識は見た (2022.1.2)
「好きな人ができたんだ」
何かの聞き間違いだと信じたかった。
でも、彼は確かにそう言った。
夜中、眠いから先に寝ると告げた僕を引き止めて。僕の好きなアップルティーを入れて。
「しーさんよりも、好きな人」
愛おしげに微笑む彼の姿に、発された言葉に、僕の心が締め付けられる。
……この人は、朝も僕に「好き」と言ってくれたのに。
どうして、たった一日で。
「あのね、別にしーさんのことが嫌いになったんじゃないの」
何も喋らない僕を気にしてか、少し慌てたように言う。
僕よりも、好きな人。
ずっと前から一途に愛してくれた輩が、そんなことをぬかしている。
……正直、理解が追いつかない。何を言ってるかわかるのに、何を言ってるかわからない。
いつぞやと同じように、わからないようにしているのかもしれないが。
「なんだけど……だから」
「別れても、また僕の友だちでいてほしいんだ」
まっすぐに見据えて言われる。その目は僕を刺している。違う、いつも通りの優しい瞳なんだろうけど、僕はそれが酷く痛く感じた。
つまりこの彼女バカだった人は、別れようとか言っているのだ。付き合って 年目なのに。
……何年目だろうか。まあ、そんなことは結局何だっていい。「付き合ってどのくらい?」と質問されても「大体六年とか?」と適当に返しているため、正確なものを記憶していない。別に困らないからいいんだけど。
……いや、または。
こんなことを彼は言っているが、その裏には「もうしーさんと居たくない」があるのではないか。
僕といても楽しくないとか、ドキドキしないとか。逆に腹立たしく感じることが多くなったとか、邪魔とか。
だから、ようやく僕を捨てる気になったのだろうか。
……そういうことかもしれない、と考えると、そういうことだったように感じる。
ふふ、と笑みが僅かに漏れる。きっと、しばらくだんまりだった僕のことを不思議そうに、でもいたって平然に見守る彼がいる。
……ああ、うん。そうだよ、識。
僕はそんな子だったよね。
その辺に転がっている「ぼくのもの」を、どっかから適当に取ってきた「ぼくの」鞄に詰めていく。
ただただ詰めていく。無心に。
きみからもらったものは拾わない。詰めない。
その様子を彼はぼーっと見ていたのだろうか。意図して声を脳から排除したし、視界に彼を入れないようにしていた。
やがて一通り詰め終わって、玄関へと向かう。
後ろに気配を感じたけれど、振り返らない。
……振り返ると、きっと泣いてすがってしまう。僕のことを捨てないで、他の女のところに行かないで、ずっと僕だけのもので居て。
でも、それは彼の幸せに直結しない。
だから、離れる。そこに僕の意思をいれてはいけない。
靴を履く。
「どうか、お幸せに」
できる限り明るい声でそう告げて、先の見えない暗闇へと飛び出した。
◇◆◇
……むくっと起き上がる。右手をぐーぱーさせ、頬に手をやり、引っ張ろうかと考えて、少しだけ驚く。
「……」
朝起きたら、涙を流していた。
そんなシチュエーションを聞いたことがある。あれは訳もわからず、だけど。
隣を見ると、すやすやと静かに息を立てて眠る彼がいた。
途端、再び溢れてくる涙を一生懸命拭う。
「……そうくん」
そっと、呼びかける僕の声は、震えていた。
それもそうか。泣いているのだから。
鼻もすする。
ずびずびすんすん賑やかだからか、少し不愉快そうに彼が「うぅ……」と呻いた。どこか気だるそうに瞼を開ける。透き通るような青い瞳と交差した。
「どしたの、しーさん」
心配する声の中に、眠たそうなのが混じっている。そんなところが可愛らしい、とか考えて、また涙が流れる。
いよいよ緊急事態だと思ったのだろうか。体を起こして僕に抱きつく。僕より遥かに大きな手で頭をゆっくり撫でてくる。
暖かい。
とくん、とくんと静かに跳ねている彼の心臓に耳を澄まして目を閉じていたら、寝不足だったのだろうか、すぐに眠ってしまった。
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