第9話 女子高生『川海 晴香』の夢

 それは晴香が静かに寝息をを立てている夜のこと。光り輝く月ですらその顔を雲に隠して眠り、風でさえ息を潜めて動かない。そんな中、暗い存在が鋭い笑みを浮かべながら眠れる少女の元へと迫る。可愛らしい寝顔を見つめたそれは笑みの鋭さを艶やかな妖しいものへと変えた。そして少女の髪に触れ、顔を近付けていく。雲は動き、月から注がれるかすかな明かりは闇に影に包み隠されていた存在の正体を暴いた。それは紛れもなく天音の顔だった。



  ☆



 日がすっかり地へと溺れきってしまった空は闇に包まれて、泡のような小さな星が空の海にきらめいていた。空の海の底に押し込まれたような人類、泳ぐこともできずに暗くて昏い海底社会を人々が死んだような顔で、心をすり減らしながら生きている中、この社会の中である瞬間に溺れている女がいた。

 日本酒の瓶を持ち上げて檜の枡に中の液体を注ぐ。注がれた酒の香りを堪能し、塩を指でつまみ、上を向いて口の中へと落として酒を口へと運ぶ。

「あぁ、アタシにとっての贅沢はまさにこれ……贅沢は素敵だ」

 枡に注がれた水とはまた違った独特な透明、味、香り、温度、鼻を頭を通るアルコールの感覚、荒々しく喉を擦りながら通る刺激の強い神聖なる水、内側から湧いてくる激しく暴れるぬめりを持った感情と艶やかな表情を滲み出して顔を彩る化粧のような熱、そして舌に残る余韻。塩をつまみに日本酒の魅力を余すことなく堪能しながら目の端に愛する少女の赤い顔を捉えた。

「晴香、アンタも飲みな、絶対損はさせないよ。そんな感情心の奥底の絶対零度の地に囚われて一歩たりとも動かなくなるから」

 酔っ払いの天音に声をかけられてもなお、否、より一層顔を赤くして動かない。酔っ払いと今の晴香のどちらの方が顔が赤いのだろうか。分からない、分かる人などここにはいない。酔っ払いと動揺している人しかいないのだから。

 晴香は震える口を開いて重苦しい圧を耐え抜いて、どうにか言葉を絞り出す。

「わ……私、未成年」

「分かってる。そんなアンタにほうら、甘酒さ」

 甘酒のふたを開けて大きな赤漆の杯に注ぐ。蛍光灯の光に照れされガラス質の輝きを放つ鮮やかな赤の器に白くて甘いものが注がれ溜まりゆく。

「ほうれ、召し上がれ」

 艶めかしく動く唇と大人を感じさせる低く落ち着いた声を耳にした晴香は背筋を伸ばして緊張を見せる、あまりにもうぶな態度、晴香の恥ずかし気に眉をひそめ弱々しさと生まれたての色気に天音は魅せられていた。

「どうしたんだい? アタシがアンタになにかしたとでも仰る?」

 晴香の全身に火照るような想いが巡り衝動が身体を突き動かす。手は突き出されて天音の身体を突き飛ばそうとしていた。手が身体に触れた途端、晴香は動揺していた。手は震えて力は抜け、天音の身体から離れる。

 普段の晴香からあまりにもかけ離れた態度に天音はひとつ、訊ねた。

「もしやしてアンタ、また妖怪ていくあうとして来た?」

 ただ頷く晴香を瞳に収めて大きなため息をついた。

「全く、仕方のない子だねアンタは」

 黒い帯を巻いた白い和服を着た女は桝に注いだ酒を飲みながら話を聞いていた。そんな仕草があまりにも似合っていた。制服を着た少女が杯をもって話す姿、ブレザーと大きな目とふっくらとした頬が可愛らしい晴香の顔、そんな晴香の髪を結う色あせた紫色のリボンは適度な若々しさを秘めていて、すべてが不釣り合いである少女が杯を持つ。これもまた不釣り合いなものであった。

「何もかもがちぐはぐなのに可愛いなんてズルいねアンタは」

 天音の好きな人自慢を好きな人本人に言って聞かせながら晴香の悩みを聞いていた。


曰く、最近人には言えないようなイヤらしい夢を見るらしい。晴香と天音がベッドに入ってどうだのこうだの、顔を赤くして熱で頬を染めて詳しくは語らないものの、良からぬ怪異に良からぬものを見せられていることだけは間違いなかった。


 天音は推測、否、即座に断定した。

「夢魔ね、インキュバスなのやら女の子どうしの恋が好きなサキュバスなのやら分かりやしないのだけれども、その辺のなにか……今日はウチに泊まっていきな」

 その言葉を耳にして恥ずかしそうに顔を塞ぐ晴香。

――分かってる、アンタの想いは

 人の頭の中で勝手に繰り広げられる見ていられないようなある種の悪夢、人の許しを請うことすらしないで覗き込む行い。

「わいせつ罪とプライバシーの侵害……情状酌量の余地などありやしないね」

 断罪の意志を胸に置いた天音の表情は本気そのものだった。



  ☆



 それからどれだけの時が過去へと流されて行っただろう。天音が見張るベッドで眠ろうとするも思い出してしまっては顔が熱くなり心の波は大荒れとなる。眠れぬ悪夢の夜、といったところだろうか。なんと晴香の隣りでは椅子に座った天音が瞳を閉じて意識を闇に落としてしまっていた。次にその意識を拾い上げるのはいつのことであろうか、眠らなければ現れない存在を祓うために起きていたはずの天音が先に眠るという本末転倒なこの状協に晴香は思わず笑っていた。

――お酒の飲みすぎだよ、天音

 今夜は解決できないと分かった晴香は落胆しつつも安心を得て天音の後を追うように静かに眠りの闇に落ちた。

 天音は目を開く。夢魔が見せる背徳的な夢のヒロインである自身が起きていては安心して眠ることなどできないであろう。頭では分かっていても激しく揺り動く感情を操ることなど本人であってもできることではないのだから。狸寝入りで誤魔化し晴香に眠ることのできるだけの安心感を与えた天音は晴香のあどけない寝顔を熱の入った視線で見つめ愛しさ全開の卑しい表情で微笑む。

――狸寝入りだなんてね、知り合いに狸いるのだけど……キヌ寝入り、的な

 冗談を心に仕舞っておいて晴香を観察し続ける。何がでてくるのか何もでてこないのかふたつにひとつ、天音は生唾を飲み込む。

 数秒の経過のうちに数分過ごしたような気分を緊張を携えて味わう。解決できるのだろうか、不安は頭を揺らして体をふらつかせる。

 来るか来ないか来ないのか、来ない来ない現れない。

 不安に支配されかけた天音だったが、ついに晴香の内から何かが現れた。その姿は天音がよく知るあの姿、天音の姿そのものだ。

――アタシの姿だなんて晴香アンタそんなにアタシのこと

 サキュバス、それは憑いた人の愛する人の姿をして現れた。

「んんと、今日も女の子同士のいいもの補給しなくちゃね」

 サキュバスの妄想、それを具現化するべく晴香の頭に描き始める。それを簡単に許す天音ではなかった。

「他人様の頭で勝手に実在人物同士の恋愛妄想してんじゃないよ、著作権違反め!」

 自身と同じ顔をした化け物を扇子で叩き吹き飛ばす。罪人サキュバスは天音と同じ口から出たとは思えない可愛らしい悲鳴を上げながら暗闇の彼方、散りばめられた星と同化して消えていった。

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