第4章 傷つけるのはハートだけ、口づけるのは頬にだけ

4-0 死人の森


 何故、あんなにも彼は苦しんでいるのだろう。

 決まっている。人が苦しむのは、いつだって『内なる法』に背いたとき。

 自らの世界観を定める、絶対遵守の法秩序が揺るがされたときだ。

 だとすれば。


 あの苦痛、あの醜態、あの嘆き。

 全て全て、肯定して受け止めて、傷口を抉って苦しめ続けてみたい。

 それは、正しい苦しみなのだと。

 その苦しみこそ、貴方の秩序の正しさなのだと糾弾し、弾劾し、その行動と人格と欺瞞にあらん限りの罵声を浴びせたい。


 失われている左手よりも、罪の赤に濡れた鋼の右手の方こそを、虐めて嬲って躾けて撫でて触って抱きしめて――愛してあげたい。

 ただ、そう思った。


 それはきっと、恋だった。

 救いよりも、優しさよりも、熱病のような加虐が彼女の望み。

 だというのに。


 あの灰色は、なにより綺麗な苦しみを、あっけなく塗りつぶしてしまった。

 なんてひどい。

 なんて傲慢。


 頭が痛い。

 よっぽど割って入って止めてやろうかと思ったけれど、ざわざわと揺れる暗い森の奥から彼女は動けない。


 頭が割れる。

 思い出せない遠い遠い彼方で、あの灰色に、黒に、白に、無彩色に。

 ひどく、根源的な恐怖を植え付けられたような。


 また、私から奪うのか。

 理由もわからず、そんなことを思った。

 憎い。許せない。


 赦しを与える左手が、罪に塗れた右手を清めていく。それがどうしようもなく許せなくて、それがなによりも悔しくて、動けない自分を呪いながら、それより強く、傲慢な救世主気取りを呪い呪って呪わしく睨み付けた。


 憎しみと愛しさが混濁する胸は張り裂けそう。

 私なら。

 たとえ耐え切れずに彼の心が砕け散って狂ってしまっても。

 それすら丸ごと、愛してあげられるのに。


 醜悪な嫉妬が込み上げるのを自覚して、ただそれを受け入れる。

 自分は醜い。私は邪悪。

 この加虐嗜好を、どうしようもなく自分にすらぶつけたくてたまらない。


 どうして、あの色無しなのだろう。

 どうして、私じゃないのだろう。

 ――嫌だ。

 それは、感情というより決意。


 そして、明確に自覚されることは無かったけれど。

 未来の彼方に置いてきた、それは逆襲の意思だった。

 暗く静かな死人の森で、粘着質な妄執が泡となって浮かび上がる。

 

 夢の中、鋼の右腕が纏う血の色に、目を奪われた。

 それがはじまり。微睡みと過去とが交わる、死と悦楽の散文詩。

 浮上する泡に溶けて、消えていく寝物語の、最初の一文。




「ああ、もちろんそうさ。間違いねえよ。手入れだ。逃げるが勝ちってもんだろうがよ、ここはもう畳むしかねえ。『女王陛下』には逆らえねえよ」


「くそったれが、公社のほうがまだなんぼかマシだったぜ。お陰で商売上がったりだ。やってらんねえよ」


「言うなって。命あっての物種だろうがよ」


 そこは暗がりだった。

 乱雑に立ち並ぶ箱形の建造物の隙間――昨今はその細部も少しずつ凝ったつくりのものが増えてきたが、それでも『いい加減さ』というものには需要がある。


 使役された働き火蜂が蜜蝋の灯りをあちこちに運んでいた。

 もたらされた知らせはこの空間の終わりを意味している。

 仄明かりに照らされて、色の付いた煙をくゆらせたり、注射針や錠剤を手にしたり、粉末をありふれた茶に混ぜて楽しんでいる者たちは口々に罵声を上げた。


「けどよぉー、別に禁止されるわけでもねえんだろ? カネの行き先が変わるだけって思えばいいんじゃねえの? 下手に逆らったり逃げたりしても殺されるだけだろ。従う限りお優しいって話だぜ、女王サマは」


「ああ、だよなあ。政府公認のクスリはもっといい感じに飛べるって話だぜ。俺らじゃあ手の届かない雲上人サマが使ってる合法なやつと同じ成分で作ってるとかでよう。落ち目の三報会よりかはあっちのほうが――」


「おい」


 一人の男が、低く唸った。

 筋骨隆々とした太い腕を露わにした巨漢である。

 その頬には、特徴的な刺青――『三つの報い』を象徴する図像が燐光と呪術的意味を放射して周囲を威圧する。


「てめえ、そいつはこの俺に喧嘩売ってんのかい?」


 ひい、と言葉を交わしていたものたちが泡を食って逃げ出そうとする。

 だが、刺青の巨漢は彼らを逃がさなかった。

 刺青――呪紋が輝き、剛腕が伸びる。

 がしりと肩を掴むと、凄まじい握力で握り込んだ。


「なあーにが女王サマだ、ああ? ガロアンディアンだかなんだか知らねえが、後からしゃしゃり出てきた奴が勘違いして調子乗ってるだけだろうが。てめえら、訳のわからねえ女風情に尻尾振るつもりかよ、ああ?」


「いてて、痛ぇって!」


「仕方ねえだろ、逆らったらマジで殺されちまうよ! なにせ女王サマには、とびっきりおっかねえ――」


 二人の男はそのまま引きずり倒された。

 勢いよく硬い地面に叩きつけられて呻く彼らの首に当てられる、鋭く伸びた爪。

 伸びる腕に刃と化す爪。

 巨漢が呪術の使い手であることは間違い無いように思われた。


「殺されねえとわからねえか、腑抜けども」


 巨漢の言葉はただの脅しではない。

 三報会のならず者たちは理性が吹き飛んでいる。それが報復を招きかねないとしても、更なる報復で返せば全て丸く収まるというのが彼らの信仰なのだ。

 殺意を膨れあがらせる巨漢に二人の男が竦み上がったその時。


「そのへんにしといたらどうだい」


 いつの間に、そこにいたのだろうか。

 様々な色合いの煙の向こう側、椅子や簡易卓代わりの箱に腰掛けた人影が、ゆっくりと身体を起こす。


「離してやれ」


「んだとこら、てめえも痛い目みてえのか、ああん?」


「両手が塞がってたらこっちに対応できないだろ――っと」 


 人影は腰を落とすと、ゆっくり、ゆっくりと片足を持ち上げていく。

 高い。

 と、人影の頭部の横に、小さな立体幻像が出現した。

 縮小された人型が、明朗に声を紡ぐ。


「発気、よぉぉぉぉぉい」


 傾いだ身体が元に戻り、足が床に振り下ろされる。

 驚くほど、音がしなかった。


 だが、もたらされた破壊は甚大だった。

 踏み抜いた石の地面が粉砕され、ひび割れ、破片となって放射状に持ち上がっていく。そしてそれが踏み込みだった。


「残ったぁっ」


 幻像が叫ぶと同時、人影がかき消えた。

 瞬時に刺青の巨漢の懐に潜り込むと、掌を突き出す。

 過程は誰にも目視できなかった。


 骨と内臓が丸ごと拉げて破壊されたという結果だけが誰の目にも明らかであり、勝負は一瞬で着いた――かに思われた。

 しかし。


「残った」


 小さな幻像はなおも言葉を発する。

 人影は瀕死の重傷を負った刺青の巨漢の下履きを両手で掴む。

 腰の辺りを持ち上げて、床に叩きつける。

 まず、それで首の骨が折れた。だが。


「残った」


 振り下ろされた掌が、頭蓋を叩きつぶす。

 死の確定。それでも。


「残った」


 剛腕が、繰り返し繰り返し振り下ろされる。

 肉を潰し骨を圧壊させ人体が原型を留めなくなるまで――肉塊と化してもまだ「残った」は続き、すり潰された血肉が砕けた石の間に擦り込まれて消えていくまで、それは延々と続いた。


「残った、残った残った残った残った残った残った残った残った残った残った」


 幻像は扇にも似た道具を手にしていた。柄の反対側からは房紐が付いており、黒い扇はどこか蝶にも似ている。

 絶え間なく続いていた言葉が途切れ、『それ』が上がった。

 勝者として片方が示されているのだと、背後の文脈を知らぬ誰もが理解し、そして恐れた。


 残った――あの言葉は、つまり命が、原型が、肉片が、細胞が、存在がまだ残っている、という事を示している。

 塵も残さず滅ぼし尽くす。

 それがこの戦士たちの戦闘理念なのだ。


「あーあ。現地人を無闇に殺すのはどうかと思うよ? アキラ」


「じゃあその軍配は何」


「これが仕事だから」


 幻像と人影――その場にいる誰よりも巨大な存在に、誰もが恐れおののく。

 助けられた二人は、怖れながらも礼を口にした。敵対すれば命は無いと理解し、必死になって腰を低くする。

 そして、あることに気付いた。


「あ、あんた、アキラって言うのかい。じゃあ、もしかして」


「俺ぁ知ってるぜ、今のかけ声はサイバーカラテってヤツだろ! はっけいようい? だっけ? 女王サマの『猟犬』が使うってあの武術だよ!」


 その言葉に、人影と幻像が同時に反応した。

 そして、つるりとした禿頭を撫でながら、その女は眠たげな目を凶暴に見開くと、獰猛な笑みを浮かべる。


「ね、その話、もうちょっと詳しく聞かせてくれない?」


「え? でも、あんたがその、『女王の猟犬』なんだろ? 確か、シナモリ・アキラって名前の――あれ、でも男だって聞いたような」


「ああうん、そうそう。私はアキラ。間違い無くそれとおんなじ名前だよ。名前は、だけど」


「いやあ、ここまで辿り着くのに難儀したけど、ようやくそれらしい情報源に巡り会えたね。ようやく仕事が出来そうじゃないか、アキラ?」


 混乱する男の前で、禿頭の女と幻像の男が言葉を交わす。

 先程殺害した刺青の巨漢を遙かに上回る体格、人間に搭載可能な筋肉量の限界を超えて手術で詰め込んだとしか思えないほど太い腕、盛り上がった鎧のように分厚い胸、丸太、いや柱のような両足。


 もはや芸術の域にまで高められた修練の成果。

 鍛え上げられた女の人体は、まさに歩く兵器である。

 にっと歯を見せて笑う。思いの外、人の良さそうな毒のない表情であった。


「私はしがない【保険屋】で【警備員】、ついでにおまけで清掃業だ。【殺し屋】を――殺しに来た」


「それと、サイバーカラテなんて一時の流行と一緒にしないで欲しいね。僕たちのはもっと古くて伝統的な、【スモー】なんだから」


「スモウ?」


 男は目を白黒させて、オウム返しに呟いた。

 巨大な女と幻像の男は頷いて、名乗りを上げた。


「【力士スモーレスラー】のゾーイ・アキラだ。こっちはケイト。さ、『アキラ』について知ってることを教えてよ。いい加減待ちくたびれたんだ。ようやく仕事に取りかかれる、ってね」


 第五階層の闇で、怪物がその牙を突き立てる先を見定めようとしていた。




 ガロアンディアン――すなわち第五階層の『政府』およびその影響下にある公共企業体である公社の認可を受けていない違法薬物は全て取り締まりの対象となる。

 公社を管理していたのは地上の大企業ペリグランティア製薬だったが、ガロアンディアンは製薬会社との繋がりを保ったまま公社そのものを買い取り、所有、経営している。


 極めて凄惨な上層部の刷新――という名の『粛正』が行われ、現在は【猫の取り替え子チェンジリング】が公社の頂点に立っているという。

 あまりの不吉さ、おぞましさに誰もがガロアンディアンと公社に道を譲る。

 逆らえば、【猟犬】の牙に喰い殺される。


 まず悪鬼どもがその餌食となり、三報会は壊滅寸前、夜警団は早々に頭を垂れ、マレブランケは最初から【猟犬】の信奉者。

 マグドール商会は独立性を保ちつつも第五階層の情勢を見極めて最善の立ち位置を模索しつつあり、ティリビナ同胞団は公社の頂点と友好的な関係を築き上げているという。


 建国が宣言されてから、わずかに三ヶ月。

 ガロアンディアンは急速にその勢力を拡大し、もはやその名は第五階層そのものを示すようになりつつあった。


 女王の治世は、苛烈にして残虐。

 逆らうことなど許されぬ死と暴力の嵐は、まさしく天災のようなものだ。

 その一方で、服従を示せば寛大にして手厚い庇護を受けられる。


 ガロアンディアンとその統治者たる女王は、次第に支持を集めつつあった。

 しかし、光があれば必ず影が出来るように、全てが一色に染まるということもまた無い。


「やりづらくなっちまったなあ、ったく」


 うんざりした口調。

 大柄な男は、野卑な口調で吐き捨てた。

 男は複雑な裏道を通り、決められた符丁で案内人と情報をやり取りし、高価な呪石を握らせて、ようやくその場所に辿り着いた。


 そこは娼館だった。

 もちろん認可済みなわけがない。

 完全に違法の売春宿である。


 何が法だと男は唾を吐いた。

 公営娼館など子供のお遊戯場ではないか。 

 認可済みの合法霊薬など躾けられた飼い犬が使うものだ。


 『本物の男』はそんなものでは満足できない。

 自明のはずの真実がわからない現第五階層の主は所詮『女』でしかない。


「へっ、女王気取りのメスが、いつかぶちこんで躾けてやるぜ」


 どいつもこいつも、女ごときにいいようにされて情けない。

 そもそも女などと言うものは、男に屈伏させられるために生まれてくるものだ。

 下手に知恵を付けて何かを勘違いした連中が、分をわきまえずに男の世界に土足で足を踏み入れてくる。


 我慢ならない。

 ただ黙って従っていればよいものを、少しばかり優しくしてつけあがらせた結果がこれだ。


 愚かな女どもに、身の程というものをきっちり教えてやらなければならない。

 それが自分の使命なのだ。

 意気揚々と階段を下りていく。


 地下に物質創造力を働かせる方法は、建国時に女王が開示した無数の原始記述のひとつである。

 こんなところにまでガロアンディアンの影響が及んでいる。

 男は舌打ちしたが、しかし隠れ潜まなければこのような場所は存続できない。


 公社はかつては企業の奴隷、今でこそ王国の犬だが、古くは呪術師たちが団結して作ったぱん――良くある秘密結社の一つだった。

 それは呪力を高める為に民間宗教という形式をとり、首領と呼ばれる頭目を頂点とした疑似家族的な犯罪組織を形成しており、現在もその名残がある。


 今でこそ第四位の眷族種に組み込まれている【ウィータスティカの鰓耳の民】たちだが、かつては槍神教と激しい戦いを繰り広げていた。

 争いから逃れようと、地上の南東海諸島から本大陸辺境に渡った鰓耳の民たちは南方系の霊長類と混血し、生き残るために手を取り合ったという。


 南東海へと流れ込む長大な江湖――その流域、さらには水域の中で、武術と呪術を身につけ団結し、独自の価値観を形成した社会。

 その主要な構成員たる侠客たちは上から理不尽な条理を押しつけてくる『官』を嫌い、自主独立の気風を重んじて自分たちだけの『法』を作った。


 発足当初は非合法であったその組織、その社会は『公』は自ら定めるという誇りと共に『公社』を名乗り、『呪侠』となって江湖に覇を唱えた。

 そして、槍神教の『聖絶』によってその栄華はあっけなく終焉を迎える。


 だが、絶滅は完全には遂行されなかった。

 複合巨大企業群が、その独特な文化様式に価値を見出したのである。

 つまり、呪侠たちの江湖文化は価値を創出する。意味を産出する。

 ならばそれは呪力の源だ。


 利潤。

 それを収奪するためだけに呪侠たちは生かされ、公社は大企業の走狗と成り果てている。大企業からすれば『救済』のつもりなのだろうが、傷つけられた誇りは回復されないまま冷たく暗い恨みとなって堆積している。


迷迭香ローズマリーの姐さん――」


 男は、かつての主人の名を呟いた。

 公社の首領、ロドウィに次ぐ位階――『四兄弟姉妹』の第三席。

 暗黒街の娼館を束ねる女傑。

 女王と呼ぶのならば、あのような人こそ相応しい。彼女だけは特別だ。他のメスどもは家畜同然だが、あの女性だけは女神にも等しい。


 三ヶ月前の動乱から行方の知れない彼女を、男は捜し続けていた。

 自分は彼女の忠実な下僕だが、他の『豚』どもとは違う。

 たった一人だけ彼女を深く理解している本物の男なのだ。


 第二席、セージ派の『耳出し』連中は早々にガロアンディアンに寝返ったが、自分は違う。主人たちが生きている事を信じて戦い続けている。

 本物の男は簡単に主を変えたりしない。押しつけられた天使を拒絶し、鰓耳を捨てて屈強な肉体を手に入れた己はただ主を信じ、探し続けるのみ。


 そして今宵、ようやくその手がかりを手に入れたのである。

 階段を下りきって、扉に手を触れる。

 その右手には巨大な手甲が嵌められていて、内部がどうなっているのかはわからない。しかし、溢れんばかりの呪力がひどく険呑な雰囲気を漂わせていた。


 扉に刻まれた三角錐の図像が淡く輝き、ゆっくりと横にスライドしていく。

 三角錐から生えている三本の手、あるいは足は、天使ペレケテンヌルの象徴だ。

 探索者集団【変異の三手】――とある事情により公社と深い繋がりを有するその組織が第五階層に『帰還』したのはつい先月のことである。


 実に半年ぶりの帰還。

 第五階層が攻略されて三ヶ月ほど経過し、『暗黒街』が本格的に形成されるよりも先に、彼らは【死人の森】に潜り攻略を開始した。


 それから不定期に帰還して公社と接触していたようだが、すぐに第五階層の裏面へと潜って探索者としての本分に没頭する。

 探索狂いと称される集団の頂点は、俗世には興味が無いらしい。

 しかしある繋がりのため、その権威だけを公社に貸し出していた。


 企業所属の探索者集団としては最大手――どころか、複数企業の探索事業部門を束ね上げた複雑怪奇な組織である【変異の三手】の勢力は、ガロアンディアンにも決して劣らない。


 『彼ら』が帰ってきた以上、女王とやらも今まで通りの好き勝手はできないだろう。新しい秩序が第五階層に築かれることは間違い無い。

 この地下娼館もその新秩序の一つ。


 男がこの場所に来たのは、探し求めているローズマリーらしき人物がその場所にいたという『噂』を聞きつけたからであった。

 娼館の女主人であった彼女が、同盟関係にあった【変異の三手】の助けで再起を図っているのだと彼は確信した。


 すぐさま駆けつけ、扉を開き――そこで落胆した。

 壁に灯された蝋燭の照明がぼんやりと広い空間の輪郭を浮かび上がらせている。

 壁も床も無機質で、奥に続く通路は奈落の蓋を開けたかのようにただ闇一色。

 人の気配はぞっとするほど無い。


 ここは無人だと確信する。

 ガセネタを掴まされたか。所詮は噂、エーラマーンへの祈りなどつまりは『あてにならない』ことの言い換えでしかない。

 落胆が思ったよりも大きい。期待しすぎたようだ。


 舌打ちしかけて思い直す。

 まず少しでも奥を探して見ようと足を踏み出した男は、奇妙な事に気付いた。

 左右に、動く物体がある。

 

 人ではない。鍛え上げられた男の五感は生命の気配を捉え損なったりはしない。

 それは白骨死体だった。

 骨だけで直立する、不気味な人型。


 左右に一体ずつ。

 片方は旋棍トンファーを手にしながら木の棒に打ちかかる動作を繰り返している。繰り返し繰り返し、飽きもせずただ殴りつける。


 片方は鞭を手に、硬い床を打ち付ける。

 背景音楽のように、完全に決まったリズムで繰り返す。

 呪術で動く骨の人形。

 ひどく悪趣味だが、警備用だろうか?


 男は舌打ちをする。

 旋棍に鞭。その武器が、男がかつて仕えていた四姉妹を思い出させたからだ。

 不快だった。主たるローズマリーを、武術の稽古相手をしてやったアニスを、穢されたような気がした。


 この娼館の主を見つけたら問いただし、一発殴ってやろう。

 ――いや、そもそも、ここのどこが娼館なのだ?

 不吉な空気だけが漂う、死の薫りに満ちた暗がり。


 ここはまるで地下墓地だ。

 生の躍動と性の欲動に満ちあふれた場とは正反対。

 死への衝動を喚起するような作りは、もしや逆の感情を煽るための仕掛けであるのだろうか。


 理解不能だと男は思考を中断した。

 左右の不気味な白骨を無視して、奥へ進もうとする。

 その時であった。


「うお、何だ、このっ、離れろっ」


 腰の辺り、低い位置に何かいる。

 まとわりついてくるそれは――犬?

 いや、ちがう。

 狼だ。


 その動きには奇妙な知性が感じられ、また足下で影が生き物のように蠢いている。間違い無くただの狼ではない。

 滅びたはずの人狼ウェアウルフ

 まだ生き残りがいたのだろうか。


「なんだ、こいつ、腐ってやがるのか?」


 ぎょっとして後退る。

 四つ脚の狼は、胴体部分を大きく窪ませて内臓を露わにしていた。

 垂れ下がる臓物と突き出た骨。筋肉の繊維が赤々としている。


 足の先は全て純白。

 骨の脚を動かして男の周囲を動き回る。

 はっはっと息を吐きながら舌を突き出すが、この狼に調整すべき体温があるようには見えない。よく見れば舌も腐りかけで放熱の役になど立っていない。


 人狼は、死にながら生きている。

 あるいは、生きながら死んでいるのか。

 左右の白骨といい、この場所は何かがおかしい。


 帰るべきだ。

 踵を返し、すぐさまこの場を立ち去り、何もかも忘れるべきだ。

 それは動物的な直感であったが、何か抗いがたい欲望のようなものが男を捉えて離さない。


「あらあら。折角のお客様においたをしては駄目ですよ、カイン」


 澄み切った声が、地下の闇を吹き抜けていった。

 美しい蒼穹を渡る爽やかな風のような、心ごと洗い流すかのような美声。

 だというのに、どうしようもなく恐ろしい。

 一人の女性が、奥の闇から姿を現した。


 脳髄と心臓を同時に鷲掴みにされて、目の前にはっきりとした死を突きつけられているかのような猛烈な悪寒。

 怖気を振るう美しさ。

 逃げ出したいのに、狂おしいほど愛おしい。


 欲しいと思ってしまった。

 手を伸ばせば死ぬだろう。だがそれでも触れたいと願ってしまう。

 恍惚と欲情と死の恐怖が渾然一体となり、男はその場から動けない。


 背後で扉が固く閉ざされたが、そんなことには気づけなかった。

 目の前の圧倒的な輝きに、完全に魅了されてしまっていたからだ。

 ローズマリー? 誰だその雌豚は。


 この至上の美貌こそ自分が求めていたものに他ならない。

 公社など知らぬ。

 主人など知らぬ。

 何もかも、この欲動の前では些末事に過ぎない。


「ようこそ旦那様――当館の主人、ウィクトーリアと申します」


「な、なあ! あんたは、あんたは抱けるのか!? 幾らでも出す、金はあるんだ、だから、だからよう――」


 男は口から涎を垂らし、目を血走らせて女性に詰め寄る。

 小さな肩を荒っぽく掴むと骨肉を砕き引き裂かんばかりの力で圧迫する。

 左右の白骨死体がぴたりと動きを止め、腐乱した狼が鋭く吠えた。


 女性は、痛みからか灰色の瞳を僅かに揺らめかせ――しかし平然とした表情で顎にほっそりとした指先を当てて思案する。


「あらあら、熱烈ですね。どうしましょう。旦那様、奥にはとっても素敵な子たちが揃っていますのよ? ほら、素敵な殿方が待ちきれないって、あんなに」


 繊手が示した先、薄明かりに照らされた暗闇の中に、何かが蠢いている。

 長い、艶やかな黒髪が、長虫のように床を這っているのが見えた。

 女性だ、と何故か直感した。


 長髪の下にある顔は見えない。

 ただ、闇の中で爛々と光る瞳が、血のように赤く。

 ずりずりと這いずってくる女の影が、手を伸ばしてこちらへ近付く度に、少しずつ崩れていく柔らかい手が、震えを掻き立てるような臭気を蔓延させていた。


 次々と、次々と、柔らかく、脆く、繊細な女体が、床を這いずって近付いて来ているのだった。

 ふっと蝋燭の一つが消えた。

 男は足首を掴む感触に気がつく。


 視線を巡らせた。

 長い髪をした、豊満な体つきの女だ。俯せの姿勢から上体を起こそうとしている。広い襟ぐりからのぞく胸元は妖艶な色香を漂わせ、ぐずぐずと腐りながらぽろりとこぼれ落ちる。


 腐肉の薫り。

 垂れ下がった髪、その合間から見える顔の造型はこの上なく整っており、瞳もまた美しく、だがしかし――。


「お、俺はあんたがいい、あんたにするよ、あんたにさせてくれ!」


 必死になって叫ぶ。

 縋り付くかのように――否、事実として腰砕けになった男は膝をついて娼館の女主人であるウィクトーリアに縋り付いていた。


 怯える幼子が母親に抱きつくように、豊かな胸元に顔を埋める。

 まるで、そうしていなければとても正気を保てないとでも言うように。

 輝かんばかりの美貌を柔らかく微笑みの形に変えながら、ウィクトーリアは男の頭を撫でて言った。


「あら。甘えんぼさんですね。それじゃあ、みんなにはちょっとだけ我慢してもらいましょうか」


 その言葉こそが呪文であったかのように、全ての異変がかき消えた。

 気付けば照明は前よりも明るくその場所を照らし、周囲には死を思わせるものは何も無い。


 心臓を掴んでいた恐怖が消えていくのを感じて、男は急速に自信を取り戻していく。そうだ、何を怯えることがある。この鍛え上げた肉体があれば大抵のことは乗り越えられるのだ。 

 情けなくへたり込むなど、どうかしていたに違いない。


 立ち上がると、女の肩を掴んで奥へと歩いていく。

 よく見れば趣味のいい上品な建物ではないか。

 照明も程よい明るさで不気味さなどまるでない。

 従業員たちもごく普通に生きているし、顔を出す女どもは美しい。


 機嫌を良くした男は、未だ脳髄を掴まれたままであることに気づけず、周囲の情景が先程までと一切変化していないことを理解できないまま、屍たちが闊歩する暗黒の中に自ら足を踏み入れていく。

 部屋に入る前に、女は口元に人差し指を当てて、一つの約束をさせた。


「一つだけ、約束です。この中では決して『おいた』はしないこと。一夜の夢は、儚く優しく、そして醒めれば何事も無く当たり前の生活に帰るために――」


「ああ、はいはい、わかってる、わかってるさ。だから早く、なあ、早く頼むよ、お願いだからよお」


 女の言葉は、娼館でよくある揉め事を回避する為の決まり事を確認するものだった。娼婦に暴力を振るう客というのはいつでもいるもので、そういった事態に対応する為に用心棒や警備員はいつでも必要とされる。


 男もまた、そうした役目を担っていたことがある。

 心得たものだった。言われるまでも無い。


「はい。いいお返事ですね」


 にこやかに微笑むその姿は、喩えようもないほどに美しい。

 そう――男は心得ている。

 理性は正常に働いている。だから何も問題は無い。この相手と巡り会う為にこの場を訪れ、そして女共がしなを作って寄ってくるのを袖にして、全ての財産を費やして目の前の美女を選んだのだ。何も間違っていない。完璧に冷静で正解だ。


 扉が開き、そして閉じた。

 その周囲に、ぞわり、ぞわりと蠢く腐肉たちが集まってくる。

 息をひそめるように、ただ『その時』を待ち構える、彼女たちは夜の華――。




 改めて見ても、やはり圧倒的に美しい。

 寝台に腰掛けるその姿は楚々としていながらもどこか艶美だ。

 その美貌は、妖精アールヴに特有のもの。

 それも上古の時代よりこの世界に息づく、光妖精リョースアールヴだ。


 光妖精は個体数の少なさから、世界が正確に認識できないのだと言われる。

 そのため、絵画などで耳を尖らせたりすることがままある。

 輝くように神懸かった造型が受け手の現実感を超えてしまい、誇張されたものとして認識されるからだ。


 事実、霊的な感覚が鋭い者ほどその耳を尖っていると認識しやすい。

 そして、その『光妖精は耳が尖っている』という認識は広く共有されるにつれて確かな『常識』となって現実化していく。


 形良く通った鼻梁、滑らかな頬、流麗な耳――人間の限りある知覚能力ではその圧倒的な『美』を見た瞬間の衝撃を表現することは難しい。

 それゆえわかりやすい誇張、戯画化が行われてしまうのである。


 端的に言えば、その女性の美貌は言語を――認識すらも絶していた。

 人の持ちうる視野、色覚、感覚ではその美麗さを余さず受け止めることはできない。彼女の美しさを完璧に表現するためには、光すら足りない。

 

 後光が差す、という言葉は光妖精のためにある。

 輝かんばかりの美貌、という言葉は光妖精を形容するために生まれた。

 美しさが実体を凌駕して霊的に輝く存在。

 それが尖った耳を持つ眷族種、【エルティアス=ティータの白樺の民】である。


 地上の西方、かの星見の塔が存在すると言われている大森林の白樺に喩えられる肌色は、その樹皮のように白い。

 そして、陶器のように滑らかでしっとりとした潤いを保っていた。


 女の滲み一つ無い頬を撫でると、少女のようにその頬を染めて恥じらう。

 たまらなく魅力的だった。

 女というのはこのように男に従順で清楚でなくてはならない。

 女王気取りのあばずれなど何の価値も無い屑だ。


 蜂蜜色の金髪は後ろで短く結い上げられ、細いうなじが露わになっている。

 前髪は目元にかかる程度の長さで、耳の前を通って肩へ垂れ下がった二房がきめ細やかな髪質を金色に輝かせていた。


 灰色の瞳と目の周囲を可憐に彩る細い睫毛、その上の長く整った眉、美しくすっと通った鼻梁に涼しげな口元。

 細い身体にバランス良く乗った小さな頭、そしてその身体つきからは想像もできないほどに豊満な胸元。


 大きさゆえに人目を惹くことは避けられない、ならばいっそ堂々と晒せば良いとばかりに、大胆にも胸元が深く開いた衣服。

 透き通るような肌の白さは、その柔肌の表面にうっすらと枝のような血管を浮き上がらせている。青みのかかった灰色が生物的で、かえって淫靡だった。


 佇まいの清楚さ、顔と胸元以外は露出が皆無であることが、より一層、彼女の艶めかしさを際立たせている。

 もはや一瞬であろうと我慢できない。

 男は女を押し倒すと、鼻息を荒くしながら豊満な胸の間に顔を埋め、涎を垂らしながら獣のように舌で柔肌を舐め回した。


 抑えた嬌声が室内に響いた。

 羞恥に耐えながら、しかし抵抗をする事も無く。

 従順に、清楚に、男の欲望をただ受け止める。

 次第に、恥じらいの中に甘い色が重なるようになっていき――荒々しく動いた腕が服を引き裂くのと同時に、声が一際高く跳ねた。


 興奮した男の手が、ふと止まる。

 どうしてか急に冷めた表情になって、端整な女の顔を見下ろした。

 上気した頬は熱っぽく染まり、その灰色の瞳は隠しきれぬ欲情に染まっている。

 男の瞳に、涙が浮かんだ。


 驚く女の目の前で、男ははらはらと涙を零し、それから小さく呟いた。


「裏切ったな」


「どうかなさいましたか、旦那様?」


「俺の純情を弄んだな、この淫売がぁっ!」


 固く握りしめられた拳が、女性の頬を打った。

 一度では終わらない。

 二度、三度と左右の拳が繊細な頭部を殴打し続ける。

 

「ふざけんなこの雌豚がぁっ! 売女如きが澄まし顔で俺を見下しやがって!」

 

 叫ぶと、その野太い腕で女性の白く美しい顔を殴りつける。

 何度も。何度も何度も。

 顔面を完全に破壊するまで、拳を振り下ろすのを止めようとしない。

 

「クソが、バカにしやがって、俺をこけにしやがって! 何でっ! 何で俺以外の男と寝たっ! てめえはひでえ裏切り者だ、何でだ、何で俺だけじゃねえんだよ、畜生、畜生、処女みてえなツラしやがって、誰にでも股を開くメスが!」

 

 肩を震わせ、悲痛な嗚咽を響かせる。

 男は恋人に裏切られた悲しみに深く心を傷つけられていた。

 彼は女性とは初対面であり、さらに同じ事を今まで買ってきた全ての娼婦に言っているのだが、今この瞬間の彼にとって、目の前の女性は不貞を働いた恋人も同然なのであった。


 彼が買うのは、公社の管理外の娼婦のみ。

 このような男を野放しにすることで、娼婦たちが身を守る術を求めて公社に縋り付かざるをえない状況を作り出しているのであった。

 娼館街の女主人ローズマリーにとって男は優秀な手駒だったのだ。

 

 男は右腕を覆う分厚い手甲を投げ捨てた。

 露わになったのは、異形の右腕。

 しわくちゃになった顔が、右の掌に張り付いていた。


 人面疽という呪術が存在するが、男の奇怪な腕もそれを応用したものだろう。

 開いた掌には複製、縮小された男自身の顔が張り付いている。

 奇形化した欲望を成就させるためだけに顔面の細胞を掌に移植し、顔を増やしているのであった。

 

「俺はなあ、てめえみたいなお上品な顔した女の穴ん中にこいつを突っ込んでやるのがなにより楽しみなんだよぉ。どんな痛みに慣れた豚でも、こいつをぶち込んじまえばどいつもこいつもひでえツラ晒して泣き叫ぶのよ! 俺はそれを特等席で存分に味わい尽くす!」


 言いながら、左手で細い首を締め上げる。

 右拳が女の露わになった腹部を繰り返し繰り返し殴りつけ、荒々しく爪を立てると柔肌を引き裂いて鮮血を飛散させた。


 太い腕から生み出される剛力に加え、何らかの呪術によって凶悪な破壊力を発揮しているようだった。

 強化された肉体が女の身体を徹底的に痛めつけ、破壊し、蹂躙した。


 涎を垂らし、涙を流し、奇声を発しながら男は調子付いて女性の長い両足を強引に開かせた。膝を逆方向に折り曲げ、股関節を脱臼させて蛙のような姿勢をとらせる。男は屈伏させた女にその姿勢をとらせることがなによりも好きだった。


 そして、何の準備も無く、ただ右腕を突き入れた。

 血と肉を掻き分けながら、内部へと侵入していく。

 掌の人面疽が体内の様子を伝えてくる。


 内側から見る光景は格別で、体内から肉を食い荒らす感覚こそ至上の幸福である。この快楽を知らないような男は本物の男とは到底呼べない。


「どうだぁ、この淫売が! 痛いか、苦しいか! 泣け、喚け、赦しを請え! 申し訳ありませんと謝罪しろ!」


「あら、痛みとは赦しを請うようなことではありませんわ」


 あまりにも涼やかな声が即座に返ってきたものだから、最初、それは幻聴に違いないと思った。

 だが、


「それに、大した痛みではありません――どんな男性のものだって、赤ちゃんの頭に比べたら可愛らしいものでしょう?」


 平然と、美しい声が続く。

 おかしい。

 この時点で意識を保っていられると言う事もだが――それよりも、人面疽が男に見せている体内の光景が、何か異常だ。


「もう、仕方の無いやんちゃさんですね。『おいた』はめっ、なんですからね」


 闇をも見通す人面疽の邪視――それが見せているのは、人の体内ではない。

 暗く深い、静かな森。

 月明かりに照らされた、死と静謐に満ちた世界。

 そして。


「な――え?」

 

 この奧に、何かがいる。

 室内の淡い照明が、ふっと消えた。

 女にのし掛かった男は、背後で扉が開く音を聴いた。


 腕を深く差し込んでいるから、振り返ることができない。 

 だが、ずり、ずり、と何かが這いずってきているのがはっきりとわかる。

 わけもわからず腕を引き抜こうとして、いつの間にか人面疽から送られてくる情報が途絶えていることに気付いた。


 男の顔から血の気が引いていく。

 無造作に、右腕を引いた。

 引き抜いた腕の先には、何も無かった。

 ただ鋭利な断面を晒した腕が血を吹き出して震えるだけ。


 叫び声が喉の奥で滞留して、しばらくすると血の泡が溢れ出す。

 ひた、ひたと背後から複数の気配が近付いてくる。

 肩に、触れた。

 

「ああ――ごめんなさい。子供たちが、少しやんちゃをしてしまったみたいです。本当に悪戯好きで――でも、けっして悪い子たちじゃないんですよ?」


「あ、ああ、あ」 


「あら、もう聞こえていませんね――そう。それなら、あなたもこちらにおいでになる? やわらかな土に横たわって、優しい落ち葉の毛布にくるまって。すべての死者と生者は森の中に回帰する」

  

 女は、その胎内に世界を孕んでいた。

 死人の森の、深い闇。

 どこまでも続く永遠の死と再生。


 男の顔に、背後から伸びた白い骨の指が、腐乱した掌が、次々と張り付いていく。撫でるように、慈しむように、その動きには愛情が満ちていた。

 寝台からゆっくりと身を起こすと、解けた蜂蜜色の長髪がしどけなく流れた。

 傷一つ無い裸身を晒したまま、女性は微笑む。


 闇の中に引き摺り込むかのような、それは性と死を喚起する美貌だった。

 激しい恐怖と欲情に錯乱しながら、男は絶叫した。


「い、いやだああああ、死にたくない、助けて、助けてよ、ママーッ!」


「大丈夫ですよー怖くないですよー。ほうら、私が貴方のママですからねー♪」


 悪夢の泡がふわりと浮かび、やがて弾けた。



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