第1話 イリスの森の魔術師
フィリスがイリスの森に住むようになったのは、
だからフィリスも、十八歳になった今でも人との関わり方を知らない。
そのせいでたった今し方取られた自分の腕を、フィリスはまじまじと見つめることしかできなかった。
なぜなら気配がしなかったのだ。背後に迫られたというのに、腕を掴んできた男の気配に全く気づけなかった。
今度はじっと相手の顔を見つめてみる。目鼻立ちがはっきりとしていて、図鑑で見た彫刻のように顔の各パーツが完璧な位置で整っている。今まで眺めてきたどの彫刻よりも完成された造形だった。
何よりも、彼の髪と瞳の色が綺麗だった。髪は星の煌めきを溶かし込んだような金色で、瞳はリガス島にある海の洞窟のように深い青。幻想的で、思わず惹きつけられてしまう。海の洞窟は絵画でしか見たことはないけれど、きっと本物にも負けない美しさなのだろう。
ただ、フード付きのマントの裾はほつれていて、
なんにせよ、彼はフィリスを『イリスの森の魔術師』と言った。人にそう呼ばれて恐れられていることを知っているフィリスは、知った上で会いに来たらしい男の思惑を疑問に思う。
こういうとき、いつもなら「そうだ」と肯定するけれど、面倒事の匂いがしたときだけは別だと、つい四日前に亡くなった師匠には注意されていた。
そういうときは、とりあえず誤魔化せ、と。
なので。
「えっと、違う。人違い」
「今の魔術を見せつけておいて? それに、その金眼を隠さないのは得策じゃないと思うよ。かの有名な伝説の大魔法使い、エレット・クラーレンと同じ瞳だ。同じ――精霊の瞳」
「え?」
「ん?」
相手が首を傾げる。フィリスも同じ方向に首を傾けた。
「金眼って、わたしのこと?」
「そうだね」
「わたし、黒いと思う」
「…………」
顎に手を当てて少しだけ考え込んだ男は、警戒心露わにこのやりとりを見守っていたもう一人の黒髪眼鏡の少年に視線を移した。彼もまた旅人か冒険者のような服装だが、首には
「ルディ、彼女の瞳の色は?」
「え? えっと、黒だと思いますけど……?」
「ほら」
「んー……なるほど?」
金髪の男は顔を近づけてくると、フィリスの瞳を覗くように凝視してくる。それがなんだか全てを見透かされているような気持ちになって、フィリスは一歩足を引いた。
男もぱっと離れる。
「まあ、何はともあれ、まずは自己紹介が先だね。私はゼイン。ゼイン・アーサー・グレンヴィルだ。よろしく」
「ちょっと殿っ……じゃなくてゼイン様! フルネームで答える人がありますか!? この人が敵か味方かもわからないのに!」
「ちなみに、ここガルノア帝国の元皇太子だよ」
「ゼイン様!?」
「といっても、たった数日の皇太子だったけどね」
眼鏡の少年が絶句している。さすがのフィリスも『皇太子』が何者かは知っていた。確かこの国で結構偉い人だ。師匠は関わるとろくなことがないと言っていた。
実際、彼はフィリスの瞳の色を当てている。自分の正体を暴こうとする人間には近づいてはだめだと、師匠に口を酸っぱくして言われていたのを思い出す。
金眼は彼の言うとおり、精霊の瞳と呼ばれている。今ではもう御伽噺のように伝説となってしまった、大魔法使いかつ大罪人でもあるエレット・クラーレンが持っていた瞳だ。
おかげで人々の金眼に対する印象は、長い歴史を経て『精霊に愛された者』から『忌み嫌う者』へと変化してしまった。ゆえに隠す必要があった。
「わたし、帰らないと」
なぜゼインに魔術で色を変えているはずの金眼を暴かれたのかはわからないが、師匠の言いつけどおり関わらないほうがいい。今ならまだ、しらを切ることもできるだろう。そう考えた。
「そうか。なら君の家まで送ろう。女性を一人で帰すなんて、紳士の風上にもおけないからね」
「え、でも……」
突然の申し出に反応が遅れる。こんな人間は初めてだ。
そもそもフィリスにとって森は庭のようなものである。魔物が出ようが関係ない。簡単に退治できてしまう。わざわざ送ってもらうほどのことではないし、関わりたくないから一刻も早く離れたいのだが。
「わたし、一人で帰れる」
「じゃあ行こうか。このままだと完全に日が暮れる。夜の森は危険だよ」
「えっと、だから……」
「ルディ、行くよ」
「行くよって、本気で言ってます? ゼイン様」
「当然だろう。おまえはこんなかわいらしい女性を一人にできると思うのか」
「かわいらしい……ですか?」
「あの、別にわたし、一人で……。それに、夜になると、帰りが大変」
「おや、私たちのことを心配してくれるのかい? 君は優しいんだな。やはり自分の目で確かめに来たかいがあった。ああ、そうだ。なら手を繋いでおこう。迷子になってはいけないからね」
「は、はあ……」
――じゃない。
うっかり流されそうになっていたフィリスは我に返った。
しかしそのときにはもうがっちりと手を握られていて、振り解こうとするも敵わない。まるで逃がさないと言わんばかりの握力だ。魔術を使えば振り解くことはできるけれど、命を狙われているわけでもないのに力を使うことは躊躇われて、フィリスはどうすればいいのかと悩んだ。
「君の家はこっちかい?」
「ううん、こっち」
訊ねられたので答えたら、ゼインが小さく吹き出した。
「君は素直だね。そういえばまだ名前を聞いていなかった」
「フィリス」
「
初めて師匠以外の人から名前を褒められて、フィリスの心がわずかに跳ねる。その人懐こいような笑みが慣れなくて、じっと見つめてしまう。これはフィリスの癖だ。わからないものほど理解しようとして凝視する癖。
しかしその視線を遮るように、ルディが後ろから二人の間に顔を突き出してきた。
「ちょっとゼイン様、なに和んでるんですかっ。俺にはこの少女が役に立つとは思えませんよ! しかも簡単に正体まで明かしちゃってどうするんですか!? もし追っ手に密告でもされたら……っ」
「大丈夫さ、フィリスはそんなことしないよ。ね?」
「わたし、興味ない」
「ははっ、そうなの? ちなみにそれは、私のことが? それとも世の中のことが?」
手は放してもらえそうにないので、フィリスは諦めて進むことにした。
もし彼らがフィリスの命を狙っていたとしても、撃退できる自信もあった。
「どっちも」
「そう。――らしいよ、ルディ」
「らしいよ、じゃないですよ! 俺たちは魔術師を訪ねてきたんですよ! それがなんでこんなちんちくりんを……!」
「ルディ」
「うっ」
ずっと穏やかな雰囲気しか見せなかったゼインが、そのとき初めて威圧感を見せる。でもそれはフィリスに向けられたものではなく、ルディに向いていた。
ルディもそれはわかっているのか、続く言葉を飲み込んだようだ。どうやら「ちんちくりん」という言葉は良い言葉ではないらしい。
つまりフィリスはルディに貶されたことになり、貶したらしいルディを仲間であるはずのゼインが注意した。フィリスには、それが不思議だった。
「えっと、ゼイン様?」
「ん? ゼインでいいよ」
「ゼインは今、怒ったの? なんで?」
「なんでって……私の従者が君に失礼なことを言ったからだよ」
「失礼なことを言ったら怒るの?」
「そうだね」
「じゃあ、わたしが言っても怒る? 怒ったら帰ってくれる?」
ゼインが目をぱちくりと瞬く。
怒られたルディですらぎょっとした顔でフィリスに視線を移してきた。
「うーん。残念だけど、それはないかな」
「どうして?」
「君には一緒に旅についてきてほしいから。逆に質問してもいいかな、フィリス」
「うん」
「君は怒ってないの?」
それはルディのことをだろうか。であるなら、答えは「怒ってない」だ。
「わたし、感情がないんだって」
そう言うと、ゼインのこめかみがぴくりと動いた。
「へぇ。それは誰に言われたんだい?」
「昔の知り合い。でもね、感情がどういうものかは知ってるよ」
「なるほど。それで『怒れば帰る』と思ったわけか」
こくりと頷く。たまに森にやってくる荒くれ者を撃退するとき、彼らはいつも怒りながら逃げていった。だから怒らせれば逃げると――帰ると思った。
「でも、失礼なことってなんだろう。それがわからなくて……」
「ずっと考えていた?」
「うん。考えたけど、やっぱりわからなかった」
「じゃあフィリスは今、『困ってる』んだね」
「……困ってる?」
「そう、困ってる。それも感情の一つだ。だから君にだって感情はあるよ」
「困ってる……これが……」
「そして現在進行形で私に手を繋がれて家まで案内させられているわけだけど、この現状を君はどう思っている?」
「どう……攻撃されたら嫌だなって」
「『嫌』っていうのも感情の一つだ。ほら、やっぱり君はちゃんと感情を持っている。ただおそらく、感情を言語化するのが苦手なだけなんだろうね。そういうのは経験で学べるよ」
「経験……」
「ちなみに、どうして攻撃されたら嫌なんだい?」
フィリスは、繋がっている手を見つめながら答えた。
「だって、攻撃されたら、攻撃しないといけないから。……ゼインの手は、こんなにあたたかいのに」
ゼインが目をきょとんとさせる。ルディも眉根を寄せていた。その表情は、以前フィリスが「師匠が死んだら死ぬ」と言ったときの師匠の顔と似ていた。あのとき師匠は「何言ってんだ馬鹿弟子が」と頭を小突いてきたので、きっとルディも同じように「何言ってるんだこいつ」と思っているのかもしれない。
すると、ゼインが蕩けるような甘みのある顔で微笑んできた。
「これが悪名高い魔術師か。ますます君が欲しくなったよ、フィリス」
やがて森の開けた場所に辿り着く。そこには小さな家が一軒だけぽつんと建っていた。フィリスが躊躇いなく家の中へ進むと、手が繋がっているゼインもまた当然それに続く。ルディだけが怖々と中に入ってきて、中の惨状を見た瞬間小さな悲鳴を上げた。
「
「
「でしょうね! じゃなかったら逆に誰の家だって話ですよ!」
「師匠が物は片付けちゃいけないって言うから」
「どんな師匠です!?」
一階には奥に地下へ繋がる階段と二階へ
「そういえば、君の師匠はどこにいるんだい?」
「死んだ。四日前」
淡々と告げると、二人が息を呑む。
「あのね、だから帰ってほしい。たぶん森の魔術師って、師匠のことだから」
「でも君も魔術師だ。そしてこの森に住んでいる。だったら君も『イリスの森の魔術師』には違いないよね?」
フィリスは答えなかった。出逢って間もないというのに、彼は尽く正解を言い当ててくる。たとえそれが偶然だったとしても。どこか惹きつけられる空気を纏う人間。初めて会うタイプの人間だ。
(森の魔術師は、師匠がわたしのために広めた噂)
だから正しくは、『イリスの森の魔術師』は誰か一人を指している名称ではない。恐がられればそれでいいという考えの下、曖昧に広められた名称だ。
ただ、それを正直に話すことは、師匠の思いを蔑ろにすることになる。だからフィリスは「わからない」とだけ伝えた。
ルディが半目になる。
「いや、自分のことなのにわからないんですか? とんだ間抜けじゃないですか。――ゼイン様、やっぱりやめましょう、彼女に頼るのは。さっきの炎は確かにすごかったですけど、あれくらいなら下級魔術師にもできます。わざわざ悪名のある方を仲間にする必要はありません」
しかしゼインは立ち上がらない。彼の後ろに控えていたルディは「ゼイン様!」と痺れを切らしたように叫んでいた。
全く相手にしてもらえていないルディを放置することもできず、フィリスは口を開く。
「えっと、確かにわたし、酷いことしてきた。それは本当。この森に入ってきた人間をたくさん攻撃した。わたしは悪い魔術師。だから、帰ったほうがいい」
「理由は?」
ゼインに間髪入れず訊ね返されて、フィリスは首を傾げる。そんなものを求められたのが初めてだったからだ。
「なんで、理由?」
「知りたいからだよ、君のことを。君はどうして森に入ってきた人を攻撃したんだい?」
「だって、森には魔物がいるから。でも、貴重な薬草もある。それを取りにたまに人間が来る。依頼された冒険者も来る。でもみんな、だいたい死ぬ」
「えっ」
ルディが顔を青くする。
一方でゼインは笑みを深めた。この対照的な反応にフィリスはまた首を横に倒した。
「えっと、真っ青と、笑顔。……えっと?」
交互に二人を見やっていたら、ゼインが「ああ」と何かに気づいたように頷く。
「フィリスは今、『困惑』しているんだね」
「困惑……? 二人が、全然違う顔をするから、困って、わからない。これが困惑?」
「そうだよ。それを解決する答えを教えてあげよう。ルディは魔物に襲われて死んだ人がいることに恐怖を覚えたんだ。だから顔を青くした」
「恐怖は知ってる。昔師匠に修行だって言われて谷底に突き落とされたとき、たぶん怖かった」
「谷底!? どういう修行ですかそれ!」
「飛行魔術の修行」
「飛行魔術!?」
それは、魔術の中でも難易度の高い技術で、上級魔術師の中でも使える者は限られているようなものだ。
「まさか、飛べるんですか?」
ルディが意外そうに確認してきた。
「飛べる。じゃないと、死んでた」
「怖っ」
両腕をさするルディを、フィリスはじっと見つめる。実際に体験したフィリスならまだしも、なぜ体験していないルディが怖がっているのだろうと理解できなかったからだ。
「とまあ、ルディが顔を青くしたのは、そういう理由だよ。彼は正直者でね。嘘をつかない――というより、つけないんだよね」
「ゼイン様、それちょっと馬鹿にしてません?」
「はは、まさか」
そして、とゼインは続けて。
「私が笑ったのは、君が――いや、君の師匠も含めて、君たちが優しい悪者だと知れたからだ」
「優しい悪者?」
「君は森に来た人間を攻撃したとは言ったが、殺したとは言っていない。つまり攻撃しておきながら殺しはせず、追い返した。それはきっと、彼らが魔物に襲われないよう、そして無駄に人が死なないようにするためだろう? 私にはそう解釈することしかできなかったけど、違う?」
「違う。死体があると魔物が寄ってくる。だから……」
「うん、たくさんの魔物が押し寄せてきたら、村が大変なことになるだろうね」
「えっと、薬草はわたしが独り占めしてて」
「そういえばここに来る前、物資を調達するために薬屋に寄ったけれど、薬の種類が豊富だった。こんな辺境で? と思って店主に訊ねたら、いつもフードを目深に被った少女が薬草を売りに来ていて、その子が貴重な薬草をたくさん持ってきてくれるからだと聞いたな。その少女は君だったんだね」
「や、それは、あの、違う……」
「嘘はだめだよ、フィリス。私に嘘は通じない。そうだな、君の秘密だけ暴くのはフェアじゃない。私の秘密を教えてあげるから、私の目を見てごらん」
「ちょっ、ゼイン様!? いくらなんでもそこまで教えるのは……!」
「ルディは黙って」
ゼインの命令にルディの動きが止まった。最初からずっとそうだったけれど、ルディはゼインには絶対に逆らわない。たとえそれがルディの意思に反することでも。
フィリスはそんなルディをチラチラと見ながら、言われるがままゼインの瞳を覗き込んだ。
最初に見たときも思ったが、深い青色の瞳に吸い込まれそうになる。光が当たると濃淡が生まれて、神秘的な印象さえ与える。
しかし、フィリスはその瞳に別の神秘を見た。
「……神の、愛し子」
「ご名答。私は『智の神』の加護持ちでね。真実を見抜く目を持っている。……君の瞳はどんな黄金よりも綺麗だ、フィリス。でも私は自分の黄金をその価値もわからない他人にわざわざ教えてやるほど高尚な人間ではない。この意味がわかるかい?」
「…………」
人間の中には、神の寵愛を受けた子どもが生まれることがある。神の愛し子と呼ばれるその者たちは、寵愛を受けた神の力の一部を行使することができる。
智の神の寵愛を受けているゼインは、真実を見抜く目を持っているらしい。ならば、フィリスの秘密を瞬時に暴いたのも納得だ。
ただそれは守らなければならない秘密で、バレれば殺そうとしてくる人間もいると師匠には言われている秘密だった。
そして師匠は、もしバレた場合、その対処法についても教えてくれていた。
――〝いいか、馬鹿弟子。そのときは躊躇わず、
「わたし、殺される?」
ゼインが虚をつかれたように目を開いて、またすぐに細めた。
「私と一緒に来てくれるなら、殺さないよ」
それはとても穏やかな笑みだったけれど、有無を言わさない圧力も感じた。現にルディは自分の主人の発言に動揺している。
「私は仲間には優しいよ。仲間の秘密は必ず守る」
フィリスは考えた。自分の秘密を守るためには、二つの選択肢がある。師匠の言うとおり秘密を知った人間を消すか、彼の言葉を信じて仲間になるか。
(でも、この人を殺したくない)
繋いだ手が温かかった。金眼を知っても気味悪がらなかった。怯えなかった。
そもそも、これまでフィリスは誰かを殺したことはない。誰かを殺したいとも思わない。
(
そう教えた本人が、一番優しかった。フィリスを拾ってくれて、魔術を教えてくれて、フィリスが一人でも生きていけるよう整えてくれた。
――〝いいか、馬鹿弟子。おまえは優しすぎるんだ。ゆえに悪い魔術師であれ。私が築いた悪名を引き継げ。それが、きっとおまえを守ってくれるから〟
師匠はそう言ったけれど、悪名の引き継ぎ方なんて知らない。
「師匠、四日前に死んじゃったの」
「そう言っていたね」
「師匠、たぶん、自分の寿命を知ってた」
「そう」
「だから師匠、わたしに、悪い魔術師になれって言った」
「なぜ?」
「悪い魔術師のことは、みんな怖がるから」
「……そうか。君の師匠は、そうやって君を守ろうとしたんだね」
ふいと顔を上げる。ゼインの瞳はどこまでも優しさに溢れていた。
(この人は師匠のこと、わかってくれるんだ)
心がむず痒い。胸がいっぱいで、どうしてか喉がぎゅっと痛くなった。瞳から何かが零れた気がして、自分の目元に触れてみる。
「悲しいのかい?」
「悲しい?」
「泣いているから」
「泣いてる……わたし、泣けるんだ」
「立派にね」
「わたし、師匠が死んでも泣けなかった。でも普通は泣くんだって。なんで今泣いてるのかな」
師匠が死んだ時じゃなくて、と内心で思う。
「フィリスは今、何を考えている?」
「……師匠、本当にもういないんだって。あと、ゼインが」
「私が?」
「ゼインが、師匠と同じ事を言うから」
だから、とひくつく喉を精一杯動かして。
「師匠のこと、わかってくれる人がいるんだって、胸が熱くなったの」
涙が止まらない。ぼたぼたと大粒の雫がローブに染み込んでいく。
「じゃあきっと、君は『悲しくて』、『嬉しかった』んだね」
「悲しいのに、嬉しいの……っ?」
「君は師匠のことが好きだった?」
問われて考える。これまで一緒に生きてきた過去を、ゆっくりと思い出していく。
なんでも一緒にやった。勉強も、料理も、狩りも。全部一緒に経験した。家を大型の魔物に壊されたときは、一緒に建て直しもした。竜に食べられそうになったときは、初めて師匠の慌てた顔を見た。新しい魔術を覚えるたびに褒めてくれて、一人で魔物を倒そうとしたときはカンカンに怒られた。怒りながら怪我の手当てをする師匠は、最後に必ず「心配させんじゃないよ、この馬鹿弟子が」と眉尻を下げて文句を言っていた。謝ると「まったく、仕方のない子だね」と目尻のしわを深くして笑う顔が、きっと――。
「っうん、好き、だった……っ」
いつか涙を零すことがあるのなら、師匠は声を上げろと言っていた。だから声を出した。わーわーと喚き散らして、自分でも何を言っているのかわからない言葉を叫ぶ。
師匠がいなくなって『悲しい』。
大好きな師匠を理解してもらえて『嬉しい』。
でもやっぱり、大切な
「フィリス、一人でよく頑張ったね」
ゼインはずっと頭を撫でてくれた。肩を抱き寄せて、優しく背中をさすってくれた。師匠以外の人の温もりを感じるのは初めてで、落ち着かないのに、不思議と安心する。
「――一緒に行く」
泣き止んだあとにそう答えたら、ゼインよりもルディが驚いたようだ。
「チョロすぎますよあなた!? せめてなんの旅か聞いてからにしなさい!」
「ルディ、おまえのほうがチョロいよ。すっかりフィリスのお母さんじゃないか」
「お母さん!?」
なぜかルディはショックを受けていたが、フィリスにもちゃんと理由はある。
「わたし、悪い魔術師になりたいの」
「うん?」
「せっかく師匠が悪名を作ってくれたのに、このままじゃわたし、その悪名を引き継げない」
「なるほど? それなら、やはり私たちと一緒に来るといい。一緒に来るだけで、相当悪名は轟くことになると思うよ」
「行くだけで?」
「ああ。なにせ私とルディは、ガルノア帝国の現皇太子から指名手配されているからね」
指名手配、と復唱する。
「だから私たちの仲間になるだけで、もれなく悪い仲間の一員だ」
「ゼインとルディ、悪い人なの?」
そう訊くと、ゼインではなくルディが反論した。
「違います! ゼイン様は何も悪くありません! 民に寄り添い、公明正大な政治を敷いてらっしゃった! なのに、その偉大さがわからぬ連中が殿下を……!」
「ルディ」
「悪いのは第二皇子殿下です! 以前はあんなに殿下を慕っておられたのに、急に手のひらを返して殿下を追いやった! それに、殿下の婚約者だって……!」
「ルディ、やめろ。それ以上はいけないよ。ここは辺境とはいえ、まだ国内だ」
「っ……申し訳ございません、ゼイン様」
謝るルディを見つめるゼインの瞳は、まるで師匠がフィリスに「仕方のない子だね」と言ったときと同じ温度があった。
「というわけで、私は今指名手配犯として追われている。そんな私の仲間になれば、君の悪名も轟き続けるだろう。それだけじゃない。私と一緒に来れば、君に色んな感情を教えてあげられると思うよ」
「色んな感情?」
「人の心は複雑だから。単純な喜怒哀楽だけが全てじゃない。君はさっき師匠を『好き』だと言ったけれど、好きという感情にも種類がある」
「そうなの?」
「親愛、友愛、家族愛、恋情」
「それも、教えてくれるの?」
「ああ、もちろん――」
ゼインが右手を差し出してきた。
「君がこの手を取るならね」
じっと彼の手を見つめる。師匠の骨張った手よりがっしりとしていて、自分の小さな手よりも頼もしく大きな手。
そして、頭を撫でてくれた優しい手。
「魔術師のフィリス。よろしくね」
「ああ、よろしく」
初めて、師匠以外の人についていきたいと思った。
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