第7話 紫釉皇子 三
馬の蹄がゆっくりと拍を打つ。
石畳の長い道で、蹄の音と共に靴音が一つ奏でられている。
そこには靴音の主、第三皇子紫釉の姿と。
馬に跨る玲秋の姿があった。
(何が起きているというの…………?)
命じられるがまま玲秋は紫釉が乗っていた馬に跨った。
玲秋が馬に乗ったことを確認した紫釉は満足そうに微笑むと自ら手綱を手にし、歩き出したのだ。
これではまるで立場が逆だ。
慌てて不敬に当たる、降ろしてほしいと嘆願するも紫釉は聞く耳もたなかった。
紫釉は歩く。
彼の護衛と側近はある程度離れた距離で歩くよう命じていたため視界には入らない。まるで此処には二人きりでいるような、そんな感覚に陥ってしまう。
しかし相手は皇帝の三男。
何より彼は過去で、玲秋と珠玉を冷宮へ命じた張本人でもあった。
(あの時は耳を疑った)
玲秋は当時、紫釉が妹の珠玉に対して酷い仕打ちをしないと信じていた。
彼は、後宮で暮らす幼い妹に人形や玩具を贈り労ってくれていたからだ。
時には珠玉と共にいる玲秋にも「困ったことはないか」と文を送るほどに親切だった。
だからこそ玲秋には分からなかった。
紫釉が何を考えているのかを。
「何を考えている」
「えっ?」
心の内を読まれてしまったのかと思った。
「難しい顔をしていた。何か懸念があれば相談に乗る」
「恐れ入ります。ですがご心配頂くような悩みはございません」
「そうか……しかし、いかなる時も貴女の相談に乗りたいと思う。いつでも声を……文を出してくれ」
「有難きお言葉、感謝いたします」
社交辞令だと分かっていても嬉しい言葉に、玲秋は笑みを浮かべて礼を告げた。
口数が少なくても紫釉の気遣いが強く感じられた。
以前の彼も心優しい少年だと思っていた。
長兄の毒牙が自身だけではなく、周りの人間にも掛かることを申し訳なく思う心情を文に記していたこともあった。
(今は疑いをかけるべきではない)
あの時、内乱により凰柳城が堕ち皇帝が弑された時。紫釉がどのように思いながら戦の先導に立ち、実父を殺めるに至ったのかなど玲秋には分からない。
それでも分かっていることはある。
馬に乗り後宮の正門にたどり着き、畏れ多くも紫釉に差し出された手によって降りた玲秋はその場で紫釉に対し平伏した。
「何のつもりだ」
「紫釉皇子に陳情申し上げたいことがございます」
「…………聞こう」
「有難う存じます」
玲秋は頭を下げたまま続ける。
彼女の真摯なまでの願いを紫釉は理解したのだ。
「どうか、珠玉公主を安州でお過ごしできるよう取り計らって頂けますでしょうか」
「安州に? 何故」
「後宮は決して安全な住まいではございません。今でこそ周賢妃のお名前あってこそ健やかに暮らせておりますが、珠玉公主の御身を考えるに、兄君のお傍で暮らすことが幸いと感じております」
「…………」
「私は有難いことに周賢妃に拾って頂いた身により、生まれた頃より公主のお傍に置いて頂きました。まだ二歳の幼い公主が暮らすには、今の後宮は恐ろしい場所と化してきております。恐れ多いことは承知で申し上げます。どうか、珠玉公主を安州にお願い申し上げます」
到底あり得ない願いだと玲秋は承知している。
それでも気にかけてくれる切っ掛けになって欲しい。
そんな思いから願い出た。
紫釉は頭を下げたまま願う玲秋に一歩近寄り、膝を折った。
「顔を上げよ」
意外にも近くに聞こえた紫釉の声に幾ばくか驚きつつ玲秋は顔を上げた。
見上げた目の前に紫釉の顔があった。
「その話は叶えられない。だが、代わりの術を与えたい」
真っすぐに見つめる瞳の中に玲秋が映る。
まるで吸い込まれそうなほど綺麗な紫の瞳。映るには、自分はあまりにも卑小だというのに。
玲秋は目を逸らせずにいたのだった。
「今、私が珠玉を動かせば父と兄が目をつけるだろう。かえって珠玉の身を危険に晒すことになる」
「…………」
「兄のことだ。私が珠玉を攫い、周賢妃の故郷高州を取り込み自身を攻めてくるのだと虚言だしかねん。そうなると高州にも被害が及んでしまう。それは得策ではない」
「仰る通りにございます……」
玲秋は己の浅はかさに顔を赤らめた。
そこまで考えず、闇雲に珠玉の身を案じた自身が恥ずかしかった。もし要望を叶えてもらったとしても、紫釉の言う通り更に珠玉を危険な目に合わせてしまっていただろう。
「恥じることはない。そなたは公主の身を案じてこそ呈してくれたのだ。その心遣いに感謝すれど嗜めることなど一つもないのだから」
「勿体ないお言葉です」
「だが、そなたの言う通り後宮は決して安全な場ではないだろう。なので一つ提案がある。そなたには官女が少ないと聞く。そこで私の家臣と知られぬよう人を用意する。その者に後宮内で珠玉を護衛させようと思う。勿論、そなたの護衛も兼ねてな」
「…………私に護衛は必要ないかと存じますが」
「否、必要である」
そうだろうか?
とはいえ、紫釉の提案を断ることもなく。
玲秋はもう一度深く頭を下げたのだった。
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