ショートショート「水の中の空」
有原野分
水の中の空
「せーのっ」
声とともに、体が宙に浮いた。下腹部からふわっとした感覚が全身に広がる。内臓が浮き上がったのだ。恐怖が私を支配する。
私は声にならない悲鳴を上げた。一瞬が永遠に感じられる。そして私は、咆哮を置き去りにして地面に叩きつけられた。
――違う。水だ。
落ちた衝撃で呼吸ができないほどの激痛が背中に走る。どうやら私は地面ではなく水に落とされたようだ。痛いし、苦しい。が、今はそれどころではない。水だ、水なのだ。どうやら私は溺死させられるみたいだ。もしかしたら、まだ、なんとか助かるかもしれない。
水に落ちた瞬間、体は水の抵抗で瞬間的にバウンドし、さもその場で止まったかのように思えたが、それはほんの一瞬のことだった。
体は一気に沈んでいく。私は最後の空気と希望を目一杯吸い込んだ。しかし、正常な思考が出来るわけもなく、痛みと恐怖でパニックになった私は、もうそこに希望なんてものを一切感じている余裕はなかった。
冷たさが激流の中で暴力的に私を襲う。
――ああ、なんで、私が……。
私は水中で必死にもがいた。苦しい。助けて。死にたくない。鼻の奥が徐々に水に侵されていく。ごぼっと喉がなった。吸いたい。空気がほしい。手足は縄で縛られている。もがいたって、動くのは指ぐらいだ。もう、限界だ。
蒸せて嘔吐してしまう喉の奥に水がなだれ込んでくる。胸が引き裂かれそうなほど痛い。燃えている。私の肺が燃えるように痛い! 苦しい。痛い。もはやどっちが上かも分からない。死ぬ、死ぬ、死ぬ――。
――あなた、ごめんなさい。
もう会えないなんて、私、死ぬほど悔しい。あいつらを殺したい。私に力があれば、私に知恵があれば、私に時間があればきっとこんなことにはならなかったかもしれない。そして、私たちの間に子供がいれば、私仕事なんてきっと辞めていたに違いないの。でも、もう手遅れ。後悔したってなんにもならない。もうすべては終わり。
ふと、体が底に着いたのが分かった。
私は目を静かに閉じてみた。
気がつけば、あんなに苦しかった痛みを感じなくなっていた。
水の流れが肌で分かる。静かに、力強く流れている。私の未来も流されていく。
もう、私は、この世にいない存在なのだろうか。今まで精一杯生きてきたが、無駄だったのだろうか。あいつらに殺されるのが私の運命だったのだろうか。
いや、もう考えるのはよそう。もういいんだ。もう、終わりなんだ。
それにしても、どうして私は今、こんなに落ち着いているのだろう。死ぬということは、案外こんなものなのかな。それだったら、もっと早く死ねば良かった。誰にも迷惑をかけずに、あなたにも悲しい思いをさせなくて済んだのに。
――そういえば、あなたは子供を欲しがらなかった。
きっと、酸欠なんだろう。頭がぼんやりとしている。
日光が私の瞳にまぶたを通して入ってくる。柔らかい乳白色のあたたかい光だ。目の前が黄金に輝いている。なんだろう、不思議な気分。まるで雲の上に浮かんでいるみたい。なんだかいい夢が見られそうな気がするわ。そうだ。今度、彼にも教えてあげないとね。ああ、それにしてもなんて気持ちがいいのかしら。水の中なのに、透き通った青空の中に浮かんでいるみたい。ふわふわと漂っているんだわ。
私、本当に知らなかったわ。水の中がこんなにも穏やかで、あたたかいなんて。こんなに素晴らしい世界があったなんて。もう悩む必要もないし、苦しむこともない。とってもステキ。私、生まれてきて良かったわ。こんなにも素敵な世界に出会えたんだもの。ああ、神さま、ありがとう。
水の中には、空があった。ふんわり、のんびり、ゆったりと、私は魚と一緒に揺れている。太陽の光を全身に浴びて、黄金の草原が目の前に広がると、ほら、見つけた。生きている素晴らしさを――。
ショートショート「水の中の空」 有原野分 @yujiarihara
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