第7話 自分の広さと世界の広さ

「……かあ、さん……」


 サトルが目を覚ましたのは、船の中にある自分の部屋。

 部屋と言ってもベッドと着替えが二、三着入ったクローゼットがあるだけの質素なもの。

 母が攫われる以前は、ロボットのおもちゃや漫画本も置かれていたが、剣を握るようになってからはそれらはひとまとめにして物置の奥にしまいこんである。

 なぜ自分がここにいるのか分からないままサトルはゆっくりと上体を起こす。


「おはようございます」


 横からの声に、うん、と寝ぼけた頭で答える。聞き慣れないものだったが、女声だったからきっとベスだろうと決めつけて、頭を整理する。

 確かいろいろ聞いたあと近くの部屋で爆発があって、サングィスさまは行方不明になってそれで……。


「母さん!」


 まだ話したいことがあるのに。

 あんなかたちで別れてしまった。

 足下のシーツを撥ね除けて立ち上がろうとするサトルを、


「サョリさまなら、無事に脱出なさいました」


 横からの女声が冷静に引き留める。

 そちらに目を向ければ、ベスではなくサヴロスが座っていた。名は確か、


「トルア、さん?」

「はい」


 にこりと微笑んで会釈する。

 合っていたようだ。

 でもなんで、と思う。あのとき母は「船を出たらベスに迎えに来てもらえ」と言っていた。つまり、彼女がいまここにいる必要はない。


「な、なんでまだここにいるんです? あなたは母……サョリさまの近衞なのでしょう?」

「サョリさまから賜った、サトルさまの護衛の任がまだ解かれていません。ベス殿にも許可を得ています。……ご不便かも知れませんが、しばらくの間行動を共にさせてもらいます」


 そうですか、と生返事で返し、大きく息を吐く。


「えっと、ぼくと……サョリさんのことは、知ってるんですか?」


 どうしても、まだ母をサョリと呼ぶことは慣れない。


「いちどだけ、サョリさまがサヴロスへ成られる儀式の前夜に、話してくださいました。息子だけでなく、ユヱネスとしてのすべてを捨てるのだと」

「……」

「ですが、サトルさんのことを話されているときは、とても楽しそうに、嬉しそうになさっていました。たぶん、輿入れされてはじめての笑顔を、わたくしは拝させて頂いたと思います」


 でも、と言いかけて止めた。

 かわりに小さく息を吐いて、立てた膝に額を当てる。

 だめだ。冷静になれない。

 となりにいるのはサョリではないと分かっていても、サヴロスの細かい見分けができないサトルにはどうしても母の、いやサョリの姿が重なる。


「ごめんなさい。少し、ひとりにさせてください」


 はい、と言って静かに退出していくトルアを、サトルは視線で送ることもしない。

 ドアが閉まる音が耳に引っかかる。

 無音となった部屋に、やがてぽつりとしずくが落ちる。

 捨てられた。

 母に。

 二度も。

 もう、なにもかもがどうでもよくなってきた。

 この五年、母を取り戻すことだけを考えて剣を振ってきた。

 それが、手を差し伸べるよりもはやく拒絶され、母は愛する者の元へ去って行った。

 膝に頭を押しつけたまま、サトルはつぶやく。


「どうしたらいい、かな。ベス」


 こたえを求めての言葉じゃない。

 剣を振り続け、サングィスが開催する闘技大会に出場するようになって、船の中だけだった世界が大きく広がった。

 あそこにあった暖かさを受け入れていれば、母のいなくなった世界を、母がいないままどうにか生きていけたのだろう。

 けれどそれ以上に大きな目的があったサトルには、それを頭の片隅に追いやって極力考えないようにしていた。

 けれど、目的を失ったいま、世界の広さがサトルを世界の片隅に追いやっていく。

 けれど、そんなことすら、もうどうだっていい。 

 母親から二度も捨てられるような自分は、世界の広さに押しつぶされて消え去ってしまえばいい。

 だってもう、自分には生きる理由がないのだから。


『私は』


 返事があった。


『私は以前、一千万近くの人間と、三百万近い動植物たちと星の海を渡り、そしてこの星に降り立ちました』


 うん、と力なく返す。


『人々はこの星の文化文明に惹かれ、遺伝子を操作して星の環境に適応し、ほどなくして私の元を去り、星に根付いていきました。

 私の船体からだは徐々に、いまは千分の一以下にまで縮小され、家畜も大半が人々と共に船を去り、龍種たちと共にいまでも命を繋いでいます。

 そしてここに残った人類種はサトル、あなたひとりだけです。

 私のメンテナンスや家畜の世話は義体を使えば私ひとりでもできますし、義体たちがいれば話し相手ぐらいにはなりますが、どこかむなしくもあります。

 お願いです。

 できるだけ、私と一緒にいてください。

 人が、命が一緒でなければ、機械である私の存在意義は半減してしまいますから』


 そう言って、ベスは小さく笑ったように感じた。


「そういう言い方、ずるいよ」

『オトナはずるいのです。狡猾とはすこし違う、ずるさを持てと私の設計者は常に言っていました』


 なにそれ、と小さく笑った。


『また、ふたりで生きていきましょう。……無論、家族が増えることに反対はしませんけれど』


 もう、と怒ったように返し、ゆっくりと顔をあげる。

 頬に涙が乾いた跡と、額にシーツの跡があるが、表情に曇りは無かった。


「ありがと、ベス。ちょっとだけ、元気出た」

『いえ。いま飲み物を用意しますね』

「ありがと。……でもね、ベス」

『なんです?』

「母さん、……サョリさんね、きれいだったんだ」


 唐突な言葉に思わず聞き返してしまう。


『はい?』

「サヴロスの女の人をあんな近くで見たのってはじめてだったけどさ、でも、すごい、きれいだったんだ」

『な、なにを言ってるんですかサトル?』

「え、変なこと言ってる?」

『変ではないですが、ええと、その』


 ベスが言葉を選んでいる間にもサトルは熱っぽく語る。


「肌っていうか鱗はつやつやしてて、触ったらすごいすべすべしてたんだ。柔らかかったし、暖かかったんだ」

『い、いけませんサトル。それ以上は』

「いいじゃないさ。思い出したりするぐらい」

『そうですが……』


 ベスは迷った。

 サトルがサョリに抱いている感情が、ただの年上への憧れであるならばそれでいい。


『特にあなたぐらいの年頃は年上の異性に憧れたりするものですが、サョリはフウコ。あなたの母親なんですよ』

「分かってるよ。そんなこと。でもさ」


 ああ、いけない。

 これは、恋だ。

 ベスも数多見てきた、恋する少年少女の純粋な瞳。

 サトルの艶やかな瞳は、それと同じ輝きをしている。

 彼女が移民船として人間たちの世話をするようになってから幾星霜。肉親や同性とそういう関係に至った者たちも数多く見てきたし、相談されれば応援もしてきた。

 けれど、とベスの長年の経験が忠告してくるのだ。

 なぜ、とふたりに関するデータを洗い直す。

 そうか。重大なことを失念していた。


『やっぱりだめですサトル。サョリはサングィスさまのお妃です』


 説得する材料がようやく見つかって、ベスは深く深く安堵した。


「うるさいなぁ、そんなこと分かってるよ。ベスはなにをそんなに心配してるのさ」


 唇をとがらせるサトル。

 自分でもなぜここまで危惧しているのか分からないまま、ベスはどうにかしてサトルの興味をサョリから逸らそうと話題を変える。


『え、ええと、タリア。そう、ウィスタリア姫はどう思ってるんです? 女の子で良かったって言ってたじゃないですか』


 思いがけない名前だったのでサトルは戸惑いつつ、


「うん。タリアもきれいだと思うよ。強いし、かっこよかったし。……ちょっと乱暴っていうか気が強い感じがしたけど、たぶんともだちになれると思う」


 ともだち、という言葉にベスは少し残念に思うが、サトルに恋愛経験はもちろん同世代の友人すらいないのだ。こういう単語が出ただけ希望はある。


「……そうだ、タリアもサングィスさまと同じ部屋にいたはずなんだ」


 なんでいままで忘れていたんだろう、とベッドから降りて出口へ向かう。


『どこへ行くんです』

「だってタリアを探さないと」

『それはサヴロスの方々がやっています。子供のあなたがひとり赴いたところで邪魔になるだけです』

「でも、じっとしてなんていられないよ」

『それでも、です』


 厳しく、剣術の稽古を付けられている時のように言われ、サトルはうなだれる。


『サトル、あなたはサヴロスの方々のように、においで個人を判断したり、ギアなしで巨岩を持ち上げたり、そもそも法術だって使えないでしょう?』

「でも、でもさ」

『サトルの気持ちもわかるつもりです。裏で別のベス《わたし》がトルアさんに事情を伺いましたが、サトルが活躍できるような状況ではないようです。

 それに、タリア姫にはスズカさんがついています。私の見立てではスズカさんの体術はかなりのものです。サトルだって勝てるかどうか、という域だと思います』

「そんなに?」

『ええ。あなたの師匠である私の見立てです。信じられませんか?』


 穏やかに、やや冗談めかして言われてサトルはどうにか顔をあげる。


「わかった。タリアはぼくに頼みたいことがあるって言ってたから、すぐここに来ると思う。そのときには、」


 なにか大事なことを言おうとしていたのだと思いつつ、ベスは事務的な口調に変わって言う。


『サトル、何者かがこの船へ急速に飛来してきます。警戒してください』


 なにそれ、とどこか呆然と答えていた。

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