第2話 冷宮 ニ

 体は冷え切り、珠玉公主と身を寄せ合いながら眠っていた朝。


「出ろ」


 守衛兵の冷徹な声で目覚めた。

 玲秋れいしゅうはいよいよ時が来たのだと悟り、大人しく従った。

 未だ眠気の取れない珠玉を抱き上げる。

 体が衰弱しだしていた珠玉と共に冷宮を出た。久し振りに出た牢の外だが、そこは決して穏やかな様子ではなかった。

 二人を見る兵の表情は険しい。解放されたわけではないと物語っている。

 それでも、玲秋は祈った。


(どうか……珠玉公主だけでもお助け出来るよう取り計らいが出来れば)


 玲秋はひと欠片の望みに願い託すしかなかった。

 反乱がどのように収束したかは分からないが、守衛兵の言葉から分かったことは第三皇子紫釉しゆしょう将軍と共に供託して皇帝を討ったことだった。


 玲秋は紫釉と数度顔を合わせたことがあった。

 玲秋より幾つか年が下である彼と宴の場で言葉を交えた思い出がある。

その時に知った人となりから、決して彼は腹違いの妹である珠玉に対し酷い扱いをしないと信じていた。


 ただ、紫釉がいかに善良な皇子であろうとも、玲秋の罪は免れないことは分かっていた。

 たとえ寵愛を受けておらずとも、褥を共にしたことがなかろうとも。

 玲秋は徐欣の妻だった。

 冷宮に投獄された妃達は次々と処刑や流罪となる中で、玲秋だけが無事に済むはずもない。

 それでも珠玉が無事なら構わなかった。




 守衛兵により連れてこられた場所は陵墓だった。

 訪れたことは一度もないが、建物の形でそれが皇帝を祀るための墓所であると分かった。

 門前に建てられた門番兵の石像、神獣が描かれた壁画に人の絵は一切なく天上や神仙だけが描かれていたからだ。

 建物の内部は広いというのに生活するための井戸もない。だから、ここは墓所なのだ。

 

「ここだ」


 強く押されながら入った建物の中は薄暗かった。

 扉から微かに差す光によって建物の内部に祭壇が見えた。

 僅かな光だったが玲秋には分かった。

 ここは皇帝徐欣の墓だ。

 彼が即位の折に献上された龍の形を模した剣が棺の上に置かれていたのを玲秋は見逃さなかったのだ。


 連れてこられた他の女達もまた、玲秋らと同じように建物の中に押し込まれていった。

 女達の顔を見れば誰なのか、後宮で暮らしてきた玲秋にはすぐに分かった。

 彼女達は徐欣が寵愛した妃達だった。

 ただ、最も寵愛していた貴妃は見当たらない。既に処刑されたのかもしれない。

 

 周囲からすすり泣く声が響く中、扉の前に一人の男が立った。

 大将軍、紹劉偉りゅういだった。

 将軍が宮殿で過ごすための礼服を着た紹は美丈夫として浮名が立っていたが、今はその面影すらなく閻羅王のように立ち塞がっていた。

 押し込められた女達は皆、理解していた。

 彼が、紹こそが自分達をこの地に連れてきたのだということを。


 切れ長の眦を更に細め、薄い唇が開いた。


「新皇帝たる紫釉陛下の勅命である。前皇帝徐欣の寵愛受けし者は皆、徐欣と共に眠ることを許す。共に墓所に眠り徐欣の魂を慰めることを許すと仰せである」


 女達から悲鳴が上がった。

 

「共に眠らんとせぬ者は忠義を反するとし、首を刎ねる。さあ、選ばれよ」


 薄らと嗤う顔には嘲りがあった。

 穏やかな声色には憎しみが混じっていた。


 紹将軍は徐欣とその寵愛を得て国を乱した女達を赦しはしないのだ。


 女達は泣き、抗う者は兵によって取り押さえられる中。

 玲秋は抱き締めていた珠玉と共に紹将軍の前に出て平伏した。


「お願い申し上げます! どうか、紫釉皇帝が妹、珠玉公主だけはご容赦くださいませ」


 地に頭を擦り付け、心から嘆願した。


「珠玉公主は高州の姫、周賢妃の忘れ形見にございます。決して紫釉皇帝に叛意を及ぼすような事はございません。何も、何一つとして罪はございません」

「玲秋」


 常に寄り添い抱き締めていた玲秋が頭を下げる姿に珠玉は不安から玲秋の元に寄り添い腕を抱きしめるが、玲秋は続ける。


「まだ四つの幼子です。御父君である前皇帝からの覚えもなく、慎ましく暮らしておりました。命さえお救い頂ければ何も望みません。どうぞ、どうぞご慈悲を下さいませ」


 立ってと、涙声で訴える幼い珠玉の声に玲秋の眦に涙が浮かぶ。

 幼い彼女にも玲秋の訴えが別れを示すものだと察しているのだ。

 けれど玲秋には珠玉の言葉を聞くわけにはいかない。

 今この時を逃せば珠玉の命は助からない。

 玲秋は必死だった。


「……貴女が徐倢伃じょしょうよですか」


 頭を下げながら玲秋は驚いていた。

 どうして将軍が玲秋の名を知っていたのか。

 尋ねることも出来ず、玲秋は「はい」と答えた。


「珠玉公主は何もご存知ありません。紫釉皇帝よりお慈悲を賜れますれば必ずや公主は恩に報いることが出来ましょう」

「…………」


 紹将軍の表情は地に頭を擦り付けている玲秋には見えないが、険しい顔しか見せない彼がこの時ばかりは僅かに憐憫を思わせる眼差しで珠玉と玲秋を見つめていた。

 勿論、その表情に浮かぶ感情がどのようなものか。

 この場にいる誰も分かるはずはなかった。


「では珠玉公主に問おうではないか。公主」


 四つの小さな子に対し紹将軍は大人に語る口調と変わらず名を呼んだ。

 名を呼ばれた子供は怯えた様子で、玲秋の服を握り締めたまま将軍の顔を見上げた。


「公主は徐倢伃と離れ生き永らえることを望まれるか。それとも徐倢伃と共に眠ることを望まれるか」

「紹将軍!」

「選ぶは公主だ」


 何を、と叫びたかった。

 珠玉はまだ四つだ。

 彼の言葉を真に理解が出来るはずもない。


「おやめください! そのような……!」

「やだ!」


 玲秋の腕が強く引っ張られた。

 その弱い力が、強い意志を込めて玲秋にしがみ付く。


「玲秋といっしょじゃなきゃいやだ! 玲秋といっしょにいるの!」

「公主……!」


 玲秋の瞳から涙が零れ落ちた。けれどそれは珠玉も同じだった。

 彼女は分かっているのだ。四歳でありながら、この場で玲秋と離れることは永遠の別れを意味することを。

 

「玲秋! 玲秋がいないとだめなのぉ……!」


 冷宮に閉じ込められた時だって珠玉は喚き泣く態度は見せなかった。不安を抱きながらも黙って玲秋にしがみついていただけだった。

 けれど今は違う。

 ボロボロに涙を流し、赤子のように大声で泣いた。

 決して離さないという思いで玲秋の服を握り締めて泣くのだ。

 そんな姿が痛ましく、玲秋は抱き締めなだめることしか出来なかった。


「…………閉じよ」


 紹将軍の声に命じられた兵が墓所の扉を閉める。

 重苦しい鉄扉が閉まる音に、女達が叫び逃げ出そうとするが兵の槍により塞がれた。

 玲秋は閉ざされる瞬間まで扉を見つめていた。

 光の先に踵を返し立ち去る将軍の背中が見えなくなり、日の光が届かない暗闇となるまで見つめ続けていた。




 墓所は精巧に作られていた。

 日の光は全くというほど入らない。

 鉄の扉は空気すら受け入れず、墓所内の空気が薄まっていく。

 息苦しさから動悸が高鳴る。

 暗闇に覆われても扉を激しく叩いている女達から離れ、玲秋はずっと珠玉を抱きしめていた。


「公主…………」


 幼い少女は玲秋と引き離されるかもしれなかった恐怖からずっと玲秋にしがみ付いていた。そんな彼女の髪を愛おしく玲秋は撫でた。


「大丈夫ですよ。もう、怖い兵はおりません。もう、何も怖いことはありませんから」


 ああ、息が苦しい。

 どうかこの苦しみから珠玉を解放してあげたい。

 珠玉の髪を撫でる手の甲に自身の涙が雫となって落ちる。


「ですからどうぞ、お休みになってくださいませ」


 いつもこうして少女が眠りに就くまで撫でていた。

 泣いて、衰弱していた珠玉が暗闇の中でも玲秋の温もりを感じながら安らかに眠っていくのを、玲秋は泣きながら感じていた。


 自身の意識も薄れていた。

 周囲で喚いていた女の声も次々とかき消えていった。

 息が苦しい。

 どれほど息を吸おうと、苦しみは増すばかりだった。

 それでも玲秋は珠玉の髪を撫でることを止めなかった。


「お休みなさいませ……」


 どうか安らかに。

 次に目覚める時は。


 愛する少女に苦しみのない生があることを願いながら。

 玲秋もまた、永遠とわへと旅立った。

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