ……そういう事にしておけ」


 己の息子にそう語り、ファマルは己の愛馬へと向かった。


 後日、カナギシュ族のホラウと三百の騎兵が討ち取られたと聞いても、ファマルには驚きはなかった。


 だが、ある一つの決断を下す。


「ウォランよ、息子よ。ゾス帝国は強大だ。そして、敵を知らねば戦にならぬ。お前はゾスに赴き帝国を学んで来い」

「……分かった。だが、行くのは帝都か?」

「――ロガ領だ」

「それは、今回の将軍の?」

「ベルシス・ロガは今はまだ小僧、だが、わしの策はことごとく見破られた。そんな男がどんな生活をして、教育を受けて来たのか……。学んで来い」


 ファマルが負けを認め、即座に対応するための策として行ったこの決断が、カナギシュ族とベルシスの、いや、世界の運命を変える一手になるとは、当の本人である騎馬民族の親子に分かる筈もなかった。

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