8.ここに、カラオケはないです。

「わたしの名前を貸してあげようと思って。」

 そう締めくくった彼女は、さも普通のことを言うかのような表情をしていた。にこやかに笑い、まるで世間話をするかのように。


 彼女の顔をまじまじと見ていたが、流石に不躾かと思って慌てて口を開く。でも、なんて返せばいいのかが分からずにそのまままた口を閉じる。

 そんなことを繰り返し、金魚のようにパクパクと開閉をしていると、彼女は面白そうに声を上げて笑い出した。


「笑っちゃってごめんなさい。私、カオルって言うの。こうして出会えたのもきっと縁だから、是非仲良くして欲しくて。」

 ひとしきり笑うと細く息を吐き、そう言いながら手を差し伸べてくる。握手、を求められているんだろうか。

 少し悩んだ末に手を握り返し、曖昧に笑顔を作る。豊かな胸元に光る赤色のリボンが酷く眩しい。


「そ、それはもちろん、ぜひ!」

「良かった。じゃあ私、専属登録の書類貰ってくるね。」

「え?」

「うん?どうかした?」

 驚くほどにとんとん拍子で話を進めようとするカオルさんの様子になんだか違和感を感じて待ったをかける。


「あの…私、もうフリーの子と専属登録をしていて…」

「フリーの子なんていないと思うけど……。」 

 顎に手をあて、考え込むような動作をするカオルさん。少ししてから、思い当たったように表情をこわばらせる。


「ねえ、まさかかとは思うけどそのフリーのアイドル、アイネじゃないわよね?」

「カオルさんには、関係ないかと…。」

「悪いことは言わないから、そのことの登録は解除して私と改めて契約しましょう?私との登録でも、設備は問題なく使えるわ。」

 登録相手がアイネだと知った途端、カオルさんは打って変わって険しい表情を浮かべる。ただ、元々が美人なためそんな顔ですら絵になる。


「カフェもカラオケも衣装も、私とでも出来る。他にフリーのアイドルはいない。私は今ちょうどフリーで、あなたは今血眼になってフリーのアイドルを探している。なら、登録しない選択肢はないと思うんだけど、違う?」

 聞き分けの悪い子供に言い聞かせるような口調でそう続けた。でも、彼女の言動には決定的に譲れないことがある。もちろん、今の私がアイネと登録してるからとか、彼女のラストライブのプロデュースをするからとかじゃなくて、もっと根幹的な部分で。


「………じゃない。」

「ええ?」

「アイドル事務所ここに、カラオケはないです。あるのは、レッスンスタジオとライブステージだけ。」


 確かに、多くの曲数が入っていて最高質の音響設備が整っているこの場所は一般的な学生たちが使うにはあまりに高級なカラオケルームととらえることも可能だろう。 

 でも、ここにあるのはカラオケではなくて、アイドルたちがボイストレーニングを行うためのスタジオ。

 それをカラオケ、なんて表現してしまう人は、どんなに優しくっても性格が良くっても専属アイドル契約なんて出来る訳がない。

 プロデューサーの立場だし、退所ギリギリだった人間が大口叩くのもどうかと思うって言うのは、私自身が一番分かってる。

 でも、アイドルへの愛とか、アイドルシティへの熱意を捻じ曲げてまで彼女に専属アイドルになって欲しいとは思えなかったのだ。

 確実に言えることとしては、初めてアイネと会った時とは感じ方が違う、ということ。


「……それも、そうだね。うん。あなたの言い分も、分からなくはない。」

 嫌な断り方をしたというのに、カオルさんは変わらずににこやかな甘い笑顔のまま。

 でも、その声のトーンには明らかに拒絶染みた響きが混ざっているのを私は聞き逃すことが出来なかった。


「アイネを専属アイドルにするのは、本当に間違ってるよ。これだけは改めて。お姉さんからの忠告。」

 最後にそれだけ残し、人差し指を私のおでこにコツンと載せる。そうしてほとんどまとめ終わっていた荷物を抱え、颯爽と更衣室から出て行ってしまった。

 その後ろには、花の甘い香りが残っていた。


 カオルさんが去った後の更衣室で一人着替えを済ませながら、私はあれこれと考えていた。

 意見が対立してしまったアイネのラストライブ。どういう方向性になるとしても、いくつか掛け合わなければならない施設が存在するだろうから、それの確認と連絡。

 衣装に服、日時やステージ。脳内でメモ帳を開き、必要事項を書きだしていく。


 それと同時に、これだけ多くの人に要注意人物として認知されるアイネは、過去に一体何をしたんだろう───?と首をかしげるのだった。


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無気力猫被りアイドル×駆け出しプロデューサー=!? 華乃国ノ有栖 @Okasino_Alice

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