第3話 祥月命日 一


 旅立った、はずであった。

 

 玲秋れいしゅうが目を開けた時、そこにあったのは蓬莱でもなければ天の国でもなかった。

 見慣れた寝台の天井が見えたのだった。


「…………珠玉公主!」


 死んでいないのであれば、一緒にいた珠玉は何処にいるのか。

 寝台から体を起こし立ち上がったところで足を止めた。

 眠っていた場所は玲秋が捕らえられるまで暮らしていた家屋、紀泊軒きはくけんだった。

 後宮入りした頃から捕らえられるまで紀泊軒で過ごしてきた玲秋が部屋を間違えるはずもない。

 後宮の中でも隅に追いやられるように建てられた質素な家屋は、皇帝が見えられる正門からも中央の寝殿からも遠く、皇帝に相手にされない妃に与えられる建物として知られていた。

 相手にもされないことをあざける「稀薄きはく」の意味を込め、建物にも同じ韻の紀泊と名付けられた建物こそ、玲秋の住居であったのだ。


 けれど、何故?


 違和感は尽きないが、とにかく珠玉を探さなければならない。

 着ていた服が寝巻きであることは分かったが、玲秋は急いで建物の中から外へ出ようとした。


「小主!」


 驚いた様子で玲秋を呼ぶ声の主に玲秋の足は止まった。


「お目覚めになられたのですね。そのような恰好で外に出てはなりません!」

芙蓉ふよう?」


 咎める官女の姿を見て玲秋は大きく目を見開いた。


「どうかお着替えをなさってくださいませ。すぐにご用意いたしますから」

「どうして貴女がここにいるの?」


 芙蓉は玲秋が後宮入りした際に付けられた官女だったが、後宮に妃が増えた折、別の妃嬪に付くよう命じられたはずだった。

 それに、彼女の顔をよく見るとどこか幼さが残っていた。


「どうしても何も、私は徐倢伃じょしょうよの官女でございます。他にどこへ参ろうというのです」

「貴女は趙貴妃ちょうきひの官女に命じられていたのではなくて?」

「趙貴妃?」


 怪訝な表情をした後、芙蓉は笑った。


「小主は何をお間違えになっているのですか。趙昭儀ちょうしょうぎは確かに皇帝陛下の寵愛を一心にお受けになられておりますが位は昭儀でございましょう。貴妃の名でお呼びになられるなど……誰かが聞けば怪しまれてしまいます」

「趙貴妃はまだ昭儀だというの?」

「左様にございます」


 どういうことだろう。

 混乱を極める言葉に余計頭を悩ませるが、それよりも大事なことがあった。

 珠玉のことだ。


「珠玉公主はどちらにいらっしゃるの?」

「公主でしたら、本日は周賢妃の祥月命日しょうげつめいにちですので墓所へ向かう支度のため、礼部の官女が前日よりお世話しておりましたでしょう? 昨夜もお眠りになられるまで付き添われていらしたではありませんか」

「祥月命日……」

「小主も早めにお仕度なさいましょう。四夫人の御前に遅れてはなりません。さあ、早く」


 促されるがまま、玲秋は芙蓉によって寝台前に戻された。

 

(どういうことなの……?)


 玲秋に専属の官女が就いていたのは二年前までだ。

 皇帝徐欣じょきんから深く寵愛を得ることになった趙昭儀が特別な計らいによって瞬く間に貴妃となってすぐ、人手不足を理由に芙蓉は趙貴妃の官女として異動を命じられた。

 だから今、芙蓉が自分に仕えていることがおかしいのだ。


(それに周賢妃の祥月命日を行っていたのもたった一度だった)


 一時は気に入っていた妃の祥月命日を礼事として行っていた皇帝が行事を止めてしまったのもまた、趙貴妃に溺れるようになってからだ。

 おかしい。何が起きているのか。


 全てを理解したのは、支度のために用意された姿見で玲秋自身を見た時だった。


(首の傷がない)


 玲秋は日頃服によって隠していたが、首元に矢傷があった。

 二年前の宴の際、人を庇って負った傷は歪な跡だった。

 その傷が、ないのだ。


 事態を把握するために頭の中で考えを巡らせている間に支度は終わっていた。玲秋に用意された衣服は少ない。えりに僅かな刺繍を施しただけで色味はどれも褪せていた。麻で作られ何度となく洗い使用したために色が落ちている服がほとんどだ。

 他の妃達はこぞって自身の肌を露出し、ひらひらと天女を彷彿させるようにをはためかせ歩き皇帝の視線を奪うよう着飾っているが玲秋にはそういった類の衣類は一切ない。

 硬く閉じた襟に色は紺や黒の帯。裳や蔽膝へいしつを凝らした衣類もなかった。

 一見すれば後宮官女と間違われてもおかしくはない。

 衣類の中でも、とりわけ薄暗い色の礼服に着替えた玲秋は姿見で再度自身の姿を見つめた。

 やはり、僅かにだが若返っている。

 具体的に考えれば二年ほど時が若返っている。


「…………芙蓉」

「何でございましょう?」

房事碌ぼうじろくを読む時間はあるかしら?」

「……はい。すぐに取り寄せることは出来ますが」

「では、お願い」


 芙蓉が意外そうに玲秋を見てから建物の外に出ていった。彼女の反応も当たり前だった。

 房事碌は皇帝がいつどの妃としとねを共にしたのかを管理するための竹簡ちくかんである。玲秋は一度たりともその記録に載ったことはないし、興味も抱いていない。

 そのことを誰よりも知っているのは芙蓉であった。

 勿論、玲秋が皇帝と褥を目的として読みたいわけではない。

 確実な記録として今がどの時であるのかを把握したかったのだ。


(西王母に与えられた機会としか考えられないわ)


 女仙であり大国の母と崇められる神仙でなければ、玲秋の時を戻すことなど出来はしない。

 幼い珠玉の死を悼み、時を戻して下さったのかもしれない。


(感謝致します)


 どなたが起こした奇跡であるのかは分からないが、玲秋はその場に平伏し感謝の想いを込めて祈った。


(感謝致します……!)


 いくら時が戻ろうとも、玲秋と珠玉に起きた死は確かにあった。

 あの時、玲秋は確かに死を覚悟した。

 けれど生きている。それも、過去に戻れたのだ。

 これ以上の感謝はなかった。


(やり直せる)


 どのようにやり直しをすれば良いかなど今の玲秋には分からないが、分かっていることは同じ時を繰り返せば玲秋と珠玉の命はない、ということだ。

 このまま息を潜め生き永らえようと、訪れる未来は皇帝徐欣の墓所で生き埋めに合う事実だけだった。

 ならば変えてみせる。

 それこそが玲秋に与えられた天勅てんちょくなのだから。



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