五章2
*
「彼は私のための上等な酒だ。誰も手出ししてはならぬ。とくべつに部屋に閉じこめておくように」
アンドソウルの命令で、ワレスは東の内塔の自室につれていかれた。どうやったのか、ギデオンがかけた鍵はひらいていた。なかは無人だ。もちろん合鍵はあるが、同室の部下にしかわからない場所に隠してあったのだが。
「入んな」
ワレスを連行していくのは、もと部下のドータスだ。ニヤニヤ笑っているところは、まだワレスが砦に来てまもないころ、何かというと盾ついてバカにしてくれたころの彼を思いだす。その口にするどい牙さえなければ。
「隊長さんよ。おとなしくしてたほうが身のためだぜ。さあ、入んな」
背中を押されて、なかに入る。ワレスは扉を閉められる前にふりかえった。
「ドータス。お願いがある。ハシェドをつれてきてくれないか。彼に会いたい」
ニヤついたまま、ドータスは答えない。もともと頭のいいほうではないから、怪物になって、ますます劣化してしまったのかもしれない。
「ドータス。たのむ」
「まあ、いいぜ」
「そうか。助かる」
だが、ドータスの目は、赤く光ってワレスを見つめていた。
「そのかわり、いいだろ? あんたの血、ひとくちでいいから吸わせてくれ」
舌なめずりして迫ってくるドータスに、ワレスは嫌悪感で寒気がした。なんだか自分がたった一人、魔物の城にさらわれてきた、かよわい姫君のような、変な気分になる。
「おれ、ずっと前から、あんたに憧れてたんだ。なあ、いいだろ? 寝るのはもうムリだしよ。血ぐらい吸わしてくれ」
ワレスがためらっていると、廊下で声がした。
「何をしているんだ。ドータス」
その声……。
あやうく、涙がこぼれそうだ。
(よかった。生きて……)
ハシェドがドータスを押しのけて室内に入ってくる。
「ワレス隊長に手を出してはいけない決まりだろう? こんなことしていいのか?」
ドータスは怒り狂った。
「あんたの知ったこっちゃねえ。今さら階級なんか関係ないんだぜ」
「そうだとも。おれはもう分隊長ではないし、おまえも兵隊じゃない。でも、おまえのご主人に知られて、始末されてもいいのか?」
ふいに、ドータスはひるんだ。
(始末される?)
方法があるのだ。だからこそ、初めの犠牲者たちは悪魔化しなかった。
(そうだ。たしか、アブセスが言っていた。今度の魔物は血だけでなく……)
考えているうちに、ブツブツ言いながら、ドータスは出ていった。
「気をつけてください。ヤツらはもう、あなたの知っている人間じゃないんです。みさかいなく血を欲しがる、ただの獣ですよ」
憤慨するハシェドを見て、ワレスは心から安堵した。
(ハシェドはまだ毒牙にかかっていないんだ)
同時に朝からの疲労を感じて、ワレスはベッドにすわりこんだ。
「おかげんが悪いのですか? ワレス隊長」
「ああ、少しな」
「少しじゃないですよ。だいぶ顔色が悪い」
「ずっと走りまわっていた。あまり食事もとっていないし」
ハシェドの澄んだ
「おしまいだ。何もかも。おれのせいだ。こんなことになるのなら、さっさと初日に、おれが一人で死んでおけばよかった。アブセスが死んだ。ロンドも。ジュールも。エミールは本物の悪魔になった」
おれの愛した人たちは、みんな死んでいく。母も、妹も、弟も、恋人も、友人も、みんな……。
「おまえが無事でよかった。これ以上、誰も失いたくない」
困惑げに歩みよってくるハシェドを、ワレスは抱きしめた。こうなることが怖かった。今のワレスには抑えがきかない。
(でも、かまうものか。いったい、今さら誰に遠慮する必要があるんだ? おれに取り憑いた死神か?)
ワレスは笑いたくなった。今では自分自身が、すでに人ではなくなりつつあるというのに。吸血の欲望が抑えられなくなる前に、自分で自分を殺す。それしか解決の方法を思いつかない。もうワレスから愛する人たちを奪っていく運命の神の顔色をうかがう必要はない。
「ハシェド。愛している」
おまえだけは殺さないでくれと言おう。ハシェドだけは殺さないでと、アンドソウルに……。
(ハシェド、だけは……?)
とつぜん、ワレスはひらめいた。神からの啓示のように。
間違いない。それしかない。
ワレスがたったひとつ、何かを願うとしたら……。
「ハシェド……」
まじまじと、ハシェドを見つめる。どうしたらいいのだろう。だとしたら、契約を破棄するゆいいつの方法は……。
ハシェドが苦しげに笑った。
「いいですよ。おれを殺してください」
ワレスは息をのんだ。
「何を……言ってるんだ」
「おれを殺したいんでしょう?」
「違う。おれはずっと、愛してたんだぞ。わけあって告げることはできなかったが、おれは、おまえを……」
「わかっていますよ。あなたも、もしかしたら、おれのこと、ただの友人以上に想ってくれてるのかなと、薄々、気づいてはいました。どんな事情があるのか、あなたが話してくれるまで、待つつもりでしたが、そうもいかなくなった」
「ハシェド——」
ハシェドは急に険しい顔つきになり、ワレスの上にのしかかってきた。
「殺せ。早く」
「ハシェド……」
「もう耐えられない」
ハシェドの口唇から、あの印が見えた。野獣のような牙——
(あたりまえだ……)
あの血に飢えた亡者の群れのなかに閉じこめられて、ハシェドだけが無事でいられるわけがない。この部屋だって、隠した鍵のありかを知っているのは、ハシェドかクルウしかいないのだから。
(気づかないふりをしていたんだ。ハシェドにだけは、こんなふうになってほしくなかった、から……)
「すまない。ハシェド」
涙ぐんで見あげると、ハシェドは激痛に耐えるように叫びながら、それでも、かすかに笑った。
ワレスは剣をぬき、自分の上に覆いかぶさるハシェドの心臓につきさした。冷たく光る刃を血がつたい、ワレスの胸にすべりおちてくる。
「ハシェド……」
「これで、いい……あなたを傷つけずに、すんだ……」
ハシェドは微笑みを浮かべて、ワレスの上にくずれおちてきた。ワレスは泣きながら、ハシェドの体を抱きしめる。
「ゆるしてくれ。ハシェド。おれもすぐ逝くから」
ハシェドの体から力がぬけていく。愛する人の命が失われていくのを、ワレスは腕のなかで感じた。
はたして、これで何度めだったろうか? 目の前で大切な人を見送るのは。自分のこの手で愛しい命を消したのは……。
「おれのただひとつの願いは、ハシェドが……」
ハシェドがおれより一分一秒でも長く生きてくれること!
ワレスは泣き叫んだ。叫びながら、ハシェドの肉体を傷つける痛みに耐えながら、彼の心臓をえぐりだした。
「思いだしたぞ。アブセスが言っていた。最初の犠牲者たちは、血だけでなく、心臓もその体からぬきだされていたと。人を吸血の魔物に変える悪魔の液体は、心臓に宿る。だから心臓をぬかれれば、魔力を失い、死んでしまうんだ!」
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