男装領主の結婚
あかさ001
男装領主の結婚
ソルティレイユは代々ヴァーリ家が治める領地である。
穏やかな気候と豊かな緑が特徴的な土地で、広大な農地で育まれる農作物は国内でも指折りの品質だと名高い。その上、主要都市であるバレッタは交易も盛んで、農作物と引き換えに外からやってくる多くの品物が絶えず行き交っているため、一旗揚げたい商人がこぞって集まる活気のある都市となっている。
といってもそんな評判が定着しつつあるのはごく最近になってからだ。それまでは豊かではあるがいまいち寂れた印象がぬぐえないパッとしない土地というのが大方のソルティレイユの心証だった。それを変えたのが当代のヴァーリ領主というのは領民であれば子供でも知っている共通認識だ。
数年前、先代のヴァーリ領主が急逝し、当時十代の息子が跡を継いだ際は領民ともども戦々恐々としていた。この時代、無慈悲な領主が重税を課したり、無茶な改革を行おうとして領民を疲弊させたりすることは珍しくもない。先代のヴァーリ領主は特段目立った功績もないが、リスクを冒さず地道な統治をしており、領民からも評判も悪くなかったから、どうか今の平和な日常が壊れないように、と皆願っていたのだ。そしてその願いはいい意味で裏切られた。
革新的というほどではないが、先進的な政策。無理が生じない程度の土地開発は元来肥沃であった大地をより活性化させた。次第に豊かになっていく生活にどうやら今代の領主が優秀な人物であるらしいとの評が確立するのはあっという間だった。
__だが、この若き当主が特別なのはその手腕だけではなかった。
初めて彼が当主としてバレッタの街を視察に訪れた際は、馬上にまたがる男の姿に誰しもが釘付けになった。領民が領主に求めるものといえばその統治手腕くらいのもので本人の人となりなど究極的にはどうでも良い。生活が脅かされることがなければ悪人であろうが醜男だろうが、さほど問題にはなり得ないのだ。
だが、そういった前提すらも覆すほどにその男の容貌は際立って美しかった。有名劇団の花形役者もかくやというその麗しい顔立ち。悠々と馬に乗り、まっすぐに伸びた背筋で部下に指示するその姿を見て、あれが自分達の領主だと言えることにどこか誇りのようなものが芽生えた。その感想は身内のひいき目だけではないようで他所からやってきた人々からも頻繁に良い評判を耳にする程。
ソルティレイユの民草が今代領主クリス・フォン・ヴァーリを自身らの主だと認めるようになるのはあっという間のことだった。
そして、そんな我らが誇る領主にどうやら吉報が訪れたらしい。そんなわけで近頃のバレッタの街はどことなく浮かれた雰囲気に包まれていた。
__クリス様がご結婚なさるらしい! それもお相手は男爵家のご令嬢で、壮絶な大恋愛の末、ようやく結ばれたんだとか!
くだんの男爵令嬢であるエヴァは自身の嫁入りが領民にもとんでもない誤解のされ方をしていることを知って困惑した。普段であればヴァーリ家が用意したという立派な馬車の乗り心地に歓喜しているところだが、今日という日はそんな気になれなかった。
「何がどうしてそんなことに……」
「ああ、おいたわしやお嬢様……」
思わず眉を下げたエヴァを見て、唯一実家からついてきてくれた幼少期からの使用人が悲壮な表情で目元にハンカチを当てた。今のエヴァの状況を正しく理解しているのは自身と彼女くらいだろう。父ですら、誤解したままなのだから。
小窓から見える景色は、広大な農地と山々で埋め尽くされていて、噂通りのソルティレイユの肥沃さをありありと感じさせた。狭く荒涼とした実家の領地とは比べるべくもない。緑に癒されると同時に遠いところまで来てしまったという少しの寂寥感が胸に去来した。
これからはこの土地が自分の住処となるのだ。心細さを感じるのもこれで最後にしなくてはならない。あまりにも一足飛びではあったが、自身は決して不幸な嫁入りをしたわけではないのだから。この土地の人々にも、夫となる方にもできる限り自分のことを受け入れてもらいたい。そのための努力をする覚悟ならしてきたつもりだ。
エヴァの実家にヴァーリ家からの使者がやってきたのは2か月前のことになる。ヴァーリ家といえば、近頃何かと話題の絶えない名家だ。その上、家格の上でも男爵家である我が家より上位の相手とあって、小心者の父が顔を青くしていたのを覚えている。だが、届けられた文の内容が婚約願いと知ってからは見る見るうちに上機嫌となった。どのようなことが書いてあったのかエヴァは見せてもらえなかったが、どうやら文によるとヴァーリ家当主のクリス様とエヴァは以前から恋仲でこの度ようやく婚約の許しが出たらしい。勿論、エヴァにそのような覚えはなく、必死で否定したが、父はそれを照れ隠しととったのか、何を言っても私はわかっているよ、とばかりに生暖かい笑みを浮かべるのみであった。数多の誘いがある筈のヴァーリ家の奥方に自身の娘が選ばれたというのだから、喜びのあまり視野が狭くなっていたとしても無理もないことなのかもしれない。昔なじみの使用人だけはそんな父に憤懣やるかたないようだったが。そんな訳で、今年十七歳になるエヴァはあれよあれよといううちに嫁入りの馬車に乗せられ、婚約者の待つソルティレイユの地にやってきた。
貴族の娘が顔も知らない相手と結婚することなんてざらにあることだ。男爵家といえど貴族のはしくれであるエヴァにもその覚悟はある。その経緯と相手が少しばかり気がかりではあるが、幸せな家庭を築けるように自分にできるだけのことをしようと思っていた。
エヴァは社交界で一度だけ目にしたことのあるクリス・フォン・ヴァーリのことを脳裏に思い浮かべた。とても奇麗な方で常に多くの人が彼の周りを取り囲んでいたのをよく覚えている。いったいどんな方だろうか。田舎者の自分でも嫌いにならないでいてくれるだろうか。自分は彼にいったいどんなことをしてさしあげられるだろうか。めそめそと泣く使用人をよそにエヴァはそんなことばかり考えていた。
ヴァーリ家の応接室に通されたエヴァは、目の前の美青年が言い放った言葉に思わずぽかんと口を開けてしまった。
「今なんとおっしゃられたのでしょうか?」
「だから、私の本当の性別は女だと言っている」
紫水晶の如く透き通った眼差しに至って真面目な光を宿して、ヴァーリ家の若き当主__クリスは突拍子もないことを言った。
エヴァはなんと返せばいいかわからず淑女としての振舞いも忘れて口をぱくぱくさせてしまう。冗談でも言っているのかと思ったが、クリスはその奇麗な顔立ちに怜悧な表情を浮かべたまま、まっすぐにエヴァの目を見つめるのみだ。
「さ、さようでございましたか……」
やっとのことで絞りだした声は震えていたかもしれない。釘を刺されたのだと思った。彼の黒曜石のように艶めいた黒髪と彫刻もかくやという整った顔立ちは確かに中性的で、絶世の美人だと言われても違和感はない。だが、いくらなんでもはい、そうですかと信じられるほどエヴァは単純では無かった。
つまりはエヴァとは夫婦の契りを結びたくはない、だがヴァーリ家にも何らかの事情があって仕方なく結婚したのだから勘違いするな、ということだろう。何らかの裏があるだろうとは思ってはいたが実際に自身の置かれた状況を鑑みると、エヴァはなんだか悲しくなってしまい、涙腺が緩むのを必死でこらえなくてはならなくなった。こんな風なら直接お前と夫婦になる気はないと言われたほうがまだましだった。誰が聞いてもわかるような嘘をつかれるのは相手にされていないようで、それは嫌われるのよりも辛い。
「待て、何か勘違いしてるだろう」
エヴァが俯きかけたところで、今まで感情の気配を感じさせなかったクリスが少し焦ったように言葉を挟んだ。
「別に私は嘘でお前を退けようとしているわけではない。私は正真正銘の女なんだ。なんなら服を脱いで見せてもいいが、まずは話を聞いてくれ」
それからクリスは淡々とした調子で自身の半生を語った。
今は亡き、先代のヴァーリ領主の夫婦はどうやらずいぶん長いこと男の子供に恵まれなかったらしい。クリスには6人の姉妹がいるというのだから、前領主の悩みは相当に深かったのだろう。貴族の女にとって嫡男を産めないことは恥でしかない。先代の奥方は大いに周囲に責めたてられたという。やがて側室を取るべきだという話が持ち上がり始めたことで、愛妻家であった前領主は大いに悩み苦しんだ。新たに娶った側室が嫡男を産めば、奥方が酷い境遇に陥ることは明らかだったからだ。そこで、彼は決断した。次に生まれる子供がもし女の子であったとしても、男として育てようと。そうすれば今の奥方への中傷も一時的に収まる。後に本当に男が産まれた時にそちらを嫡男とし、折を見て女に戻せばいい。そうして産まれたのが、クリスだった。
だが、そんな前領主の目論見はあまりうまくいかなかった。というのもクリスはあまりに目立ちすぎたのだ。利発な彼女は幼少期から優秀さを発揮し、その容姿も含めて一族の中で注目を浴びてしまった。さらにクリスの後に産まれた子たちもやはり女ばかりで、本当の嫡男が産まれる目途もいつまで経っても立たなかった。そういった長年の悩みが身体を蝕んだのか、街へ視察へ出かけたとある日に、前領主は病に倒れた。そしてすぐに領主を引き継ぐ人間を選定することになったが、会議の場が奮狂することは無かった。まだ十代と若いがクリスであれば安心して役目を任せることができる、というのが事情を知らない者たちの共通認識だったからだ。そうしてとんとん拍子に話が進んでいき、クリスは男の振りをしたままヴァーリ領主になってしまった。
「ここで問題になったのが、私の婚姻についてだ。他家から婚姻の申し入れはひっきりなしにやってくるが、こんな事情を抱えた私がそれを受け入れるわけにはいかないだろう? だから、こちら側から相手を選ぶことにした。おかしな噂を流してしまって悪かったな。周囲を納得させて、男爵家のお前を迎え入れるには必要なことだった」
説明を聞いて、自身の実家が選ばれたことにも納得がいった。
同格以上の家格の相手と結婚した後でクリスの性別のことが槍玉に挙げられればただでは済まないのは火を見るより明らかだ。侮辱と受け取られて、両家の関係に罅が入るばかりか、最悪の場合、裁判にかけられることもありうる。その点、エヴァの実家は貴族社会ではほとんど力を持たない弱小貴族であり、今のヴァーリ家がその気になればどうとでも出来る。
「わかっていると思うが、このことを口外することは許さない。だが、その代わり、お前には出来る限りの自由を保障しよう。目立ちすぎなければ、好きに恋愛をしたっていい」
厳しい表情を浮かべたクリスが、沙汰を下すようにエヴァに言った。つまり、エヴァはやんどころない事情によってたまたま選ばれたお飾りの妻ということらしかった。事情を理解して、どこか胸がすっと軽くなったのがわかった。
「自由にしていいのですか?」
「ああ、私はお前を縛らない」
断言されてエヴァはようやく笑みのようなものを浮かべることが出来た。この応接室に通されてから、自分は目の前の人物から拒絶されているのではないかという不安にずっと支配されていたのだ。だが、そうではなかった。
「では旦那様、私はあなた様が安らげる家庭を作れるよう精一杯努力することにいたしますわ」
微笑んだエヴァに、クリスが目を丸くしたのが印象的だった。
「一体何なんだあいつは……っ!」
領主の執務室で黒髪の美青年が御髪を振り乱して感情的な声を漏らした。怒りの出所は当然この部屋の主であるクリスだ。部屋の扉は厳重に締め切っているため、声が外に漏れるということはない。おかげで普段は冷徹とも言えるほど理性的なクリスが狂乱する様を目の当たりにしているのは彼の妹であるフレンのみであった。
「突然呼ばれて来てみれば、いったいどうしたというのですかお姉様」
「……すまない、フレン。おかしなところを見せてしまった」
「それは良いのですが、お姉さまも晴れて新婚となったのですから、さぞお幸せにしているかと思えば……何か嫌なことでもございましたか」
そう。この姉はつい一か月ほど前に可愛らしい奥方を迎え入れたばかりであった。花嫁であるエヴァはフレンからしてみれば義姉にあたるが、同じ屋敷に暮らしているから、当然面識はある。貴族の女性とは思えないほど親しみやすく、顔を合わせればいつもあちらから話しかけてくれる心根の良さそうな方だった。
「そのエヴァが問題なんだ」
脳裏に彼女の姿でも思い浮かべているのか、苦い顔をしてクリスは言った。
「エヴァに私の事情のことを話したのは知っているだろう」
「それは……ええ、もちろん」
姉が世間に性別を偽っていることはヴァーリ家の秘中の秘事であるから頷く動作も自然と重くなる。まさかエヴァが秘密を漏らしでもしたのか。そうであれば大問題だ。ヴァーリ家の全ての力をもって彼女の口を封じるために動くことになる。
「それなのに彼女はいつまで経っても私の本当の妻のようなつもりでいるようなんだ」
「は?」
思わず実の尊敬する姉に向けるのにそぐわない言葉が漏れてしまった。ようなつもりも何もれっきとした妻なのだが、この人はいったい何を言っているのだろうか。
「具体的にはどのような……」
「例えば、いつも仕事終わりには疲れていないか聞いてきて、香りの良いハーブティーを入れてくる」
「……いいお嫁さんですね」
「それだけじゃない。実家では料理が趣味だったのだと言い出して、週に一度は手料理を振舞ってくる」
「お口に合わないのですか?」
「いや……驚くほど美味い」
「いいお嫁さんですね」
フレンは直前まで張りつめさせていた気を抜くことにした。これは単なる惚気だ。姉はフレンの目が生暖かいものに変わったことに気づいていないようで、深刻そうな表情をしてまだ何か言い連ねている。
「奴はいったい何が目的だ? 私を懐柔しようとしているのか? 」
明らかな邪推をぶつぶつと呟く姿ははた目から見れば、挙動不審な人間そのものだ。真面目で優秀な姉は性別を隠していることもあってか、いつも完璧な姿しか見せないため、こういった姿を露わにするのはかなり珍しい。境遇を考えれば、それは当然のことだろう。自身のミス一つでヴァーリ領を揺るがしかねない秘密を姉は産まれた時からずっと抱えているのだ。その要因は両親の軽率な考えによるものだというのに、彼女は文句ひとつ言わず、今の今までその才覚と努力で領主の仕事を完璧に全うしている。
そんな姉をすぐ近くで見てきたフレンは彼女にばかり苦労を押し付けてしまっていることにずっと罪悪感のようなものを感じていた。自分にできることは少ないが、姉が幸せになるためであれば、どんなことでもできると常々思っている。
だから姉が結婚すると聞いたときは心配したが、あの陽だまりのような雰囲気を持つ少女が姉を変えたのだとすればそればフレンにとって喜ばしいことだった。
「それで他にどんなことがあったのでしょう」
「……フレン、何をにやにやしている。何も面白い話はしてないだろう」
「そうですねー」
フレンの反応にどことなく不満そうな表情を浮かべた姉は、整った眉根を寄せて言った。
「とにかく、私はあいつに自由にしていいと言ったが、どうやらあまり意図が通じていないらしい」
「はぁ……」
自由にされた結果が、今なのではと思うがフレンはひとまず黙っておくことにした。
「私は女だ。ゆえに奴の真の夫にはなれないんだ。今はあまり実感がわかなくとも、そのうちエヴァも私が期待に応えられないことに気づくだろう。その時にがっかりされたような顔をされるのは真っ平だ」
姉は苦しそうに呟いた。
フレンは今になって姉の心境を理解した。ずいぶん前にこの人の心に刻まれた傷はまだ癒えていなかったのだ。フレンは慎重に言葉を選んで口にした。
「エヴァ様があの方のようになると思っているのですか?」
「……さあな。今はまだわからないが、近づきすぎてからでは遅いんだ」
心を隠すように視線を窓の外にやった姉はそれきり口を閉じてしまった。こうなった姉がもう本心を明かすことはないというのは長い付き合いの中で知っていた。気持ちを押し殺す癖のある彼女にしては今日はずいぶんと話してくれた方だ。フレンは軽く息をついて話題を変えた。
「そういえばそろそろお姉様のお誕生日になりますね」
「……そうだな。だが、例年通り特別なことをするつもりはない」
どうしたことか、姉は自身の誕生日を祝いたがらない。当日になっても身内がひっそりと祝いの言葉を手向けるのみで何事も無かったかのように過ごそうとする。フレンはそれがなんだか嫌でもっと盛大に祝ってはどうかと提案しているが彼女はいつも首を横に振ってしまう。
「エヴァ様にも黙っているつもりですか」
「……さあな」
その反応で意図を察し、フレンは諦めたようにため息を吐いた。
「何故私がこんなものを着なければいけないんだ……」
晴天の空の下、クリスはうんざりした顔で言った。
辺りは見渡す限り、緑が広がっており、そこに差し色としてぽつぽつとシロツメクサの花が咲いている。視線を遠くにやると背の高い木々が生えており、その上には雄大な山の稜線が見渡せる絶景だ。
暑す見渡せぎず、寒くもない絶妙な気候の中で、クリスは生まれて初めてピクニックというものを経験していた。
「まあ、なんて愛らしい」
口元に手を当て、にこにこと微笑んでいるのは見つめるのは一応妻であるはずのエヴァだった。視線がむずがゆくなり、浮上した感情を誤魔化すためにクリスは顔をしかめてそっぽを向いた。
「愛らしい、などと言うな。私には似合わない」
「そのお姿を見て、称賛するなというほうが無理がありますわ」
その言葉に今の自分の姿を意識させられ、クリスは平静を保てていない己を自覚した。普段は詰襟にスラックスがお決まりのクリスだが、今日の装いはまるで違った。薄紫の上質な布地を用いた派手ではないが、優美なドレスを身にまとっている。それはクリスにとって産まれて初めて着る女物の服だった。スースーする足元は未だに慣れず、ずっと隠してきた姿を晴天の下にさらしていることに落ち着かなさがあった。勿論、ここはヴァーリ家直轄の森で事前に人払いを済ませているから、誰かに見られる可能性は低いが、そわそわするものは仕方がない。
それもこれもエヴァが厄介なことを言い出したせいだ。
「お前がこんなわがままを言うとは思わなかった」
「ふふ、申し訳ございません。ですがクリス様はいつも大変なお仕事を頑張っていらしているから、たまにはすべて忘れてありのままの姿でいられる時間を必要だと思ったのです」
女性の恰好をしたクリスと出かけたい、というエヴァの突然のお願いを彼女と距離を取ろうと考えていた矢先であったクリスは当然突っぱねた。だが、その反応にしゅんと肩を落とす彼女を見たら、どうしたことか引き留めてしまっていた。そうして結局、森でピクニックをすることになってしまった。
「私にとっては男装がありのままの姿だ。こんな服装をするのだって初めてなんだぞ」
「まあ、そうなんですの。とっても似合いますのに」
「似合う似合わないの問題じゃないんだ。私の事情は知っているだろ。女らしさは捨てなければいけない」
「でも今ここには私とクリス様以外、誰もいませんわ」
だからこんなこともできます、などと言ってエヴァは突然靴を脱ぎ捨てた。淑女らしからぬ振舞いに驚くクリスを他所にエヴァは草原に駆け出した。
「おい! 危ないぞっ!」
「大丈夫ですわ。私実家の森ではよくこうして遊んでいたのです」
乙女が素足をさらすのははしたないとか、石でも踏んでしまったら怪我をしてしまうとか、クリスの脳裏に様々な心配事が浮かんでは消える。そんな思惑にかまわず、エヴァはクリスを笑顔で手招きした。
「クリス様も真似してみてください。足の裏がひんやりして気持ちいいんですよ」
その無邪気な姿にクリスはなんだかばかばかしくなってしまい、諦めたように自身も靴を脱ぐことにした。きっちりと靴を揃えてから、恐る恐る草原に足を踏み出すと柔らかな草のクッションが足裏を押し返し、確かに心地よい。
「そうそう、良いですね。こちらですよ」
「手招きするな。私は子供じゃないんだぞ」
「そうでしたね、申し訳ございませんでした。遊び慣れていない様子が愛らしくて」
慣れない類の誉め言葉にクリスはどうしていいかわからず、目を逸らすことしかできない。社交界での賛辞であればいくらでもうまく返せるのに、エヴァの前だと些細なことに動揺してしまう自分がいた。
「それで、これからどうするんだ」
「そうですね、実家ではこのままお散歩したりしてました」
「ただ歩くだけか」
「はい。野山を駆け回るのが好きなんです」
「お前は野で跳ね回る兎のようだな。まるで貴族らしくない」
「……そういうのはあまり好きではないでしょうか」
「いや……」
少し伺うように問われ、反射的に否定しかけた。
そして改めて反芻してみて全く嫌ではないと感じている自分に気づいた。よく考えてみれば、クリス自身、貴族らしい貴族というものにはうんざりしていた。そういった輩とは社交界で嫌というほど交流してきたし、自身もあえてそう見えるように振舞ってきた。同族嫌悪のようだが、上っ面を装う人間には飽き飽きしていたのだ。
「……別に嫌いじゃない」
「良かった。クリス様が私に自由にしていいと言ってくださったから、いつも屋敷では私がしたいことをさせていたただいておりました。クリス様はお優しいからいつも許してくださいますが、嫌ではないか少し不安でしたの」
「私が優しいだと? 冷徹の間違いだろう」
「とてもお優しいですよ。結婚した方がクリス様で良かった」
笑顔で告げられた言葉にクリスは硬直してしまった。エヴァの表情を見ても嘘や媚びるような意図は無いように見える。それに彼女はそういった腹芸が出来る人間では無い。
「……そうか」
ちゃんとした男と結婚したかったのではないか、という問いを声に発することは出来なかった。エヴァの言葉に確かに嬉しいと感じている自分がいて、いい加減クリスも自分の感情を認めざるを得なくなった。
「あ、クリス様見てください。シロツメクサの花がたくさん咲いていますよ」
そういって白い花に駆け寄っていく少女の背を見ていると、長年保ってきたぴりぴりとした緊張感が少しずつ剥がれ落ちていくのを感じる。
「小さい頃はよくこの花でかんむりを作って遊んでいたんですよ。クリス様も一緒に作りませんか?」
「とことん貴族離れしているな……」
「ふふ、貧乏な男爵家なんてみんなこんなものですよ」
そう言って一生懸命かんむりの作り方を教えようとしてくるエヴァにクリスはもう抵抗することは無かった。産まれた感情を留めることが出来ないのならば、受け入れようと思った。たとえ、報われる望みが無くとも。
初めてにしてはうまくできた花のかんむりにエヴァは感嘆の声を挙げる。
「クリス様、とても器用なんですね。私よりも良くできてます」
「そうか、ほら」
「え?」
小ぶりなかんむりをエヴァの頭にのせてやると、エヴァは唖然とした顔でクリスの顔を見つめた。
「良く似合ってるぞ。お前にくれてやる」
「……」
いつもはにこにこと微笑んでいる彼女だが、珍しくぼおっとした表情で頬を紅潮させている。振り回されてばかりだったがようやく反撃できた気がしてクリスは笑った。
__男としての期待に応えることはできないが、私は出来る限りエヴァとこうしていたい。そう思うことくらいは許されるだろう。
少し痛む胸を無視して、クリスは自身の気持ちにそう折り合いをつけようとした。
そんな一件があったからといって、クリスとエヴァの関係性が大きく変わることは無かった。少しばかり態度が柔らかくなったのは確かだが、相変わらずクリスは仕事人間であり、クリスからエヴァに対して夫婦らしい何かをすることは無かった。そして変わったことと言えば、エヴァが最近以前にも増して厨房に出入りするようになり、若い料理人の男と一緒にいる姿を頻繁に見るようになったことだろうか。
「最近、エヴァ様と仲がよろしくないと噂が立っておりますよ」
執務室にやってきたフレンはどこか怒ったようにクリスを見た。その視線にクリスはらしくもなくばつが悪そうに目を逸らす。
「別に私とエヴァの仲は何も変わりない」
「そうですか……。ではエヴァ様と一緒にお食事されるのを止めたのも、最近エヴァ様がいつも悲しそうにしていらっしゃるのもお姉様とは無関係ということなんですね」
「……」
明確に心当たりがあるクリスは黙りこむしかなかった。最近エヴァを意識して避けるようにしていたが、第三者の口から告げられる事実は大いにクリスの心を動揺させた。
「……エヴァは最近、どうしている?」
やっとのこと絞りだした言葉にフレンはため息を吐いて答えた。
「とても落ち込んでおられますよ。何かお姉様に嫌われるようなことをしてしまったのではないかと私に相談しにくるくらいです。いつも微笑んでいたエヴァ様があんなに落ち込んでる姿は見ていられません。いくらお姉様であっても教えていただきますよ。いったい何があったんですか」
真剣な妹の目にクリスはいつの間にエヴァがフレンにとっても大事な存在になっているのを理解した。しっかりしている妹だが、エヴァを相手には緩んだところを見せる姿を屋敷の中でもよく見かけた。妹が怒るのも無理はない。罪の意識があるクリスは観念したように言葉を吐いた。
「私は女だ」
「はい。存じております」
「だから、エヴァとはいい友人になれても、夫になることは出来ない。エヴァにとっても男と一緒になって子供を産むことの方が私と一緒にいるより幸せになれると思ったんだ」
厨房で仲睦まじそうに若い料理人と話していたエヴァの姿を思い出す。男女で並ぶ立ち姿はお似合いだと思った。夕食を作っているわけでもなく、いったい何をしているのかと問うても内緒だと言って笑うばかりだった。その微笑みがあまりにも幸せそうだったから、たとえどれだけ心が痛んでもクリスはその痛みに蓋をした。
「だから、エヴァに誰と恋愛しても構わないし、なんなら子供が産まれたとしても悪いようにはしないと伝えた」
「馬鹿ですか」
「そしたら泣かれた」
「当たり前です」
即座に罵倒の言葉を返してきたフレンはずいぶんと呆れた目をしていた。普段は姉を尊敬する姿勢を崩さない妹がこんな態度を取るのは珍しいが、クリスは全てを受け入れるように身じろぎすらしなかった。フレンの眼差しは怒りを帯びていたが、そんな姉の様子を見て、ふっと目元を和らげた。
「お姉様は今までエヴァ様と接してきて、あの方が以前の婚約者と同じようになると信じておられるのですか?」
考え込むように俯いて表情の見えない姉にフレンは言葉を続ける。
「以前の婚約者の方はお姉様を男と思っていた方でしたからうまくはいきませんでした。ですがエヴァ様は最初から全て理解しております。理解したうえでお姉様とああいう風に接しているのですよ。私にはお姉様の伴侶としてあの人以上の方は他にいらっしゃらないと思います」
初めのうちはフレンから見ても、エヴァにクリスへの恋情のようなものはないように見えた。それは恋愛結婚ではないのだから当然のことだろう。それに姉の性別のことだってある。だが、姉とは別の立場としてエヴァに接してきたフレンには不器用ながらも二人が共に過ごした時間の中で、エヴァの中でも何かが変わったのだと思っている。そうでなくては姉のあの言葉で涙を浮かべる程傷ついたりはしない。
「知っている。エヴァは私の想いを否定するような人間ではない」
「では……」
「__ただ」
クリスはぽつりと言った。
「私は怖いんだ。否定しないのと受け入れるのとは違うだろう。いざその時になってやはり受け入れられないと思われるかもしれない。だって生理的なものは仕方がないだろう。そうなれば今の心地の良い関係には戻れない。結婚だって解消することになるかもしれない。私はエヴァを失いたくないんだ……」
切実な言葉が執務室に小さく響いた。その境遇から己の感情を殺し続けてきた姉だからこそ、産まれた感情を失うのを何よりも恐れている。
「昨夜、エヴァに私が男であった方が良かったかと聞いた」
今の今までずっとエヴァを避けていたとばかり思っていたフレンは驚いた。その問いが意味することは暗に何を示しているのか、エヴァに理解できない筈がない。
「……エヴァ様はなんと答えましたか?」
「久しぶりに私から話しかけたものだから最初は驚いていた。でも、すぐに笑ってどちらでも構わないと言った。今では男としての私も女としての私もどちらも知っているから、自分にとっては結局のところ私が私であればそれでいいと」
それは実にエヴァらしい答えだ。たとえクリスが男であったとしても、きっとエヴァの振舞いは今と何も変わらなかっただろう。
「そんな風に言ってくれる人は初めてだった」
窓の外を見て、どこか違う景色を見ているような目でクリスは淡々と言った。
「私はエヴァにもっと私のことを知ってほしい。そして彼女のことをもっと知りたいと思っている。たとえそれでお互いが傷つくのだとしても、エヴァとだったらその痛みすら受け入れたいと思う」
いつしかクリスの言葉は彼女らしい透徹した意思を取り戻していた。立ちあがった姉にフレンはそっと道を開けた。
「どうやら出過ぎたことをしてしまったようですね」
そっとフレンの頭を撫でた姉は少しだけ微笑むと、迷いない足取りで執務室の扉を開けた。
その日からクリスとエヴァが不仲という噂はたちどころに消え去った。それどころか、夫婦仲良く連れ立ってバレッタの街に訪れる姿が頻繁に見られるようになり、領民たちを大いに微笑ましい気分にさせた。
そんなクリスの変化は社交界にも波及していた。いつの間にかクリスが愛妻家というのが皆の共通認識となっていたのだ。そんな側面を見せた覚えはないクリスはいつも不思議そうに首を傾げるが、それを見て周囲の貴族は生暖かい目を向けて誤魔化すように笑った。氷のようだと言われたクリスがエヴァを褒められるたびに簡単に表情を綻ばせるのが理由だと、本人に言える筈が無いのだから。
そんな日常が当たり前になったとある日のこと。
「お誕生日おめでとうございます。クリス様」
そう言ってエヴァが差し出したのは可愛らしい兎を象った飴細工のお菓子だった。
「これは……」
自身の誕生日のことをすっかり忘れていたクリスは突然のことにとっさに言葉が出なかった。エヴァに誕生日のことを教えた記憶は無かったが、フレン辺りが告げ口したのだろう。
「クリス様はお誕生日がお好きではないとフレン様がおっしゃっていたので、直前まで内緒にしておりました。これ私の手作りなんですよ。ずっと厨房で練習していたのでばれないようにするのが大変でした」
クリスはその言葉を聞いて唖然とし、次いで自分の馬鹿さ加減を理解して、次第になんだか笑えてきた。それがばれないように堪えていると、何かを勘違いしたエヴァが眉を下げておずおずと聞いてきた。
「あの、やはり誕生日を祝われるのはお好きではないですか?」
「いや__今、好きになったところだ」
胸を満たす愛しさのままにエヴァを抱きしめると、腕の中で彼女も嬉しそうに笑った。
「とても可愛らしいが、それにしても何故兎なんだ?」
「それは……内緒です」
顔を赤くして微笑んだ彼女に、クリスは首を傾げる。誤魔化すように胸に顔を埋めるエヴァの姿に疑問はどこかに吹き飛んでいき、今自分はとても幸せだと心から思った。
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