悪名高き魔女に愛を乞え

蓮水 涼

プロローグ 出逢い


 緑の生い茂る、森が広がっている。道という道はなく、雨が上がったばかりのぬかるんだ土は気を抜けば一瞬で足を取られるだろう。

 露に濡れる葉を避けながら、ゼインは記憶を辿るように進んでいった。あの頃とは状況も自分の背丈も少しだけ違うから、見える景色もちょっと違う。以前は背の高い木々に襲われるような錯覚を覚えたものだが、今ではなんの恐ろしさも感じない。

 それどころか、わくわくと心が弾んでいる。これがたとえ、肉親である弟皇子から皇太子の座を奪われ、逃げている最中の旅路だとしても。夕日に反射する露が希望の光に見えるくらいだ。

「殿下、本当に行くのですか?」

 唯一自分の味方としてついてきた男――ルディが心配そうな声音で問うてくる。

 彼の不安は常識的なものだ。むしろ今のゼインの心情のほうが非常識なのだろう。なぜならこの森には、出会い頭に殺されると言われ、目が合えば石にされるとも言われている、悪名高い魔術師が住んでいるのだから。

「この森の魔術師は平気で人を殺すと聞きます。そもそもそんな魔術師が有資格者であるはずがありません。無資格の魔術師ならそれだけで犯罪者ですよ。いずれにせよ、無駄足になる可能性が高いと思いますけど」

「そうだね」

「有能な魔術師なら他にたくさんいます」

「そうかもしれない」

「……殿下、なんでちょっと楽しそうなんですか?」

「ふふ、そう見えるかい? でもどうだろう。楽しみでもあり、少し恐れてもいるかな」

 パキッ、と足元で小枝が折れた音が響く。

「殿下でも恐れることがあるんですか? だったら、なぜわざわざ悪名高い者を選ぶんです? 俺はどうせならまともな魔術師がいいです」

 ルディがこう言うのは、この旅に魔術師の同行が必須だからだ。だから、魔術師は不要だとは言わない。

 ゼインは過去に思いを馳せるように、少しだけ瞼を伏せた。

「まともな魔術師なんて、いったいどれだけいるんだろうね。良い意味でも、悪い意味でも、私はそんな魔術師はいないと思っている。だったらいっそのこと悪名高い者のほうが面白そうだろう?」

 ええ? と理解できない顔をするルディにくすりと笑って、ゼインは足を止めた。

 静かすぎると、ふと思ったからだ。森の入り口では聞こえていた野鳥の囀りが消えている。何よりも、ゼインの視界の先に映る木には見過ごせないものが漏れていた。――瘴気だ。

 ゼインが身構えた瞬間、突如として木々がぼこぼこと音を立てて動き出した。樹木の魔物、トレントだ。その太い幹には人間のような顔がある。

「殿下! お下がりください!」

 トレントは根を足代わりにしてゼインたちを囲んできた。完全に油断したな、とゼインは歯噛みする。

 普通は瘴気なんて人には視えないが、ゼインの目には映る。それは魔物から漏れ出ているものであり、つまりゼインなら、いち早くトレントに気づけたはずだったのだ。

 なのに、この森にいる魔術師の存在に浮かれて気を抜いてしまっていた。

「だめだルディ。おまえが下がっていろ」

「しかし……っ」

 ルディは聖魔術師ではあるけれど、魔術師とは根本的に扱う力が違う。魔術師が魔力を使うのに対して、聖魔術師は神力を使う。それは怪我や病の治癒、薬の調合や解呪など、戦闘には向かない後衛タイプの力である。それでもルディは、仕える主人に守ってもらうことが従者として情けないと思っているのか、かなり不服そうな顔だ。

 気にする必要はないのに、と思いながらゼインは剣を構えた。ここまでの旅路は、ずっとそうしてゼインが戦ってきた。

 だから魔術師が必要なのだ。中衛にも前衛にもなり得る、旅の戦力が。

「嫌になるね、まったく。いったいどれだけいるのやら」

 トレントは四方を囲んでいる。それでもゼインに倒せない敵ではない。ただ、ルディを守りながらとなると分が悪く、ゼインは「うーん」と唸った。

「殿下……」

「そんな顔をするな、ルディ。おまえは私から離れるなよ。まあ、なんとかするさ」

 まるで合図でも取ったように一斉にトレントが飛びかかってくる。まずは正面の一体をなぎ払う。その軌道の先で左の二体を叩き斬る。流れるように振り返って背後の二体を仕留めている途中、剣が見事な音を立てて折れた。さすがのゼインもこれには驚きを隠せない。ここまでの旅で酷使しすぎたようだ。その隙をトレントが見逃すはずもない。

 鋭い根の先端がゼインとルディのそれぞれに襲いかかってきた。そのとき。


 ――トレントが突然、根元から燃え出した。


 一瞬で炎の柱が上がり、断末魔が森の中に響く。不思議な火だった。周囲にある普通の木には飛び火せず、近くにいるゼインにも熱さを感じさせない。まるで魔物だけを焼き尽くす、業火の炎。

 そして、その炎の奥に、ゼインの目は釘付けになった。黒いフード付きのローブをすっぽりと被り、堂々と杖を掲げている人物がいる。

 顔は見えない。かなり小柄だ。フードの隙間から見える長い髪は柔らかな栗色で、杖を持つ手は雪原のように透きとおった白さを持っている。あれは日頃から外に出ていない白さだ。どう見てもか弱そうな少女である。

 けれどゼインは、彼女こそがこの森の主だと知っている。

 ローブをはためかせながら、彼女が無言で踵を返す。咄嗟に距離を詰めてその腕を取れば、彼女が驚いたように振り返ってきた。

 その拍子にフードが外れて、少女の顔が露わになる。

 特徴的な金色を瞳に宿した、かわいらしい顔と目が合った。

「うん、やっぱり噂は当てにならないね。君を探していたんだ、悪名高いイリスの森の魔術師殿。会えて光栄だよ」

 これが、のちに世界中を巻き込む騒動を起こし、その果てに御伽噺として語られることになる、皇子と魔術師の出逢いである。


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