青い影

カフェオレ

前編

 十二月中旬のこと。ふと窓の外を見ると雪がちらついていた。おそらくこの辺では初雪になるのであろう。雪なんて毎年見ているのに、冬の到来に言い知れぬ感慨を抱く。しかしそれ以上に憂鬱な気分にもなる。

 いや、僅かながらも期待感を持てることがせめてもの救いかもしれない。妻の美咲みさきと結婚し、子供が生まれるまでの数年は雪を眺めていると、あの日のことを煩悶し、泣き叫ぶことさえあった。それが今ではクリスマスや正月といったイベントを楽しみに感じたり、厳しい寒さや除雪作業に対する覚悟など、冬に対して挑戦的にもなれたりする。やはり家族は持つべきだ、特に私は——

 しかし、気を抜くとあの体験がフラッシュバックする。やはりこれはあの日のことを忘れてはならない、ということなのだろうか。

 あの頃の私はあまりに無力だった。幼さ故と言ってしまえばそれまでだが、それでもやはりやるせなさが胸を締め付ける。ああやはり、私はまだあの冬の恐怖に囚われている。


 *


 二十年前のあの冬。私はまだ小学五年生だった。

 その年は年明けから記録的豪雪で、道は雪が占拠し、車など出せず多くの人が家に籠ることを余儀なくされていた。小学校は休校が続き、冬休みが延長された形となったのだが、私は新年早々、高熱で寝込んでいた。正月のテレビや外に積もっている雪などを見ることが出来ず、大変つまらなかったのを覚えている。

 その日は熱もだいぶ引き、久々に父と母、そして私の家族三人そろって夕食を食べ、禁止されていたテレビを見ることが出来た。しかし、少しはしゃぎ過ぎたのか、夜の十時頃にまた熱を出して再び布団の中へと戻された。

 熱は相当なものであったらしく、私は布団の中で夢とうつつの間を行き来するような酩酊感に襲われていた。

 しばらく微睡んでいると、どこか遠くでチャイムが鳴ったような気がした。私の寝室は一階にあったので玄関のチャイムは比較的大きな音で聞こえるはずだったので、それで目を覚ましたのだろう。

 こんな時間に来客かと不思議に思った。最も時計を確認するほどの余裕などないので、正確なところは今なお分からない。

「はい、どちらさんですか?」

 父の声をはっきり聞いたのを覚えている。相手は名乗ったはずだが、私には聞こえなかった。

 父は玄関を開け、しばらくその人物と話しているようだったが、二人は一緒に外へ行ったようだった。なんだか深刻そうだったので布団から僅かに起き上がると同時に部屋に母が入って来た。

「ああ、雄也ゆうや寝てなくちゃ」

 母は私を優しく咎めるように言った。どうやら様子を見に来てくれたらしい。

「寝てたけど起きちゃった。誰か来たの?」

 私は母に聞いた。子供ながらに夜の来客というものに不信感を抱いたからだ。

「田中さんの親戚だって。正月だから挨拶しに来たら雪に足止めされてるんだって」

「ふーん」

 田中さん、というのは近所の老夫婦であり、我が家とはそこそこに近所付き合いがあった。

「で、その田中さんところの旦那さんの体調が悪いらしくて、車を出したいけど人手が足りないから、お父さん雪かきに駆り出されたのよ」

「そっか。田中さん大丈夫かな」

「まあ結構な年だからねえ。間に合えば良いけどなぁ」

 母はその後ゆっくり寝てなさい、と言い部屋を出て行った。

 そして私は再び眠りの中へと誘われた。それからどれほど経ったのだろうか、チャイムの音に起こされた。父が帰って来たのかと思ったがチャイムを鳴らしていることに違和感を覚えた。またあの親戚とやらが来たのか。

 今度は母が行き、軽く言葉を交わすと私の寝室に入ってきた。

「ああ、また起こしちゃったね。雪が思った以上に深いらしくて、ちょっとお母さん雪かき手伝ってくるから待っててね。すぐ帰ってくるからね」

「うん、気を付けてね」

 本音を言うと体調不良も相まって相当寂しかったが、私はそう気取られぬよう努めたつもりだった。

「あんたこそね」

 そう優しく言い、母は出て行った。


 三度目のチャイムが鳴った。父と母は雪かきを手伝っているので私が出るしかない。そう思い、這うようにして寝室から玄関まで移動した。ふらつきながらも玄関の鍵を開けると、そこには青い厚手のブランケット、というより毛布のようなものを羽織った男が立っていた。毛布で男の顔はすっぽりと覆われていた気もするが、熱でうなされていたので、はっきりとは思い出せない。

「おお坊主、熱らしいけど大丈夫か?」

 男は気さくに私に話しかけて来た。熱を出して寝込んでいるのを母にでも聞いたのだろう。

「うん、ちょっとふらふらするけど」

 ああ、そうかそうかと男は言っていた。

 開けっ放しの扉からは冷たい風が入って来た。そこまで風は強くなさそうだが、雪が果てしなく降り続いていた。

 玄関から見える道には辺り一面雪が積もっており、自分が知らない間に世界はこうなっていたのか、と感心していた。

「坊主、雪かきするか?」

 男は私にそう言った。

「いや……やめとく」

 私は拒否した。こんな弱った子供になんて非常識な提案をするのか、と思った。

「そっか、坊主が手伝ってくれると助かるんだけどなぁ。田中さんこのままだとまずいぞ。救急車が足止め喰らっててな。どうにか車を出したいんだけど人手がなぁ」

 男は大層困ったような口調だった。

「でも僕熱だから、全然何の役にも立たないよ」

「そんなことないさ、坊主も男なんだから手伝わんとなぁ」

 男はなおも食い下がった。なんてしつこい男だ、と思った。

「僕だって熱出てるんだ。こんな雪で出歩くなんて死んじゃうよ」

 毅然としていたつもりだが、私の声は相当弱々しいものだったろう。男は分かった分かったと言い、不承不承出て行った。

 布団の中に戻ると今度こそ深い眠りについた。次チャイムが鳴っても起きないぞ、そう心の中で呟きながら夢の中へと落ちて行った。


 翌日、やはりまたチャイムの音で起こされた。しかし今度はそこに女性の叫ぶような声が加わっていた。

「ゆうちゃん! ゆうちゃん! いるの⁉︎」

 子供ながらに只事ただごとではない様子を察し、玄関の鍵を開ける。声の主は田中さんの奥さんだった。

「ああ、ゆうちゃん良かった……」

 田中さんの奥さんは安堵した様子だったが、顔色は青ざめており、果たして深刻な事態なのかどうか判断がつかなかった。

「ああ、うん。熱下がったみたい。田中さんは? おじさん大丈夫なの?」

 すると、田中さんは物凄い剣幕になった。

「熱? それにうちの人がなんだって? そんなことよりゆうちゃん! お母さんが!」

「ん? お母さん? お母さんがどうしたの?」

 その後、田中さんから聞かされた話は信じられないものだった。


 その日の早朝。除雪車を運転していた男性が当時の私の家付近にある木製の橋の上で降り積もった雪が赤く染まっているのを見つけたという。

 嫌な予感がし、恐る恐る近づくとそれが大量の血であったことに気づいたそうだ。

 さらに、血が染みてる箇所に近い橋の欄干が叩き潰されていたため、下を覗くと川に浮かんでいる人間を発見した。

 母だった。

 私の母が無惨にも滅多刺しにされたうえ、川に投げ捨てられていたのだ。

 警察が到着する頃には人だかりが出来ていたらしい。遺体が引き上げられると、皆口々に私の母だと言ったという。

 そして、田中さんと共に警察が私の元へ来たのだ。

 私はそんなことは知らされず、昨夜あったことを話してくれと、警察に聞かれた。

 田中のおじさんが急病だと男が知らせに来たこと。父と母が雪かきの手伝いに行ったこと。決して多くはない、それら覚えている限りを全て話した。

 しかし、当時田中さんの家には親戚の男など来ておらず、旦那さんも健康そのものだったそうだ。

 さらに、警察は狼狽したように、父も出て行ったのかと、しきりに確認して来た。

 この時私は初めて恐怖を感じた。

 ではあの男はなんだったのか? 父と母はなぜ帰っていないのか?

 いいかい、落ち着いて聞くんだよ、そう警察に言われ私は母が遺体となって発見されたということを聞かされた。

 全くもって実感が湧かなかった。まだ僕は熱にうなされているのだろうか。しかし妙に冷静になり、一つ気になる疑問を警察にぶつけた。

「じゃあ、お父さんは?」

 そう言うと警察はしばらく黙り込み一言、捜索中だと言った。


 結局父は見つからなかった。

 当初、熱にうなされた少年の話は信じてもらえず父が容疑者とされていたが、橋の上に父の血液もあったことが分かり、父も殺害されたという結論に至った。

 そうなると私の見た青い男が犯人だと断定されたが目撃情報もなく、行方を知るにも手掛かりがないために未解決事件となった。

 なぜ父と母は殺され、私は生き残ったのか、どうしてその場で私を殺してしまわなかったのか。謎は深まるばかりだった。

「青ゲットの再来」

 明治時代に似たような事件があり、まるでそれをなぞらえたようだという触れ込みで連日好奇の目に晒されたが祖父母に引き取られたおかげで町を離れられた。それ以来あの町には戻っていない。


 *


「あなた、雪積もりそうだから私買い物行っちゃうね。涼太りょうたのこと見てて」

 妻の声で意識が現在へと引き戻された。

「うん、ちょっと待ってて」

 私は弱々しく精一杯の返事をする。

 わずかに手足が震える。あの日以来、春も夏も秋も全ての季節があの冬のように凍てついて感じられたが、どうしたことか今こうして生きている。

 眼前をちらつく雪。ああ、雪は嫌いだ。

 あの子と妻にはこんな怖い思いをさせてはならない。私は過去の記憶を振り払い、幼い子供の待つリビングへと向かった。

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